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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:21
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 抑留生活を楽しもうといろいろ工夫しては居ったが、何といっても一日も早く帰国したいという気持は頭から離れなかった。そんな中で一番の楽しみは、日本からの手紙であった。寮に帰って玄関の状差し《=ポスト》に自分宛《あ》ての手紙があると、ほんとうに嬉しかった。私のところには頻繁《ひんぱん》に便りがあって、皆からうらやましがられた。帰国した同じ工場の者から手紙の来るのは私くらいで、その点は友達に恵まれたと、心から感謝した。

 私は会社へ行っても殆ど《ほとんど》仕事はせず、毎日日記のように手紙を書き一週間分を纏《まと》めて送った。内地の様子が判り、家族の苦労を知るにつけ、何とかして日本に帰らねばとの気持ばかりが支配した。

 家内を通じ代議士に連絡をとり、天津の英国領事館まで行けばどうにか帰れるような算段《さんだん=やりくり》をしてもらったので、どうにかして天津まで行こうと家内の診断書を取り寄せたりして、天津までの旅行許可を申請したが、どうしても許されなかった。

 家内の生活が大変なのは良く分かるので、いろいろ考えた末、金の延べ板を写真の間に挟み、手紙と一緒に送ったこともあった。こんな事が発覚すれば首になるところだったが、敢《あ》えて実行した。
この事は帰国船の中で初めて残留組の者に話したが、今考えると、良くあのような危険を侵したものだと思う。

 家族が苦しい生活をして居るとき、日本鋼管に居った何人かの仲間が乏しい給料の中から援助してくれた事を手紙で知った時は、嬉しくて涙が出て眠れなかった。

 そうこうしている内に、何となく帰国できるような気配が見えたので、天津まで旅行させて欲しいという申し出は取下げた。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/6/16 19:22
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
帰国

 いよいよ帰国ができると決まったのは二十八年《1953年》四月の初旬だった。全員を集めて第一陣で出発する者の名前が呼び上げられた時は、私もその中に入っているかどうか、死刑の宣告を受けるような気持ちで聞いて居ったが、自分の名が呼ばれた時は飛びあがるほど嬉しかった。

 第一陣の者は家族持ちも全員寮に集まり、諸準備、諸手続きを済ませた後、残る約1/3の第二陣の者達に送られて鞍山の駅から無蓋車《むがいしゃ》で出発した。先ず奉天に行き、鞍山以外から来た者達と合流して一夜奉天での歓送会に出席し、翌日、泰皇島に到着した。奉天と泰皇島での中共側の見送りは実に盛大なものであった。

 泰皇島には既に迎えの船も着いて居り、日本からは共産党員数名が迎えに来て居って、出航前夜彼らが歓迎の言葉と共に現在の日本の状況などを説明してくれたが、我々鞍山組の者には共産思想を背景にした彼等の説明には、余り興味が持てなかった。

 帰国に際し私は日の丸の旗を作ろうと思い、白布と赤布を持ち込んで居ったので、公海に出た後、赤布を丸く切って白布に縫い付け、持ってきたステッキにつけて、立派な国旗日の丸を作った。鞍山組の中で日の丸の国旗を作った者は、他にも二、三人居った。迎えに来た共産党員たちは、我々のこうした態度を苦々しい思いで見ているようであった。

 上陸前夜、他地区からの帰国者(主として鶴岡炭鉱からの若者でミッチリ共産教育を受けた者)、鞍山からの帰国者、迎えに来た共産党員との会合があり、鞍山組からは病院のK君と私が代表で出席した。

 会合の趣旨は、第二船帰国者一同で政府に要望する事項を検討しようと言うものであった。彼等の要望は、国鉄の全線切符をくれとか、全員を無条件で希望の所へ就職させろとか、その他私の
考えでは非常識と思われる事ばかりだった。

 こんな事を一同で打電する事には鞍山組は反対だから除外してくれと言ったが、彼等は一同でなくては力が弱いからと言うので随分激論になった。しかし、結局は我々の意見が通って「第二船帰国者有志」として要望事項を打電する事になった。

 会合が終わってから船長室に行きご挨拶《あいさつ》をしたところ、玉置船長から「今回の帰国者は、第一船の者とは大分様子が違いますね」等と言われた。第一船の者達は、共産党員を相手に思う事も言えなかったのであろうと思われた。日本の様子などいろいろ話しを聞いたり、日本の煙草《たばこ》を頂いたりして暫《しば》し談笑した記憶がある。

 四月二十八日の朝いよいよ舞鶴港に入港した時、私が日の丸を振って歓迎に応えたので、新聞記者達は驚いた様子であった。鞍山組の者達が第一船帰国者とは余りに違って居ったので、その夜、記者団が大勢鞍山組の所へ来て、色々質問された。私は未だ残っている者が無事帰国しなければならぬので、中共を非難するような事は言わず、我々の生活状況とか待遇とか、一般的な話しのみをした。

 帰国列車が長野県に入ると、各駅でお茶や漬物や、郷里の懐かしい物を持って列車に乗り込んで来ては「ご苦労様でした」と言って歓迎してくれた事は、本当に嬉しかった。

        [ 了 ]

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あんみつ姫

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