伊勢物語(昭和編)
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- 伊勢物語(昭和編) (ほのぼの, 2005/10/31 21:38)
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投稿日時 2005/10/31 21:38
ほのぼの
投稿数: 33
あれは兄(規秀)が小学校六年生、私が三年生の時だった。 修学院小学校の六年生は、その頃、一泊泊りで、伊勢神宮に修学旅行に出かけるのが恒例になっていた。 兄もそれをすごく楽しみにしていたのに、急病でもあったのか、肝心の日に兄一人が参加できなくなってしまった。
兄の悲嘆ぶりは尋常でなく、私の両親は、それでは夏休みに家族で「お伊勢さん参り」に行くことを約束し、兄を宥《なだ》めたのだった。 そのお蔭で、私ら家族五人は、昭和15年の夏に、家族旅行をすることが出来た。 思えばそれが、私達家族全員による最後の旅行となってしまったのだった。
8月15日(木曜)の朝早く、京都から汽車に乗り込み、2時間20分をすべて興奮の内に過ごし、やっと宇治山田駅に降り立った。 国定教科書に載っていた写真通りの宇治橋に感激し、五十鈴川の清水で、口をすすぎ、顔を洗った。 緊張の内に内宮、伊勢大神宮にお参りした。 大事に持ってきたスタンプ帳の最初のページに大きな朱印を押してもらった。 少なくとも私にとっては、ものごころ付いてからは初めての、家族揃っての伊勢旅行に、常になく、うきうきしていたのを思い出す。
続いて、外宮にお参りし、その日の泊まりは二見が浦に近い「伊勢や」という大きな旅館であった。 「伊勢や」は表は旅館通りに面していたが、中に入ると、裏は海岸に向かって開かれており、部屋からは京都の家では見られなかった海が見渡せて、兄弟三人は皆、声を出して喜んだ。 裏の海岸はコンクリートできれいに整備されており、それに沿って行くと、二見が浦に通じていた。 私達五人は、その足で、二見が浦、天の岩戸などを巡り、そこにまつわる神話を、本気になって聞いたり、見たりしたのだった。 その頃の神話は、私達子供にとっては、そのまま実話でありそれだけに印象的で、ロマンチックであったと思う。
宿の玄関近くには、ピンポン台が置いてあり、私と兄は早速に、木のラケットでピンポン玉を打ち出した。 珍しくて、とにかく始めての遊びなものだから、二人は、はしゃぎながら、玉を追って大声で走り周った。 急に声が静かになった。ピンポン玉を壊してしまったのであった。 二人は、ひそひそとも話せず、玄関に挨拶《あいさつ》もせず、知らぬ顔して部屋に戻った。 あのことは、今思い返しても、まずかったなアと思うことの一つである。
この日の夜のメニューは「にゅー麺」であった。 当時既に、いわゆる非常時で、旅館の食事も代用食であった。子供達は代用食が好きだったし、喜んで「にゅー麺」を食べたものだったが、隣の団体さんの部屋では、一人の男性が、「私は、にゅー麺は、大嫌いで、とても食べられないから、何か他のものにしてくれ」と言うことで旅館の人と大論議しているのが聞こえてきていた。
翌朝は快晴であった。 二見が浦へ皆で日の出を拝みに行った。 日の出を見ての帰り道、他の旅館のお客が、当時では珍しいカメラを持って、下駄ばき浴衣姿で走って行った。あの人は多分、日の出のシャッターチャンスには間に合わなかっただろう。
私達は日が高くなってから、海岸の近くで、家族全員の記念写真をとった。 太陽がまぶしくて、妹なんかは横を向いて写ってしまったが、一家揃っての、この貴重な思い出の写真は今も手元に残っている。
兄の悲嘆ぶりは尋常でなく、私の両親は、それでは夏休みに家族で「お伊勢さん参り」に行くことを約束し、兄を宥《なだ》めたのだった。 そのお蔭で、私ら家族五人は、昭和15年の夏に、家族旅行をすることが出来た。 思えばそれが、私達家族全員による最後の旅行となってしまったのだった。
8月15日(木曜)の朝早く、京都から汽車に乗り込み、2時間20分をすべて興奮の内に過ごし、やっと宇治山田駅に降り立った。 国定教科書に載っていた写真通りの宇治橋に感激し、五十鈴川の清水で、口をすすぎ、顔を洗った。 緊張の内に内宮、伊勢大神宮にお参りした。 大事に持ってきたスタンプ帳の最初のページに大きな朱印を押してもらった。 少なくとも私にとっては、ものごころ付いてからは初めての、家族揃っての伊勢旅行に、常になく、うきうきしていたのを思い出す。
続いて、外宮にお参りし、その日の泊まりは二見が浦に近い「伊勢や」という大きな旅館であった。 「伊勢や」は表は旅館通りに面していたが、中に入ると、裏は海岸に向かって開かれており、部屋からは京都の家では見られなかった海が見渡せて、兄弟三人は皆、声を出して喜んだ。 裏の海岸はコンクリートできれいに整備されており、それに沿って行くと、二見が浦に通じていた。 私達五人は、その足で、二見が浦、天の岩戸などを巡り、そこにまつわる神話を、本気になって聞いたり、見たりしたのだった。 その頃の神話は、私達子供にとっては、そのまま実話でありそれだけに印象的で、ロマンチックであったと思う。
宿の玄関近くには、ピンポン台が置いてあり、私と兄は早速に、木のラケットでピンポン玉を打ち出した。 珍しくて、とにかく始めての遊びなものだから、二人は、はしゃぎながら、玉を追って大声で走り周った。 急に声が静かになった。ピンポン玉を壊してしまったのであった。 二人は、ひそひそとも話せず、玄関に挨拶《あいさつ》もせず、知らぬ顔して部屋に戻った。 あのことは、今思い返しても、まずかったなアと思うことの一つである。
この日の夜のメニューは「にゅー麺」であった。 当時既に、いわゆる非常時で、旅館の食事も代用食であった。子供達は代用食が好きだったし、喜んで「にゅー麺」を食べたものだったが、隣の団体さんの部屋では、一人の男性が、「私は、にゅー麺は、大嫌いで、とても食べられないから、何か他のものにしてくれ」と言うことで旅館の人と大論議しているのが聞こえてきていた。
翌朝は快晴であった。 二見が浦へ皆で日の出を拝みに行った。 日の出を見ての帰り道、他の旅館のお客が、当時では珍しいカメラを持って、下駄ばき浴衣姿で走って行った。あの人は多分、日の出のシャッターチャンスには間に合わなかっただろう。
私達は日が高くなってから、海岸の近くで、家族全員の記念写真をとった。 太陽がまぶしくて、妹なんかは横を向いて写ってしまったが、一家揃っての、この貴重な思い出の写真は今も手元に残っている。