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特殊潜航艇「海龍」・はじめに

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/4/16 7:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(3)穴から覗いて達着訓練――――――――――――――――

 本物の海龍に乗って操縦訓練を始める。
 まず最初は達着訓練、飛行機でいえば、離着陸の訓練である。
 昔、練習機(通称赤トンボ)の後部座席に乗って、初めて慣熟飛行の空に舞い上がったときの興奮は、今でも良く覚えているが、海龍に初めて搭乗して、潜望鏡(特眼鏡といった)から外界を覗いた時の事は覚えていない。
 多分、教官が艇の上に乗り、ハッチは開けたままで、大声で指示をしたのだろう。
 海龍は2人乗りで、艇長が潜望鏡を覗いて号令を下し、艇付(甲種飛行予科練生出身の一飛曹)が操縦桿を握って操舵する。ただし、達着訓練のように初期の訓練のときは、まだ自分の艇付は決まっていなかったから、誰かベテランの艇付が操縦してくれたのだと思う。
 潜水学校のときに、上陸用舟艇を使って達着訓練をしたが、周囲が自由に見回せる状態でも難しいのに、今度は潜望鏡という、いわば穴の中から外を覗いた状態で行なうのである。そんなムチャな、といいたいが、やらなきゃしょうがない。
 最初から巧く出来るものは一人もいない。だが、2度、3度と繰り返しているうちに、コツが分かった。
 車の車庫入れでもそうだが、ただ漠然とバックしているのではなく、右のドアミラーで車庫の右壁を睨んでバックを始め、右後輪が壁を交わしたら、左のドアミラーで、車庫の左の壁と車の左後ろとの間隔を見る。これもうまく交わしたら、車の正面を見て、車が車庫と平行になるようハンドルを戻し、右横を見て停車位置の目印の所に来たら車を止める。
 要所、要所で見るところが定まっているのである。
 潜望鏡を進行方向に向け、岸壁に斜めに進む。岸壁が近くなったら、「エンジンていし、おもかじいっぱーい」。
 艇が岸壁と平行になる直前に、「とりかじいっぱーい、こうしんびそーく」と号令して、今度は艇尾を見る。艇尾が岸壁に寄っていくのを見て、「もどーせー」。
 潜望鏡を左に向けて、岸壁を見る。艇が目標地点の横に来ていれば、「エンジンてーし」。艇が前または後に動いているようなら、後進または前進をかけて行き足を止める。この間、潜望鏡は岸壁の一点を見詰めて、艇の動きを判定する。
 早速、予備学生全員で研究会を開いて、陸上で艇の動きを想定して、後ろを見たり、横を見たりしながら号令をかける。
 この段階を修了しないと、先へ進ませてもらえないから、皆熱心である。特訓の効果があって、全員が割合すんなりと、この教程を終わった。


(4)6号ドックで海龍を造る―――――――――――――――

 柔道場での寝泊まりは10日間ほどで終わり、同じ基地内の元海軍機関学校校舎に移転する。
 転輪羅針儀《ジャイロコンパス》だとか、魚雷だとかの学科の講義が続く合間に、海軍工廠の見学があった。トンネルを抜け、横須賀基地の西側に出ると、戦艦「長門」が係留されており、偽装網《迷彩した網》を被って、山陰に隠れるようにひっそりとしている。帝国海軍の象徴として子供の頃から親しんでいた「長門」が、威風堂々と停泊しているのではなく、山陰に隠れているのである。これは思いも掛けぬ光景であった。
 帝国海軍のスターが、もはや太平洋に出撃する戦艦としての誇り有る姿ではなく、対空砲台としての零落れた姿をさらしているのである。
 「長門」の傍を通り、6号ドックへ行く。この間、「2歩以上は駆け足」という嵐部隊のきまりで、ずっと走りどうしである。私は歩いたり走ったりするのが嫌いで、それで海軍に入ったのに、なんたることか思いながら走る。
 6号ドックは「長門」や「信濃」の建造に使われた巨大なドックである。戦艦や空母がそっくり入れるドックに、今や目刺しのように並んで約100隻の海龍が建造されていた。
 わが国の建艦能力は、もはや潜水艇しか作れないのだ、と悲しくなる。
 海龍は大量生産に向くように、前部、中部、後部の3つに分解して作られ、それを溶接して完成艇にするのだという。はるかドックの底で、電気溶接の火花が散っている。
 この海龍が出来上がる7月になればすごい戦力になるぞと、教官は威勢の良いことを言うが、10隻作っても、検査には1隻しか合格しないという。水が漏るのだそうだ。潜水艇が水洩れしてどうなる。
 予備学生120名分の艇を作るには、1200隻を作らなければならぬ。そんなに材料が有るのかと心配になる。
 再び「長門」の傍を駆け足で通って帰る。教官にすれば、建造中の海龍を見せて、我々を発奮させようと思ったのかもしれないが、あまり意気上がらない見学であった。


