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父の応召時の日の丸寄書き <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/1/6 18:09
さんらく亭  新米 居住地: 甲子園  投稿数: 11
 
昨年末にフト思い立ってふだん触ったこともない老母(明治40《=1907》年生。白寿《はくじゅ=99歳》)の古箪笥《ふるだんす》を開けてみたら、亡父(明治32年~昭和62年《1899~ 1987》)が応召したときに戴《いただ》いた国旗日の丸の寄書きが出てきました。当時、出征兵士に武運長久を祈って日の丸に寄書きしそれを身につけて戦地に赴いたものですがそれが我が家に現存するとはまったく知らなかったので驚きました。

昭和20《1945》年3月25日の日付があり当時汽船会社のサラリーマンだった父は既に42才でしたから赤紙が来たとき「俺《おれ》にまで来るとは日本もいよいよ危ないな」と母につぶやいたそうですが国民学校《小学校》6年生の私は日本は絶対負ける筈《はず》がない、と固く信じていました。

寄書きの文は吉田松陰《幕末の志士、洋学を学び、松下村塾を起こして子弟を育てた。捕らわれて刑死》の漢詩?らしく、当時の社長や同僚など46人の署名があり、母に尋ねたら何人かの方のことを記憶していました。亡父(予備役の陸軍少尉)はこれを身につけて応召し、弘前にあった米兵捕虜収容所の副所長として赴任しました。敗戦後の勝者による軍事裁判(BC級)で上司の所長は有罪とされ服役したのに父は訴追を免れて早い時期に復員できましたがそのことを永らく気にしていたそうです。

それ以来ずっとこの国旗は子どもたちに見せることもなく箪笥の奥底深く眠っていたわけです。戦後60年になる平成17年の歳末
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