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80年を回顧した平壌

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/4/12 14:20
自然  半人前 居住地: 横浜(福井)  投稿数: 22
            80年を回顧した平壌
       「平壌に 想い出つきず リラのはな」
              1985年初夏 安藤俊種君記
 彼は小学から中学と共に学んだ同窓であり ソ連《ソビエト社会主義共和国連邦》への抑留《よくりゅう=強制的に拘束する》もご同輩の間柄と知り 交歓の記憶は薄かったが1998年発行の中学同窓会誌の「平壌・下町育ち」との遺稿に接し 奥方が「当時の平壌を思い出していただければ・・・きっと草葉の陰で俊種も喜ぶことだろう」とのあとがきに触発され 戦前の平壌での生活での彼が語りを『』に掲げ これに吾《わ》が敷衍《ふえん=詳しく説明すること》を加え いまは亡き古里の面影を遺したいと纏《まと》めた

 彼は『大正十二年 西暦でいうと一九二三年の正月朝鮮の平壌で生まれた 夜の繁華街 弦歌《げんか=三味線や歌》のさざめき賑《にぎ》あう桜町の一角芸者置屋《おきや=芸者を抱えて住まわせる家》の近くに「櫻湯」があって その向かいに生家があった 白壁の朝鮮式土塀に囲まれた小さな家だった しかしそれは何時しか時の流れに流される様に喫茶店などに建て変わってしまった』と

 僕は大正11年に生まれ その年の秋には桜町に移住して在り櫻湯は町内の常連銭湯だった 君の生家の後の喫茶店には昭和16年頃だったが湯上りの都度立ち寄り コー ヒーで一服と洒落《しゃれ》込んだものである この頃純喫茶は少なくそれが受けたのかいつも客で賑わい マダムはラジオ放送支局の記者の細君とかで仲々モダンなタイプの女史だった

 『平壌は古い歴史や文化を抱えた城下町で高句麗《こうくり》時代の首都でもあった 朝鮮屈指《くっし=優れている》の商業や農業・工業都市として栄えた 又箕氏《きし=殷の貴族・朝鮮王となる》《びょう=霊を祀るところ》や檀君《だんくん=朝鮮民族の始祖》《りょう=みささぎ》などもあり・・・』

 朝鮮建国伝説の「檀君・箕氏」の陵廟は牡丹台公園の一角にあり大同江南岸の楽浪古墳 近くは日清・日露戦役の遺跡もあり 朝鮮の古都の史跡が豊富であった

 『平壌の街は南門町を境に新旧に分かれ 移り住んだ幸町は下町の風情か・・・隣は向かいは何県の人と先祖代々の家などなく町並みは整っていた』

 といえば 電車道を中心に碁盤の目状に区画され 当時三万の同胞は軒を連ねて戸を構え 幸町通りを東西に横切る道立病院への道筋は 黄金町の市電カーブから関金物-沖本陶器-豆腐や-信濃そや-八千代湯-中華飯店-朝日旅館-基督教会-山本雑貨店と続き 商店街とは一味違った庶民の町筋でもあった

 さらに『瑞気山は新市街の中心にあって その麓《ふもと》を東西に走る瑞気通りが街の根幹をなしていた 東に進むと中心街の本町と大和町の間を通って 船橋里それから寺洞方面に行く道と京城に通ずる国道と楽浪古墳への道とに分かれていた 反対に西へ向うと京義線の踏切を越えて 練兵場《=兵営の演習場》アカシヤの並木道を過ぎると大同江の支流普通江 に行き当る』

 瑞気山の周囲は 平壌中学・山手小・府庁・道庁・鉄道ホテル・公会堂・物産陳列場・歩兵77聯隊《=連隊》が連なり 丘陵東斜面には瀟洒な《しょうしゃな=すっきりとあかぬけした》住宅が並び 平壌の山の手の感があった

 『私が住んだ幸町は 毎日訪れる物売りの大部分は朝鮮人で次に中国・ロシヤ人も来たが 富山の薬売りは毎年来て柳行李《やなぎごうり=柳の枝で編んだ物入れ》を大小幾段にも重ねて大きな風呂敷《ふろしき》に包んで担いいで・・ 腰が低く当たりも柔らかく 紙風船・九谷焼の湯呑み・塗り箸《はし》などを置いていった』

 『蛤《はまぐり》の貝殻に入ったピンク色の目薬・メンソレータムに似たイタミサール・赤黒金銀色の丸薬』は 吾が家でも富山の薬の置き袋にも 按摩膏《あんまこう》の貼《は》り薬・下痢止めの赤玉丸薬・熊胆《くまのい》は秘伝の特効薬てあった 彼の語る街の店『幸町公設市場・山本雑貨店・支那饅《しなまん=中華まんじゅう》屋・朝鮮そば屋・黄金町の薬屋・江崎焼酎《しょうちゅう》屋・内田百花店』等への記憶は失せず 中でも八千代町の消防署の見張塔は一際高く新市街を万遍に見張れる赤レンガ造りで ぼやの煙をも見逃さぬ春夏秋冬ひと時の失火も見逃さぬ望楼立哨《りっしょう》の消防士を 通学の都度畏敬《いけい=うやまう》の眼で眺めたものである

  『小学校三年の時一家は 八千代町に移ったその頃露地の様に細い道だったが一、二年後拡張されて南北を走る幹線道路になった 五月の晴天の日である できたアスファルト道路見学に先生が引率して見に行った』

 この頃から 市街のメインストリート電車道の舗装が始まり 新市街から旧市外区へと繋《つな》がり 市電も「西平壌」まで延伸 道庁は牡丹峰西丘陵にコンクリート建てに新築移転し 市の近代化は急促《きゅうそく》に進んでいった

 『因みに《ちなみに=ついでに》始発からの停留場を列記してみよう 平壌駅-東町記念碑前-法院前-幸町-八千代町-黄金町-本町キネマ前-郵便局前-道庁前 -府庁(ミカド前)-南門通(三角公園前)-博九里 -西門通(和信デパート前)-大同門-新倉里-倉田里-平元橋-鏡斎里-平壌神前-七星門-箕林里(グランド前)-西平壌駅 郵便局前から船橋里-寺洞行きが大 同橋を渡って走っていたチンチン電車もボギー車に変わっていった 昭和八年に市内を走る乗合自動車も来・・・』

 何時しか 10万人口の都市は1945年には35万に膨張し西朝鮮の中心都市と発展?したが 終戦を迎えた朝鮮半島は南北独立国に別れ 1945年以前の様相は悉く《ことごとく》消滅し 1986年4月に訪れた同窓の先輩の平壌訪問記で「現在人口に二百万余 箕林里・普通江域 ・船橋里は一面に建物が並び・・・普通門・大同門・牡丹台の楼門が残りいる  通訳に持参の市街図を見せ瑞気山・平中校を聞いたところ全部マン ションが建っているとの返事でした」と語り 当時の朝鮮総督府《そうとくふ=植民地の総督が政務をとる役所》のあった京城は東京に 平壌は大阪に似せたといわれ 上水道・自動電話・タクシー・デパート等々の近代化が充実化していった 『その様な中で』吾等《われら》世代は長じていたのである


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