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あの戦争

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/12/5 7:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
その1

 ・・・実は1931/09/18から始まって居るのですね。
 昭和6年の事です。柳条湖の満鉄《まんてつ=南満州鉄道》線路爆破さる!支那《しな=中国》軍って仕様の無い奴っちゃなんて思ってた14歳の少年は帝国陸軍と言うよりも関東軍《=満州に駐屯した日本の陸軍部隊》の果敢な行動に拍手して居た筈《はず》です。兵隊さんを軍隊なんて呼ばなかった。

 翌7年3月には早くも満州国の建国宣言《注1》。9年には執政の溥儀が皇帝に。
 11年2月26日皇道派《注2》青年将校が決起したが勅命に逆らえず日本軍隊は統制派《注3》(ナチ流)に牛耳られる事になる。此の時から「皇軍」の實《じつ》は消えた《=2.26事件》のだったが凡なる平民は依然として支那人の言う「光軍」の實を履き違えて過ぎた。12年の7月7日盧溝橋での戦闘からが第二幕です。

 当時中野正剛、緒方竹虎ら木鐸《ぼくたく=鉄製の鈴、中国で法令などを示すときにもちいた》を叩《たた》く精鋭記者が残っては居たのだけれど其《そ》の警告は未然に抹殺をされた。馬来沖真珠湾《注4》の時には流石に南京陥落時の提灯行列や旗行列の様な事はしなかったがあの結末を予想する事は出来なかった。弩級艦《どきゅうかん=大型戦艦》大和に対する期待が並でなかったのは確かでした。

 トントントンカラリと《=戦時歌謡の歌詞》隣組《=戦時中町内会の下に作った伝達組織》の人達は虚報の戦果に酔い空爆も艦砲射撃も勝つまではと頑張り通したのだが銃後《=内地》の人達の戦禍は兵隊の比を超えた。
 然かし私の個人例は他人様に晒《さら》すに忍びぬものだが運命の悪戯が如何に理屈を超える物かの実例として次回の話題にしませう《=しましょう》。乞《こう》御期待である。


注1 満州国  満州事変後日本が中国の東北部と東部内蒙古に作り上げた仮の国家。1932年、もと清朝12代の        皇帝、溥儀が満州国皇帝に即位。国は1945年日本の敗戦により消滅した

注2 皇道派  天皇中心の国体至上主義を信奉する旧陸軍部内の青年将校を主体とする一派閥

注3 統制派  参謀など幕僚将校を主体とした軍部勢力の伸張、軍部内の統制を主張する派閥

注4 馬来沖真珠湾  マレー沖、真珠湾、共に太平洋戦争開戦時、日本軍が攻撃開始した場所


その2

 内務班生活を一週間程夢中で過ごした後段々様子に慣れて来ると種々な事が判って来た。
 到着配属されたのが6月21日(出征後10日間掛かって居る)駐蒙《もう》軍独立歩兵十三聨隊《れんたい=連隊》(呼称泉五三一六部隊)入隊となって居る。そして7月16日には厚和独立混成第三旅団独立歩兵第一大隊編入第七中隊配属となり翌17日には豊鎮まで列車で東上、其処《そこ》から自動車で東光火地警備隊に運ばれた。途中は漠々たる《=果てしの無いさま》草原で野兎《のうさぎ》が何匹か見えては消え夕刻に到着した。

 着いた翌日は猛烈な雨で営舎(とは言っても上等な支那《しな》家屋)の前は黄色な泥水が流れをなして居る。其《そ》の中を河南作戦から泥まみれの古年兵達が帰還して来た。黄河の泥が生まれる現場を見て感慨があった。其処《そこ》に三日程居たら命令が来て大同の特別訓練隊に行く事になった。行って見て驚いた。何と保養所である。三食後何もせず煙草を吹かして過ごす毎日。二十日位其処で遊んでから平地泉に集合させられた。冷たい清冽《せいれつ」》な水が豊富な兵営であった。


 その3

8月15日を忘れてはならない。其の日は正装して全員が整列をさせられた。
 誰《だれ》々一歩前。長い点呼が終わると一歩前に出た兵士達は集合し何れかへ向けて溌剌《はつらつ》として営門を出て行った。私は残された口に入ったのだが選抜された連中は本国防衛要員で帰国だと言う噂《うわさ》が流れ残留組の悔しがる事頻りが数日。
 所が豈計らんや《あにはからんや=どうしてそんな事が予測できようか》、一ヵ月程して先発の彼等は釜山からレイテ島へ向かい更に殆ど《ほとんど》が戦う事も無く魚雷の餌食《えじき》になったとの噂。噂は直ぐに真実と知られた。
 一瞬の差が運命を分ける。兵隊のと言うより人間の糾《あざ》なう縄の末は誰の手に。  
 私の禍福を綴《つづ》る塞翁が馬《さいおうがうま==人生の禍福は予測できないというたとえ》の阿弥陀籤《あみだくじ》《けい》線に就いては稿を改めて何れ近日中に。

