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抑留中の出来事(平壌)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/4/11 11:30
doze210  新米   投稿数: 0
戦争が終わったとき私は東満州《中国東北部》におりまして、ソ連《ソビエト社会主義共和国連邦》の侵入で延吉の収容所に抑留《よくりゅう=強制的に留め置く》と言うことになりました。日ならずして幸か不幸か収容所からソ連軍の使役《しえき=雑役》に出されることになり、残った部隊の方達に「我々は先に国に帰るがご苦労でもよろしく頼む」と見送られ、兵隊さん100名を引率してソ連軍の補給部隊に配属されました。そこでは市内に散在する自動車の修理、再生の作業に従事しました。残留の方達は予想に反して皆シベリアへ送られたと聞いています。

この部隊は当初満州の延吉にいたのですが、作業の進展に伴い11月末シベリヤの入り口のクラスキーノ(日本軍の抑留者はここから貨車に積み込まれてシベリアの奥地に輸送されました)という所を経て、北鮮の平壌に進駐《しんちゅう=進軍し留まる》することになり、一緒に我々も平壌に移動しました。平壌では旧日本軍の補給廠《ほきゅうしょう》が工場兼宿舎となったのですが、我々抑留組は一倉庫の中に帆布《はんぷ=帆やテントに使用する布》でしきりを作って兵舎としてここで翌年末の帰国まで生活していました。

お話しする事件はこの平壌での出来事です。その日は何かソ連の祭日のような日で作業はお休み、我々も宿舎の将校室で羽を伸ばしていました。10時頃だったと覚えていますが、用事があるからと言ってソ連の兵隊さんが我々将校を呼びに来まして、宴席に参列させられました。

宴は既にたけなわ、彼らもかなり聞こし召していた状況でした。我々にもウオトカが振る舞われ、皆さんかなり良い気持ちになった頃、いきなりあるソ連の将校が私の所に来て、片手の取っ手の着いたホーロー引きの約半リットルのカップを差し出し、それに日本の局方無水アルコールを1びん(約500CC)丸ごと、ジャブジャブと注ぎ、「ダワイ、ぺー」と言って目の前に差し出すではありませんか。

つまり99.9%の純粋のアルコール、勿論エチルアルコールですが、それを全く薄めずに「サー飲め」と言っているのです。私はそんな強烈すぎるアルコールはやったことがありませんので、出来ないと断りました。するとその将校は酒の勢いもあったのでしょう、いきなりアルコールがなみなみと注がれたカップを私の口に押し当て、ピストルまで出して飲まないと撃つと凄《すご》い剣幕。アルコールの強いにおいが鼻を突き気が詰まるばかりでした。

こんな事で殺されるのは真っ平ごめんです。仕方なく押しつけられたアルコールを恐る恐る喉《のど》に流し込み出しました。まるで焼けた火箸《ひばし》を喉から食道にに突っ込まれたようで、思わずカップを口から外そうとしましたら、敵はカップの底に指をあてがって外れないようにしています。仕方なく飲むうちに口が痺《しび》れてきたのか甘さが口中に広がり、気が付いたときは1びんのアルコールを飲み干していました。

この宴席から宿舎までは運動場を横切る距離でしたが、ほうほうの体で宿舎に着きやれやれと思ったのですが、何分くらい経ったか、その内天井と床がくっつかんばかりに目の前が大きく揺れ、更にぐるぐる回り出しじっと腰を下ろしていることも出来なくなり、そのままベッドに倒れ込んで寝てしまいました。

通常ならこれで急性アルコール中毒で一巻の終わりになる所だったと思うんですが当時は軍隊で沢山の部下の兵隊さんを相手に大酒をやったことも多く、十分の耐性が出来ていたのでしょう、それでも目が覚めたのは次の日の夕方、30時間以上も熟睡したことになります。

後でよく考えてみても、あの時は使役に出たことをはじめ、色々総合して本当に運が良かったんだと思うことしきりです。

     doze
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