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「大正」という年号決定の経緯

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/2/22 15:10
不虻  新米   投稿数: 20
「大正」という年号決定の経緯
【これは1988年11月に書いた随想なので、数字などは
    もう古いのですが、そのまま記載します】

「大正」という年号決定の経緯《けいい=いきさつ》
1987年のわが国人口は1億2200万人余、このうち大正生まれが約1400万人(総人口の11%)で、人口構成的にも大正はだんだん遠くなりつつある。(因みに《ちなみに=関連して》明治生まれは520万人、4%である)。大正時代は、「大正ロマン}とか、「大正デモクラシー」など一時代を画する《一つの時代を作る》言葉を生んでいるが、ここで「大正」という年号が決定された経緯を述べておきたい。

 明治天皇が崩御《ほうぎょ=亡くなられる》されたのは1912年7月30日のことであるが、西園寺公望《さいおんじきんもち》首相は「非常ニ非礼ノコトダガ、万一手抜カリガアッテハ……」
と懸念《けねん=心配》し、予め《あらかじめ》、元号《げんごう=年号》内案作成を下命した。
内案作成者は、股野内大臣秘書官長、多田宮内省御用係り、岡田学習院教授、高島宮内省図書助《すけ》、国府内閣書記官室・事務嘱託の5名であった。これらの担当者は、第一回内案「永安」、「乾徳」を、第二回内案「昭徳」、「天興」を提出したが、西園寺首相は一覧するや直ちに『「永安」ハ蜀《しょく》ノ大主ガ崩ジタ《ほうじた》時ノ宮殿ノ名デアリ、「乾徳」ハ宋ノ太祖{たいそ}ノ年号、「昭徳」ハ唐ノ昭徳王后ノ名前、「天興」ハ興ノ字繁画《はんかく=字の画数が多い》ニシテ児童ヲ苦シマシムル虞《おそれ》アリ、カツ、拓抜氏《たくばつし=古代中国の帝王》ノ元号ナリ』との理由を挙げ、これらを否決した。結局、第三回内案として「大正」、「天興」、「興化」の順位を定め、枢密院《すうみついん=天皇の最高諮問(しもん=意見を尋ねる)機関1888~1947》顧問会議が「大正」を最善として上奏《じょうそう=天皇に申上げる》し、決定されたと伝えられている。西園寺公の古典、故事に精通していること驚くべきものがあり、とても現在の政治家には望むべくもないが、それでもなお、森鴎外《もりおうがい》は友人に宛《あ》てた書簡《しょかん=手紙》で「大正ハ安南《あんなん》人ノ立テタ越《えつ》トイウ国ノ年号ニアリ、又何モ御幣ヲカツグ《ごへいをかつぐ=えんぎをかつぐ》ニハ及バネド支那《しな=中国》ニテハ大イニ正ノ字ノ年号ヲ嫌《きらい》《そうろう》、『一而止』《いつにしてとまる》ト申候《もうしそうろう》。正ノ字ヲツケ滅ビタ例ヲ一々挙ゲテ居リ候、不調ベノ至《いたり》ト存候《ぞんじそうろう》」と言っている。大正の出典《しゅってん=でどころ》は、周易《しゅうえき=古代中国の卦》「大イニ亨リ《たてまつり》以テ《もって》正シキハ天ノ道ナリ」からである。

 年号はあれば便利だが、一方既に漢字の素養《そよう=平素のたしなみ》も乏しい日本人に対し、専ら《もっぱら》中国の古典の中から適当な文章を引っ張り出して、それを日本の年号とすることが、何とも空しくて、やりきれない感じがしないでもない。
【1988・11・29・記】
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