 一歩前に出なかった為に水漬く屍《みずくかばね=水に浸る死体》を免れた弱兵達は編成替えの上各地に転属私は大同に駐在の独立歩兵第四〇三大隊第三中隊に編入され無煙炭で有名な大同炭鉱警備として永定荘駐在の小隊に廻《まわ》された。小高い丘に在る支那家屋風の兵舎だったが着任同時に将校当番として二等兵二人の当番室勤務となる。

 訓練も無く少尉殿の御呼びが無い限りゴロリの楽々勤務、将校宿舎との間の小庭に咲く尺余《しゃくよ=一尺(33センチ)あまり》の大輪向日葵《ひまわり》から黒い大粒の実を摘んで初賞味は未だに銘記。訓練と称して三里余の大同石佛に行軍が数回、子供の頃観た映画バグダッドの盗賊でダグラス・フェアバンスク扮《ふん》する盗賊が石仏の眼から大宝石を抜く場面が彷彿《ほうふつ=ありありと思い浮かぶさま》として、河原の柳と共に記憶に残る日々だったが或《あ》る日に新命令。

 大同の大隊本部に赴くと思いも掛けぬ暗号班勤務を命じられた。班長を含め拾名程が小部屋に閉じ込められ扉には”将校と雖《いえど》も無断入室を禁ず”の貼札《はりふだ》
 怖い内務班には寝に帰るだけの毎日。作業は複写紙を挟んだ乱数表に数字を列記する事と、暗号書独特の+-計算練習のみ。正に軍隊内の別天地である。
 戦闘訓練など無いので生意気にも髀肉の嘆《ひにくのたん=功名を立てる機会に恵まれない無念さを嘆く》。一と月置き位に有る討伐行には率先して参加を申し出た。六甲山ハイクを想起したのだが流石に問屋の卸は相当外れた《=うまくは運ばなかった》。一般歩兵同様の重装備、背嚢《はいのう=背に負うかばん》鉄帽に弾倉前後弐百四拾発と弐個の手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型爆弾》で約弐拾瓩《キログラム》、其の上に暗号書鞄《かばん》に入れた用紙の重い事。首に掛けた鞄がバランスを安定させない。最初の討伐行では先ず渾源まで二日の行程で足の裏は総革めくり。二日程城内の支那古式官庁屋舎で休養の後、討伐行の始まり。谷の河原を進むと左右に迫る高い崖《がけ》の中程に寺の建物が懸かったりして異風景に目を楽しますが、樹の無い黄土の山に入ると異境感は予想の外。   

 その4

 渓谷から山道に掛かると樹木は段々少なくなり黄土の丘陵が単調に遠く続く。鉄兜《てつかぶと》は背嚢《はいのう》の後にが一般だが重いので頭上に載せる。三八銃《=明治38年に製造された小銃》も結構な重さだ。
 漸く丘の背を越えたかと思うと前方に又同じ様な丘が次々に現れ切りがない。夕刻山中の部落に着くと住民は逃げて誰《だれ》も居ない。部落と言っても家は無い。  
 黄土の崖《がけ》を彫り抜いた穴蔵と思えば良い。然かし考えれば至極合理的である。温突《おんどる》も設備されてる。何回目かの討伐行で大失敗がある。氷点に近い夜の事。馬を一匹屠して《として=殺して》各隊が勝手に切り取って来る。暗闇《くらやみ》の中に有った大鍋《なべ》で煮た。

 不味くて食えた物でない。温突に寝たら疲れで熟睡。翌朝目覚めたら高熱だ。  背中は数十度、胸部は氷点に近いのだから急性肺炎は当然である。出発っ!。
 ガンガンの頭で隊列に付いての行軍は正に夢中。サトコツ サトコツと娘の名を唱えての一歩一歩は今思い出しても良くぞであった。麓《ふもと》の部落に辿《たど》り着き一晩寝たら治った。あの経験が今活きてる。軍隊って不思議な世界ではある。
 珍なる話が今一つ有る。或《あ》る討伐行で偵察に出たら向こうの山稜《りょう》に人影が!将校が撃てと言う。嫌々乍《なが》ら一応狙《ねら》って一発。軍隊経験者はご存じだが実弾射撃の後の銃口掃除は実に面倒だ。弾丸はあらぬ方へ。殺さずに済んでホッ。

