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新京の8月15日 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/11/10 15:01
浮雲  新米   投稿数: 1
 
当時国民学校《=戦時中小学校は国民学校と改称した》4年生だった私は、満州国新京特別市、現在の中国東北部の長春に両親と共に、動物園の西側、第八代用官舎に住んでいた。兄は旅順高等学校の一年生で旅順に居た。

8月9日未明にソ連機による新京空襲、11日にはソ連の戦車が新京に迫ると聞き、父が奉職していた建国大学の構内に関係者の家族とともにこもった。14日疎開《そかい》ということで、ラバの引く荷車にわずかな荷物を載せて、一日行程の郊外の地に着いた。父は大学に残り、母と私を馬上から見送ってくれた。

着いたとほっとする間もなく、私たちを乗せてくれたラバが死んだ。蹄鉄《ていてつ=馬のひずめにつける鉄具》が外れてしまったからだと言うことであったが、当時の私にはそれが本当なのかどうか分からなかった。ただ,ラバは死ぬまで働いたのだ,可哀想なことをしたとの思いは何時までも残った。疎開先の地名は確かではないが,ジョウゲッタンという地名が頭に浮かんでくる。そこは広い牧場であった。

翌8月15日の玉音《ぎょくおん=天皇のお声》放送はその疎開地で聞いた。ただちに大学の構内に戻り、17日には官舎にもどった。同日兄も旅順から帰ってきた。一日遅れていたらどうなっていたか分からなかったそうだが、高校の先生の判断の早かったことで、家族全員揃うことができた。

当時子猫《ねこ》を飼っていたが、疎開に連れて行くことは出来ず、家の一部に猫が出入りできる穴をあけておいた。父は幾度か帰宅して食べる物を置いていたそうだが、それよりも自分で調達した蛙《かえる》、鼠《ねずみ》、雀《すずめ》の方が良かった様で、私たちが帰宅したときはそれらを食べた形跡があった。たった一週間の間に猫の顔つきがすっかり猛獣の様に厳しくなっていたことには驚いた。

私たちはこれから帰国するまでの一年間、国に守られること無く、ソ連兵による略奪,中共軍と国民政府軍との戦闘の弾丸の中に身を潜める日々を送らねばならなかった。
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