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米軍遂に上陸す

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/7/29 11:18
不虻  新米   投稿数: 20

昭和20年8月15日の終戦日………、その日以降は、私も暫く虚脱感、虚無感から脱することが出来ませんでした。
相変わらず暑い日が続いていました。15日までの気温は前に書きましたが、16日以降も東京では連日31℃以上、大阪では連日35℃、そして21日には36℃にも達したといいます。

 そんな猛暑の中で、 軍人は兵も上級士官も一様に早く故郷へ帰りたがりました。皆、苛々《いらいら》しながら復員命令が出るのを待っていました。やがて次々と復員命令が出ましたが、命令の出遅れた者はぶつぶつと不平を唱え、焦慮《しょうりょ=いらだち》を隠しませんでした。
 
 海軍軍需部《ぐんじゅぶ=軍事上必要な物資を扱う部署》は、戦争継続に備えて蓄えていた各種物資を放出し始めました。復員する者は毛布や缶詰や靴《くつ》など貰《もら》って嬉々《きき》として帰って行きました。
 
 街中の治安は保たれていましたが、前途への不安は隠せず、依然として、あらぬ流言蜚語《りゅうげんひご=無責任なうわさ》が飛び交っていました。軍服姿の士官が民衆に取り巻かれ、暴行を受けたという噂があり、職業軍人達も外出には背広に着替へたというだらしない話もありました。

 私も女子挺身隊員《=募集に応じて軍需品の生産などにあたった若い女性たち》を何とか列車で帰郷させてからは、仕事は無くなりました。

………★………★………★………
『8月30日の日記』
日本民族にとって忘れることの出来ない屈辱の日である。
この日、遂に米国の第31機動部隊司令官バッジャー少将指揮の下に、海兵隊1万3千、横須賀に上陸す。

『8月31日の日記』
雨降る。風やや強し。 
アメリカの兵隊は皆若い。そして口笛が好きだ。何かというと直ぐに口笛を吹く。することがテキパキしている。割合に軍紀も厳正。
しかし、単なる噂かも知れないが、早くも暴行事件があったことが伝えられる。………云々《うんぬん》
………★………★………★………
 
今になって当時の記録をいろいろ調べてみても、米軍第31機動部隊や司令官バッジャー少将の名前が全然出てきません。私の日記の書き違えか、………いやそんな筈《はず》は無いと思うのですが、………。

 兎も角《ともかく》上陸してきた米軍のジープを見て驚きました。ジープを自由自在の活用して迅速に行動する彼等を見ては、なるほど、この戦争に勝てなかった筈だと、思わざるを得ませんでした。


 アメリカの兵隊達が何処《どこ》で宿泊したのか知りませんが、彼等が上陸した後の最初の仕事は、恐らく宿泊予定の日本軍兵舎からか、日本軍が使っていた毛布を全部引っ張り出して道路に積み上げ、焼却したことでした。衛生上からのことでしょうが、「勿体《もったい》ないことをするな」とケチな根性が出てしまいました。この年の1,2月の厳寒期に前任地の海軍工作学校で毛布が不足し、兵達が凍えて凍死した者も出たことを思い出したからでした。

 日記に書いてある上陸兵士の暴行事件は、噂《うわさ》では無く事実でした。横須賀では2件、2人の米兵が検索と称して民家に押し入り、女だけと知ると犯行に及んだとのことです。(児島 襄著、「日本占領」より) 
こういう事件は連合国最高司令官マックアーサー元帥も第8軍司令官、
アイケルバーガー中将も随分気を使ったようですが、その後も各地で起こったようです。

記憶がもうおぼろですが、こんなこともありました。私が当直で大きな事務所に一人でいた夜、一人の米兵がこっそり入ってきて、「酒を呉れ」と言うのです。これには思わず笑ってしまいました。物資豊富な米軍が何を言うか。「そんな物が今、我々の所にあるはずが無いではないか」。酒など無いと言うと、おとなしく出て行きました。

横須賀の街中には要所要所、例えば軍艦三笠の前などにも衛兵が立っていましたが、私の見た限りでは温和《おとな》しい兵隊達でした。近寄っていくと、これ以上近寄るなと、手を振って制止するぐらいでした。

 何れにしてもこれから永い永い進駐軍《しんちゅうぐん=占領軍》と日本人の付き合いが始まるのでした。
(終わり)
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