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自分史より (SHIG)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/4/5 7:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦争の思い出

 生まれたのが昭和14年でしたから、戦争の思い出はたくさんはありません。それに田舎に住んでいましたから直接戦災に遭ってはいないのです。でも空襲警報発令のサイレンの音とか、焼米を持って防空壕に逃げたこととか、岡山/福山両市が焼けるとき(その間に住んでいました)の空の色とかは覚えています。
 わずかに戦争を知っている世代という意味で「末期的戦中派」などと呼ばれることもあります。そう、芋蔓の茹でたのを食べた記憶はあります。

 終戦とその後の父の死

 終戦(本当は敗戦)の時私は幼稚園坊主でした。戦時中もかろうじて幼稚園はあったのです。近郊のおばあちゃんの家に疎開していた私の元に3歳年上の兄が、芋羊羹を持ってきてくれて「日本は戦争に負けたぞ。だけど米英も相当弱っているのだ」といったのを覚えています。せめてものつよがりをいう大人のセリフを聞いていたのでしょうか。

 父は大学の文学部を卒業して高等女学校の漢文の教師をしていましたが、兵役検査にも落ちるくらい病弱でした。でも終戦のちょっと前に中国に渡って漢口かどこかで日本軍の将校に飲ませる酒を造っていたとか聞きました。幸いな事に終戦直後に無事に帰国しました。ところがまもなく「頭が痛い」といって寝たり起きたりの生活をしていましたが昭和22年3月他界しました。

 病名は脳腫瘍でした。今なら手術で助かったかもしれませんが、当時の事岡山の大学病院に入院したとはいうものの焼け残りのがれきのような病室でただ痛みを和らげる処置だけとってもらいながら死を待っていたようです。

 その父を見舞いに行くのに汽車に乗って1時間、客車はなく貨物列車に立って行きました。牛や馬を運ぶ有蓋車でした。併結された白帯の一等車は進駐軍専用で中では酒でも呑んでいるのか兵士たちのさんざめきがもれてきて敗戦を嫌というほど実感させられた事でした。
 父が死んだとき子供は5人、一番上の姉が12歳、一番下の弟は生後3ケ月でした。弟を胸に抱いて泣き崩れる母の姿は半世紀過ぎた今も忘れられません。

 村の分教場にて

 父を失った一家は、私が3年生のとき同じ岡山県の父の実家に引っ越しました。山の上にある本当にドのつく田舎です。母は地元の小学校の教師になり、姑との確執に悩む生活が始まりました。
 私は村の分教場に通い始めました。全部で50人くらい、同級生はたしか男子5人女子10人くらいでした。複式学級で、先生は3人しかいませんでした。ガラス窓のない学校で、いえ窓はあるのですが障子がはまっていたのです。冬は寒いのにストーブもなく、教室には火鉢だけでした。

 私は相当な癇癪坊主だったようで、先生にしかられると食ってかかりよく立たされたりしました。一度先生の眼鏡を割ってしまい、弁償しなければならないかと母がおろおろした事がありました。それ以来おとなしくなったように思います。母の涙には弱かったのです。

 学校区が変更になって5年生の時から別の小学校に変わりました。そちらは1学年1学級でした。母はその小学校の教師でした。私のクラスの担任ではありませんでしたが音楽の時間だけ母が先生でした。「家に帰ったら畑で大根抜いて洗っといてね」てな事を教室で私に言ったりしてのんびりしたものでした。

 その小学校の校歌を募集したときに私は作詞で応募しました。 私作詞、母補作、でしょうか。最近まで唄われたようですが、今は小学校そのものが廃校になってしまいました。むろん分教場も跡形もなくなくなっています。ひどい過疎なんです、我がふるさとは。小学校の時の村の人口が1,200人、それがいまは500人とか。平均年齢は60ン歳とか。何の策も施されていませんね。忘れられたムラですわ。

 中学校は今では珍しい「学校組合立」でした。つまり2つか3つの村が共同で建てる中学校でした。私の中学校も3つの小学校を併せていましたので1学年 2クラス、30人づつくらいいたと思います。その中学校も今は廃校です。
 中学2年生のときに私は生徒会長に立候補して、盛んな選挙運動にもかかわらず落選しました。同じ2年生の女の子に負けてしまったのです。田舎中学校の生徒会長でも負けると悔しかったですね。

 彼女にはその後リベンジの機会がありました。4年後同じ大学を受験して私合格、彼女不合格。ザマアミロでした。

充実した高校生活

 高校は「ふもとの町」 井原市というところの県立高校です。定員300名、受験生 301名ですから合格します。しかし家から通学はできませんでした。バスで片道 50分ほどですが、一日2便しかない。
 で、質屋の2階に下宿しました。15歳の親離れです。
 6畳の部屋に二人同居。どんぶり盛り切りの飯。いつも腹が減っていました。育ち盛りには酷な食生活でした。勉強で夜遅くなると腹が減る、それを癒すのは一山10円の食パンでした。塩味だけで食べて、また勉強する...
 新聞部とか写真部とかクラブ活動も盛んにやったし、女の子と付き合う事を知ったのも高校時代でしたがやはり受験勉強はしました。
 今のように偏差値などというものはなかったのですが、旺文社の主催する全国模擬試験なんてのは時々受けさせられましたね。クラスの一人がその模擬試験で2年生のときに全国1位の成績を収めるというトンでもないのがいて私はいつも2番目の成績でした。
 先生が「まあ、合格確率50%」というので京都大学を、「なんとなく正義の味方」ということで法学部を受けて一発合格しました。
 同級生がこのほど 同窓生専用のHPを作りました。まだ試作品のようですが。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/12 16:13
るみ  新米   投稿数: 1
私は昭和13年11月28日生まれ。kousei3さんと同年輩なので同じような体験をしていらっしゃると思い、読ませていただきました。私の父はシベリア抑留でソ連に殺されたようなものです。

 昭和21年6月に母と私と弟2人の4人で満州から引揚げてきました。当時祖母(母方)は60歳ぐらい、祖母は叔母の子2歳、と私と3歳の弟を育てくれ、母たちは働きに出ました。祖母は叔母の子ばかり可愛がり不快でしたが、私は祖母の歳を超え、小さい子を育てる大変さが分かるようになりました。kousei3さんのおばあさんは5人の孫を育てて下さったのですから、基本的には良い人だったのではないですか。そしてなによりもお母様が立派でした。
 当時は学校の先生の給料はすごく安く月900円ぐらいだったと聞いています。おばあさんの苦労も分かってあげてください。祖母は私の弟で5歳だった子は育てられずに岩手の伯母に引き取られ中学3年卒業まで岩手で育ちました。
 
あんな馬鹿な戦争をした当時の軍部独裁国家は大嫌いです。そして父たちを殺したソ連も大嫌いです。

戦後しばらくは私たち母子家庭はとても厳しい時代でした。
今は日本が豊かになり私も幸せになりました。感謝しています。

なによりも私たちは帰ることができる国があったことは、帰る国のなかったユダヤ人の方たちと較べても幸わせだったと思います。
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