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「大正池余聞」について

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/2/23 22:19
不虻  新米   投稿数: 20
「大正池余聞」について
   「大正池余聞《たいしょういけよぶん》」について

ある随筆同人会の作品集の中に、上野由美子さんという女性が書いた『大正池余聞《よぶん
=こぼれ話》
』という随筆がありました。この女性は、実は私の小学校入学当時のクラス・
メイトで、旧名を松本延代さんと言いました。

 思い起こせばもう遠い昔のことです。私は大正15年4月に、群馬県草津温泉の「草津尋
《じんじょう》・高等小学校」入学しました。当時この学校は尋常科が1年から6年まで
と高等科1、2年、併せて全校生徒300人。《=旧制小学校制度(1886年設置)》
うまでもなく1学年1クラスで男女共学。それでも私たち1年生のクラスは人数の多い方で
男女それぞれ25名程度、50名のクラスでした。その頃の生徒の服装は?と言えば、ほと
んどが着物と下駄《げた》或いは草履《ぞうり》姿でしたが、その中に洋服姿の、際だって
都会風な一人の可愛らしい女の子がいました。それが松本延代………その頃草津町に新設
された営林署の初代署長、松本秀雄氏のお嬢さんでした。彼女がみんなの憧れの的、今の言
葉で言えば、クラス中のアイドルになったことは言うまでもありません。ところが彼女は3
年生になったとき、父親の転勤で千葉県の方に転校してしまいました。

 その後半世紀経って、図《はか》らずも草津で開催された小学校の同窓会で、この「幻の
美少女」に再会しました。何故再会出来たか、その由来などは余り長くなるので止めておき
ましょう。ただ、その後彼女が送ってくれた同人会随筆集の中で、彼女が書いた「大正池余
聞」をここで御紹介したいと思います。彼女の一文は以前他でも紹介したことがありますが
その際、彼女の了解を得ています。

           ………◆………◆………◆………◆………

大正池余聞 上野由美子

先日NHKテレビの朝の番組で、「消えゆく大正池」という見出しで穂高岳《ほたかだけ》
を背景にした美しい湖が写し出されました。内容は焼岳《やけだけ》からの土石流のために
池は年ごとに浅くなり、やがて消え失せる運命にあるとのことでした。

 大正4年6月6日の朝、焼岳の大爆発と同時に生まれた大正池は今年で62年、そして第
一の発見者であり、命名者であった父も他界し、既に46年の歳月が流れました。父は貧乏
士族《しぞく=旧武士の身分》の長男に生まれ、子供の頃から学問好きで、旧藩主の藤堂家
から奨学金を貰って府立一中を振り出しに、二つの大学で学び、近所の人々は「あの家はあ
んなに息子を教育して一体何様にするつもりなのだろう」と、言っていたそうです。父は
30歳のとき初恋だった母19歳を強引に嫁取り、はじめて赴任したのが信州松本の営林署
でした。

 母は東京を発つとき両親から「こちらから無理に貰ってもらうわけではないのだから、も
し泣かされるようなことがあったら、いつでも戻っておいで」の声に送られて、長い笹子ト
ンネルを通って父と共に松本にやってきて、間もなくだったそうです。

突如《とつじょ》焼岳の大爆発がおこり、父は部下と共に、直ちに現地に向かいました。
その後数日というもの、父からは何の音沙汰もないので、多分火の粉をあびて溶岩の下敷き
になり死んでしまったに違いないと、母はただ泣き暮らすばかりです。夜になって、松本城
の天守閣に青いガス灯《石炭を燃料とするガス・ランプ》がともると、いよいよ悲しくなり
明日こそは東京の実家へ帰ろう、と毎日思っていたそうです。

 それから数日たって、父は喜色を満面に浮かべて無事下山し、「焼岳の噴火で 多量に押し
出された岩石で梓川《あずさがわ》の本流がせき止められ、一挙に華麗な湖が出現した。大
正年間に出来たので、大正池と名付け立て札を立ててきた」と、母に話しました。一朝にし
て日本地図の一部が変更になったのですから、担当責任者としては、ラジオ、テレビなどな
い時代のこと、中央の本省へ報告するための綿密な調査にあけくれたということです。

 昭和になってから、特に戦後には、大正池はアルプスの山々と白樺の枯木を湖面に映した
景観が人口に膾炙《じんこうにかいしゃ=人々の話題になる》し、夏山を訪れる若人は毎年
数万を超えると聞きます。それは最早《もはや》上高地から消し去ることの出来ない印象を
人々に与えています。

 大正池を終世愛した父も、癌で42歳で短い生涯を閉じてしまいましたが、魂は今も彼の
池に留まっているような気がしてなりません。やがて消えてしまう運命にある大正池ならせ
めて私も、もう一度訪れて父を偲び《しのび》、池の最後をこの目で見つめてきたいと思っ
ています。
          (昭和51年10月・記)

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