小学校入学記念写真
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- 小学校入学記念写真 (らごら, 2004/6/30 8:56)
- Re: 小学校入学記念写真 (しんちゃん, 2004/7/1 5:47)
- Re: 小学校入学記念写真 (らごら, 2004/7/1 8:52)
- Re: 小学校入学記念写真 (あんみつ姫, 2004/7/8 10:23)
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投稿日時 2004/6/30 8:56
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
しんちゃん
居住地: 河内長野市
投稿数: 20
らごらさん、お早うございます。
なんとどのお子さんも身だしなみきっちりと写っておりますね。
朝鮮京城府にも楠木正成《くすのきまさしげ 注》の騎馬の銅像があるなんて、戦前はどこにもあったのですね。
こちら河内長野《かわちながの=大阪府》の観心寺には正成公の銅像は勿論のこと、首塚《くびづか》があります。戦前に私たちが受けた教育では、正成公は忠義の鏡と教わりました。今は観心寺は観光の名所になっております。
では、しんちゃん
注 楠木正成=1294年~1336年鎌倉時代末期から南北朝にかけての武将[/color]
なんとどのお子さんも身だしなみきっちりと写っておりますね。
朝鮮京城府にも楠木正成《くすのきまさしげ 注》の騎馬の銅像があるなんて、戦前はどこにもあったのですね。
こちら河内長野《かわちながの=大阪府》の観心寺には正成公の銅像は勿論のこと、首塚《くびづか》があります。戦前に私たちが受けた教育では、正成公は忠義の鏡と教わりました。今は観心寺は観光の名所になっております。
では、しんちゃん
注 楠木正成=1294年~1336年鎌倉時代末期から南北朝にかけての武将[/color]
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しんちゃん
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
しんちゃんさん
引用:この写真のすぐ左側が正門で、その左側には二宮尊徳《そんとく=きんじろう》が薪《まき》を背負って歩きながら本を読んでいる銅像がありました。
当時の朝鮮は内地並に日本にあるものはなんでもありました。
朝鮮神宮・京城神社・東本願寺・西本願寺・京城中学校・京城工業学校・京城帝国大学校などなど・・・
京城の日本人小学校は下記の15校ありました。
京城日出小学校・京城龍山小学校・京城南大門小学校・京城永登浦小学校・京城桜井小学校・京城鍾路小学校・京城元町小学校・京城西大門小学校・京城師範付属小学校・京城東大門小学校・京城三坂小学校・京城南山小学校・京城桜ヶ丘小学校・京城昌慶小学校・京城青葉小学校
三越では母親に連れられてお子さまランチを食べました。
鉄道の線路は広軌《=レールのかんかくが標準より広い》でしたから、日本本土の鉄道の線路幅の狭さには驚きました。
引用:
朝鮮京城府にも楠木正成の騎馬の銅像があるなんて、戦前はどこにもあったのですね。
当時の朝鮮は内地並に日本にあるものはなんでもありました。
朝鮮神宮・京城神社・東本願寺・西本願寺・京城中学校・京城工業学校・京城帝国大学校などなど・・・
京城の日本人小学校は下記の15校ありました。
京城日出小学校・京城龍山小学校・京城南大門小学校・京城永登浦小学校・京城桜井小学校・京城鍾路小学校・京城元町小学校・京城西大門小学校・京城師範付属小学校・京城東大門小学校・京城三坂小学校・京城南山小学校・京城桜ヶ丘小学校・京城昌慶小学校・京城青葉小学校
三越では母親に連れられてお子さまランチを食べました。
鉄道の線路は広軌《=レールのかんかくが標準より広い》でしたから、日本本土の鉄道の線路幅の狭さには驚きました。
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
らごらさん、
メロウ倶楽部と交流のある韓国のシニアネット元老坊の
日本語同好会員であるgarishさんのご紹介で、戦後まで
釜山で過ごした日本の方の思い出話しを頂き、かの国と
日本との浅からぬ因縁《いんねん》を知りました。
【600年前の室町時代、子城台と呼ばれる小山の東側に
約300人の日本人男女が住み、小さな寺もあって日本人
町となっていた。】とありました。
長い付き合いがあったのですね。
引用:
日本統治時代に、日本の全てを持って行ったのでしょうか、
歴史の大きな流れの中に、庶民の個々の小さな歴史がある
のですね。
【ソウルの地下鉄は日本の多大の資金援助と寄付《きふ》によって
建設された。20年前私は工事の一端を見た事がある。
パワーショベル等日本製建設機械などの働きが印象に残っ
ている。その当時、韓国では、この工事が日本の手で行わ
れた事を一切報道しなかった。私は大変残念に思った多くの
者の一人である。
釜山の地下鉄はフランスの設計管理、指導のもとに施工《せこう》され、種々のトラブルが発生したが何しろ遠い国の事とて、大変難儀《なんぎ》したと報じられた。日本はソウルに懲り《こり》て釜山を辞退
したという余談がある。】
為政者《いせいしゃ》の都合で、知らせたくない事実、知られたくない
事実があるのでしょう(-_-;)
メロウ倶楽部と交流のある韓国のシニアネット元老坊の
日本語同好会員であるgarishさんのご紹介で、戦後まで
釜山で過ごした日本の方の思い出話しを頂き、かの国と
日本との浅からぬ因縁《いんねん》を知りました。
【600年前の室町時代、子城台と呼ばれる小山の東側に
約300人の日本人男女が住み、小さな寺もあって日本人
町となっていた。】とありました。
長い付き合いがあったのですね。
引用:
当時の朝鮮は内地並に日本にあるものはなんでもありました。
日本統治時代に、日本の全てを持って行ったのでしょうか、
歴史の大きな流れの中に、庶民の個々の小さな歴史がある
のですね。
【ソウルの地下鉄は日本の多大の資金援助と寄付《きふ》によって
建設された。20年前私は工事の一端を見た事がある。
パワーショベル等日本製建設機械などの働きが印象に残っ
ている。その当時、韓国では、この工事が日本の手で行わ
れた事を一切報道しなかった。私は大変残念に思った多くの
者の一人である。
釜山の地下鉄はフランスの設計管理、指導のもとに施工《せこう》され、種々のトラブルが発生したが何しろ遠い国の事とて、大変難儀《なんぎ》したと報じられた。日本はソウルに懲り《こり》て釜山を辞退
したという余談がある。】
為政者《いせいしゃ》の都合で、知らせたくない事実、知られたくない
事実があるのでしょう(-_-;)
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あんみつ姫