戦後の紙芝居 <英訳あり>
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戦後の紙芝居 <英訳あり>
(しんちゃん, 2004/6/25 23:25)
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Re: 戦後の紙芝居2
(しんちゃん, 2004/6/25 23:42)
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Re: 戦後の紙芝居2
(マーチャン, 2004/6/27 20:50)
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Re: 戦後の紙芝居2
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Re: 戦後の紙芝居2
(らごら, 2004/6/28 7:37)
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Re: 戦後の紙芝居2
(しんちゃん, 2004/6/28 7:55)
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Re: 戦後の紙芝居2
(かれい, 2004/6/29 14:38)
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Re: 戦後の紙芝居
(しんちゃん, 2004/6/29 21:40)
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Re: 戦後の紙芝居
(あんみつ姫, 2004/6/30 8:05)
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Re: 戦後の紙芝居
(しんちゃん, 2004/6/30 16:19)
msg#
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投稿日時 2004/6/25 23:25
戦後の何も無い時代の子供たちの楽しみの一つは、毎週巡回訪問に来る紙芝居屋さんでした。特に人気が有ったのは、写真の弾き語りのおじさんでした。
私が昭和25年
《1950年》に初めて手にしたコニカで撮影した写真です。
しんちゃん
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しんちゃん
msg#
この子供たちの真剣な顔つきはどうでしょうか。
見料
《けんりょう=見物料金》は確か5円ぐらいで、飴とか、酢昆布だとか、げそ
《=イカの足》とかを齧
《かじ》りながら、おじさんの伴奏つきの語りに酔いしれているようですね。出し物は冒険もの等いろいろありました。
子供たちの服装は戦後にしてはちゃんとしておりますね。
ではまた、 しんちゃん。
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しんちゃん
しんちゃん
いつもありがとうございます。
引用:
子供たちの服装は戦後にしてはちゃんとしておりますね。
ほんとうに、きちっとしていますね。
それから「板塀」、これは最近見かけませんね。
手前の女の子の胸についているもの、あれ「級長」(学級委員)のバッチではないでしょうか。
マーチャン
マーチャンさん、今晩は。
マーチャンさん学級委員のバッチの件、実に良く見つけられましたね。きっと経験がお有りだったからと察します。
紙芝居は戦後から24年までその出し物に付き全てGHQ(連合軍総司令部)の検閲を受けておったそうです。25年になりやっと解禁されました。
戦前の黄金バットなどが復活し、大人気でした。
この背景になっている場所は、現在の大阪市平野区平野本町界隈
《かいわい=近辺》です。平野といえば、大阪夏の陣・冬の陣
《=1614年徳川氏が豊臣氏をほろぼした2度の戦い》にも戦火に合いませんでした。また戦中の空襲にも一回も合わず終いでした。
昔は平野郷
《ごう》と称し、周囲が堀と池に守られ、その外側は川・田圃
《たんぽ》・畑に囲まれていました。今の外側は1箇所の池を残して全て住宅地で地下鉄が走っております。まして、堀と田圃と畑に囲まれていたと今の人に言えば“ウソ”と答えが返ってくることでしょう。
中心部は現在でもお寺が多く、旧家も沢山残っております。古い町がそのままです。
写真が戦後5年経過していると言えど、子供たちの服装が少し良いのはそのせいでしょう。
ありがとうございました。 しんちゃん
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しんちゃん
らごらさん、お早うございます。
この写真で子ども達が35人写ってますが、後ろのほうの子どもは大半が只見
《ただみ=料金を払わないで》ですよ。
このおじさんは、“紙芝居の1”の方をご覧のようにアコーディンで客よせをやっておりました。
確か“赤いりんご”の曲を弾いておりました。
しんちゃん
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しんちゃん
かれいさん、今晩は。
私自身が紙芝居を見ていたのは、昭和も14~5年ぐらいだったと思います。そのときの見料は10銭
《せん=1銭は1円の百分の一》位だったでしょうか。
型抜きというのが有りまして、これ、指でプチプチと外回りを割ってはずしていき、少しも欠けることなしに型抜きを成功させると、大きなせんべいがもらえました。しかし大概は後一歩のところで、ポロンと大事なところが取れてしまうようになっていて、あ~あ~でした。しかし残念賞の飴玉はもらえました。
しんちゃん
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しんちゃん
しんちゃん こんにちは!
これは珍しい写真が残っていましたね
「紙芝居」は昭和30年頃まであったのでしょうか?
私の記憶しているのは25~6年ですが。
紙芝居のおじさんが来る時間を待ちわびて、拍子木の音が聞こえると飛んで行ったものです(-^〇^-)
見料は確か5円だったと思いますが、割り箸に絡めた水あめを貰って、真っ白になるまで煉った飴を舐めながら、血湧き肉踊る話しの展開を楽しんだものです
おじさんの話し方も、今思えば随分研究されていて、声色
《こわいろ》も色々変えたり、声帯模写
《せいたいもしゃ=他人の声や動物の鳴き声をまねする》も入ったりで、子供の気持を良く捉えていたと思います。
先日(2005/04)、東京の小金井公園でボランティアのおじさんが遣っている「紙芝居」を見ましたが、当時の感激はありませんでした
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あんみつ姫
あんみつ姫さん、今日は。
昭和25年、朝鮮事変がきっかけで、日本は特需
《とくじゅ=特別需要の略で在日米軍が日本で調達する物資や役務の需要》景気に沸き、一部の業種を除き、いくらでも人手が必要な時代に入っていきました。この25~6年を境にして、紙芝居屋さんは急速に減少しました。
27~8年ぐらいだったでしょうか、各家庭にはテレビは有りませんでしたが、町には街頭テレビがあり、放映時間になると黒だかりの人々がそのテレビを見上げていました。
特にプロレスの力道山
《りきどうざん》の放映は大人も子供も大声援でした。
その後、昭和34年の現在の天皇・皇后両陛下ご成婚前後から各家庭に14インチ型白黒テレビが普及しだしましたから、子供たちもわざわざ紙芝居を見に行かなくても、家で面白い番組を見るようになりました。その為自然と紙芝居屋さんは忘れられ歴史の語り草
《=人々の話題となる話の種》に転落していきました。
では、しんちゃん
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しんちゃん