 そして之《これ》が従軍中の只《ただ》一発。こんな兵隊は大戦中で私一人切りだろうと思う。山西の山歩き中に一寸した戦闘も有ったが蒼《あお》く深い空のみが懐かしく記憶に。

 その5

 山西省大同でハイキング心持ちの討伐行を連続志願(実は内務班逃避)して暗号班特権に酔って居たら太平洋戦争の方は予想外な坂道を下り始めて居た。
 四月に入ると南進の命令が出てざわついた。小部隊を残し独歩403本隊は軍用列車の客となった。後から知るが米軍抗州湾上陸に備えての移動だった。
 20年4月25日朝昆山駅に到着。線路脇の石炭山に野菊が真黄に咲いてたのが何故か今も記憶に鮮やかだ。強行軍半日で大倉鎮と云う街に着き早速に民家を接収して設営。大きな家屋の中庭に井戸があり戸外には畑が拡がった。
 可愛い姉妹が居り畑の向こうはクリーク《=小運河》を挟んだ竹林で久し振りの娑婆《しゃば=俗世間》気分。

 数日後糧秣《りょうまつ=食料》が河岸に着いた。使役で船から百瓩《キログラム》の麻袋を堤防に揚げる羽目に。
 背骨がミシツ と鳴ったが我乍《なが》ら此《こ》の作業に堪えた体力に感嘆した。考えれば毎日羊肉と一升飯、39瓩《キログラム》の痩身《そうしん=やせた体》が何時の間にか60瓩の兵隊になって居た。

 残飯を桶《おけ》から窪《くぼ》地に捨てる度毎故国の飢餓を想ひ憤慨と感慨はあったのだが。
 軈て《やがて》塹壕《ざんごう=身を隠す堀》資材徴発の指令が来て艀《はしけ=小舟》に乗せられた。各所から集まった艀は連結され気が付けば船列は蘇州運河を通り太湖を渡り一週間程で湖の南岸に到着。

 酷暑の中での松材担ぎは強《きつ》く軍靴の中に汗が溢《あふ》れた。白い胡瓜《きゅうり》を見付けたり小孩《=こども》が田鶏 (蛙《かえる》)を採る姿を眺めて平和な田園風景に半月程が流れて行った。

 往復の船旅は長閑なもので戦争何処であったが三才位の船頭の子がクイツと口走って母親に叱《しか》られた場面では東洋鬼の日本兵として若干の驚きがあった。

 大倉に戻ると住民が騒がしいとの話が聞こえて来た。数日後非常呼集で軍装 直ちに昆山駅まで駆け足、休む間も無く無蓋《むがい=おおいの無い》貨車に乗車。そして南京駅で!!

 その6

 昭和20年8月15日

 
 車上での伝聞ではソ連が満州に侵入して来たので急遽《きゅうきょ》援軍の為の北上との事。
 南京での昼食時陛下《=天皇》の玉音《=天皇のお声》放送があったとの噂《うわさ》が。大倉の民は知ってたのだ。
 揚子江を渡った列車が次々に驀進《ばくしん》する。夕刻に突如、迫撃砲の攻撃を受けた。
 新四軍《しんしぐん=国民政府軍》か八路《はちろ=八路軍(人民解放軍)》か判らないが機銃隊が下車して応戦する。漸く戦争らしき体験。こんな停車を二回程繰り返してやっと天津に着いたら下車の命令が出された。知らぬ街路を行進して運河脇の学校の如き建物に収容された。矢張り敗戦だ。其《そ》れにしても先行の列車は山海関を越えたらしい。塞翁が馬《さいおうがうま=人生の禍福はわからないということわざ》の導きが又もや。
 途中での攻撃に助けられた運命。米軍と中共軍と国民党軍が揉《も》めて居る情況。御蔭《かげ》で日本軍は武装解除もされず完全軍装の儘《まま》で早々に郊外警備に着く始末。
 糧秣厰《りょうまつしょう=食糧倉庫》では党軍《=中国国民党軍》と酒盛り交歓、煉瓦厰《れんがしょう》警備では通信班同居でジャズ音楽鑑賞。
 郊外トーチカ《コンクリートの防御陣地》では日本兵のみ、古兵が一発で仕留めた野猫の鍋《なべ》は不味かった。
 年末に成って漸く武装解除、米軍への使役が始まった。山積みの砂糖に喫驚《きっきょう=驚く》。使役の度に誰《だれ》かが何か盗んで来る。レーション《=米軍の携行食糧》にチョコ煙草二本には驚いた。我が軍の携行は乾パンに金平糖。天津には被服兵器糧秣《りょうまつ》の諸厰《しょしょう》が集まってる。
 戦勝軍に渡さぬ為か豪勢な給与は連日。砂糖が枕《まくら》に煙草は博打《ばくち》の点棒になる。軈《やが》て柵《さく》外に支那人が白乾児酒を煙草と交換に。ストーブに零すと燃え上がる。
 45度の奴をコップで続けれは嫌でも強く成る。使役勤務は二月末まで続き三月始めに帰国と云う事で太沽港に集結した。然かし其処《そこ》で大事件が訪れた。

