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一対の灯篭

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/15 19:15
スカッパー  半人前   投稿数: 25

戦後六十数年にもなりますが 戦時中経験したエピソードを 発表すべきか 迷いましたが 残り少ない命を考え 思い切って書くことに致しました 今では考えられない様な事柄が多くありますが 当時の状況を知っていただく為にも後世に残して置くのも歴史の一齣《ひとこま》として 良いことではないかと考え 書かせて頂きました
それは 昭和20年4月 鹿児島県肝属郡串良町《きもつきぐんくしらちょう》での旧串良海軍航空基地での出来事であり この基地は海軍艦上攻撃機の特攻基地でもありました 終戦後串良町はこの旧航空基地滑走路の北端に平和記念塔を建立《こんりゅう》 毎年十月には町主催の慰霊祭を盛大に挙行されており 平和記念塔の台座には此処《ここ》から出撃し 戦死した将兵の銘が刻んであり 当時を偲《しの》ぶよすがになっております

この平和塔の入り口に 一対《いっつい=2個で1組》の灯篭《とうろう》が建てられている
灯篭の台座に次の銘が刻まれてある 右側には「たとへ身は他国の空に散りとても みたまは還れ 母の夢路に」故海軍飛行中尉 上山淳一母ふみ製  左側には「串良基地眠れるみたま安らかに 平和の守り永遠《とわ》に守らん」沖縄周辺の敵攻撃の為二二O五串良基地発進の地 十三期予備学生海軍飛行中尉上山淳一母ふみ製

と刻まれてある 彼 上山少尉(当時)は第251飛行隊所属であり 旧制熊本高等工業卒の好漢《こうかん=好もしい男》であった 日頃基地内で会っても何時も笑みを絶やさない好人物であった 四月下旬沖縄周辺敵艦船の夜間攻撃(特攻ではない)の為 二二O五串良基地を発進 魚雷攻撃終了後反転低空(当時は敵夜間戦闘機の攻撃を避ける為低空で飛行)で帰投《きとう=基地に帰る》についたが 夜間低空での飛行は危険極まりなく 基地のある 大隈半島の基地近郊の山に激突戦死したのである

当時本土防衛の為展開していた陸軍部隊から電話で 飛行機が近くの山に激突したようであるとの 連絡が基地にあり 直ちに捜索隊を派遣 亡骸《なきがら》は笠原で荼毘《だび=火葬》に付し 遺骨は串良町内の正徳寺に安置し 海軍省に引き渡すまでの間預かって頂く事とした
《ところ》が このお寺の檀家《だんか》がこの遺骨の名前を発見 親一人子一人のご家庭の 母親に知らせたらしく 基地内の我が251飛行隊に遺骨の返還の申し入れがあった しかし当時の省令では直接遺族にお渡しは出来ず 先ず海軍人事部に移送後改めて 遺族にお渡しする規則となっており 丁寧にお断り申し上げ 後日 鹿児島市内の海軍人事部に移送した

その後の事は終戦後の混乱で不明であったが 終戦何年か後に串良町の故上山少尉のお宅を訪ね 年老いたお母さんにお会いし 家の裏にある立派な彼のお墓にお参りする事が出来ました 海軍省から遺骨が返された様で 安堵《あんど》した思いがあった

基地から程遠く無い我が家に 時折は帰りお母さんと談笑していたのであろうか 彼の部屋の壁には基地内で写した多くの写真が飾られてあり 彼亡き跡の面影を毎日眺めては思い出されておられると思うと 思わず涙がこみ上げてきた しかしなんと奇遇ではないだろうか 自分の生まれ育った故郷で 近くの山に散華《さんげ=戦死》しかも檀那寺《だんなでら=檀家の所属する寺》に祀《まつ》られ 檀家に発見され 毎日お母さんのお参りがなされていたであろう
広い世の中 親一人子一人のご家庭で 子供を国に捧《ささ》げた家庭は数多く有る事であろうが そのお母さんも今では 浄土で子供と再会し 楽しく談笑しておられると 信じたい。
                 スカッパー
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