 LST《アメリカ軍の揚陸艇》は係留され乗船を待つ許りの時、ナカムラ姓の者のみが呼び出された。
 戦犯探索だが尋問の男は朝鮮人?靴を机上に載せてウイスキーを呷《あお》り乍《なが》らだ。
 こちらは直立不動、一言間違えば奈落《ならく=どん底》の運命と身の毛の彌立つ《よだつ》十数分が過ぎ釈放されてLSTの船腹に移ったのも夢の中。船の中は座るが精々の超満員。
 でも聨銀《れんぎん=軍用の紙幣》券数万を叩《たた》いて市中で求めた大型手提げ袋に一杯の加給品を詰めての帰国は後から聞いた限り非常に恵まれた環境にあった兵隊だったのである。


 その7


 LSTに寿司詰めにされ、玄界灘《げんかいなだ》を何日走ったか記憶朧《おぼろ》だが皆が嘔吐《おうと》に走るのに平気だった自分が不思議だった。彼方に緑が見え山となり港となって嗚呼《ああ》祖国に還ったとの感慨も無かった。艀《はしけ》で陸に揚がると噴霧器の列が待って居り頭から靴の中まで真っ白けにされた。其《そ》れから何時間かの峠を越えて後兵舎に入れられた。

 着いた港が南風崎で収容されたのが針尾村の海兵宿舎と知ったのは極く最近の事。
 二三日休養の後に二百円渡されて客車の客となった。こんなに頂戴《ちょうだい》して良いのかと思ったも束の間、駅頭で蜜柑《みかん》を買ったら十円取られた。インフレの味は蜜柑に始まった。帰還列車は特別編成だったろうか広島も知らずに気が着けば静岡駅だ。

 其処《そこ》で珍なる場面が起こった。我輩の生還を何で知ったか不思議だが改札口には妻が見え父母も居る。娘は判らない。此方《こちら》はおお生きて居て呉れたかと万感胸に溢《あふ》れたが先方はキョロキョロしてる。走り寄って声を掛けると驚くまい事か目を丸くして暫し唖然《あぜん》。無理も無い、十一貫《約41キログラム》を探して居たのに当方は何とマア十六貫《約60キログラム》

 出る時双葉山の様で婿探しが大変だと心配させた赤子がすんなり可愛い女の子になって一里の道を手を取って歩いて呉れた。が時々下を向いて何かを拾って居る。釘《くぎ》拾いだと言う。爆撃跡もバラックで埋まった街を堀端から更に田園地帯に向う。
 驚いた事に田圃《たんぼ》の中の二階長屋に案内された。手回しの良い親父を見直した次第。
 背負った大袋から砂糖塗りの乾麺麭《乾パン》を取り出すと喜ぶまい事か正に天津糧秣厰《りょうまつしょう》の大盤振る舞いに再敬礼。先ずは風呂にと案内されたらドラム缶、注意を無視して上がったらアチコチにタールが。生還を祝って特別に米飯と日本酒まで付いてる。

 義母が膝《ひざ》に焼夷弾《しょういだん=さく薬と油を入れた爆弾》の直撃を受けたと言うが他の連中は全然無傷、丸焼けは恨めぬ。
 一晩寝て翌朝二階に上がって窓を開けたら真正面に富士の霊峰が日本晴れの空に。
 帰還二日目からは戦争の恐ろしさを家族から聞く立場に。静岡への空襲も徹底的だった由、市街から外れた西千代田にも火の雨が。娘を乳母車に載せて田圃《たんぼ》の中を逃げ回った妻。逸《はぐ》れた母をあちこちの病院に探し見付けたら死骸《しがい》の間で血塗れ。

 丸々太って還った軍人が戦争の恐ろしさを銃後の婦女子に教えて貰《もら》う変な羽目に。
 誠に以て不届至極なる「私の戦争」奇談。恥ずかしくて人には言えぬのだが懺悔《ざんげ》
 終戦の御蔭で海外取引は途絶。静岡出張所を支店にしたのでそちらに出勤せよとの有り難い辞令が届いて帰国早々に又月給にありつける結構な運命の話此処《ここ》まで。

  珍談は更にいろいろ有れど変な兵隊の一席、先ずは之《こ》れ迄。 後日談は何れまた。

             
投稿者 変蝠林(1917-)。
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