        






(5)海龍と魚雷発射―――――――――――――――――――
 
 昭和20年5月21日であったと思うが、海龍による魚雷発射を、教官が見本を示すというので、工廠から内火艇《内燃機関で走る船》に分乗して、試験海域で待つ。
 海龍に搭乗しているのは、海龍の開発当初から操縦に携わっている、ベテラン中のベテラン。
 前方に赤い旗を立てた漁船が浮かんでいる。それが目標らしい。その300メートルほど手前に、海龍が浮上停止するが、なかなか発射しない。
 先日の座学では、艇首を水平から5度ほど下げた状態で発射しないと、魚雷が水上に飛び出してしまうと聞いていたので、艇のバランスをその状態に持っていくのに時間がかかっているのかなと思いながら、10分か20分ほど待つ。
 歓声が上がったので見ると、魚雷が海面を飛び跳ねたり潜ったりしながら進んで行く。海龍の後ろには白い煙と、細長い筒が海面から突き出している。これは「射出筒」といって、魚雷の入れ物である。
 海龍の魚雷搭載については、はじめは魚雷をむきだしのまま艇にぶら下げる積もりであったが、魚雷を数日も水中にさらすことは出来ないというので、筒の中に魚雷を格納しておくことにしたのだそうだ。
 魚雷の入った射出筒2本を艇の下部左右にレールで取り付け、筒の中の火薬で魚雷を発射する。魚雷は前へ飛び出し、射出筒は後ろへレールから外れる。
 実戦ではどういうことになるか。海龍が幸いにして水中ひそかに敵に忍び寄り、魚雷を発射しても、白煙が上がり、射出筒が海面から突き出るのであるから、艇の位置はばれてしまう。
 それよりも、潜水艇が浮かんだ状態で、10分間も「さあ、撃ちますよ」と静止していたのでは、魚雷を発射する前にやられてしまう。
 ベテランの教官がやってあれだから、我々がやったらどうなる。道遠しだなあと帰ってきた。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/17 10:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
(6)艇付きとの「結婚」―――――――――――――――――

 特殊潜航艇「海龍」は2人乗りで、潜望鏡を覗いて号令を下す艇長と、その号令の下に艇を操縦する艇付きとの2人が一つの艇に乗る。
 艇長には海兵や予備学生出身の将校がなり、艇付きには甲飛出身の下士官がなる。甲飛出身で艇長になるのも居る。
 昭和20年5月下旬、我々5期予備学生に対する艇付きが決まり、ご対面となった。
 私の艇付きは甲種飛行予科練習生13期の一飛曹で、昭和18年10月海軍に入り、19年8月基礎教育終了、本来なら航空隊で飛行機に乗るはずが、飛行機が無く、特殊潜航艇に回された。
 私より3才くらい年下の童顔だが、背丈は私より10センチほど高く、がっしりした体格で、駆け足でこちらがへばったら、負ぶってでも走ってくれそうな男であった。
 これからの訓練は、常にこの艇付きと一緒であり、出撃も一緒、死ぬときも一緒という仲である。艇長がヘマをしても、艇付きが操縦ミスをしても、死ぬときは一緒で、お互いに自分の運命を相手に預けている訳である。
 当時、教官は、艇付きの決まることを「結婚」と称していたが、見合いをしたわけでもなく、両者の性格判断をしたわけでもなく、そんなロマンチックな雰囲気のものではなく、でたらめに組み合わせたのだと思うが、生死を全く同じにしているという意味では、普通の結婚より強烈である。
 
 私の艇付き









             




(7)碇泊艇での訓練―――――――――――――――――――

 艇付きと一緒に艇に乗り込んでの操縦訓練が始まる。ただし碇泊艇での訓練で、実際の走行はしない。
 「航走準備」から始まって、「モーター航走」、「潜航」、「浮上」、「エンジン航走」、「航走充電」などの基本動作を、同乗教官の指示、監督の下に行なう。
 実際に走る訳ではないから、こちらは潜望鏡のハンドルを握ってはいるが、外は見てもしょうが無い、号令を下して、後は艇付きの操作を眺めている。
 潜水学校で我々が号令を習ったいた間、艇付きは操作を習っていたのであろう。こちらの号令に従って、スイッチを入れたり、操縦桿を動かしたりしている。
 下手な艇付きだと、操作を間違えて、モーターのヒューズを飛ばしてしまったり、吸排気弁を開けずにエンジンを起動して、危うく窒息しかけたり、訓練の段階からもう命懸けである。
 教官が居なくても、夜間、空いている艇に、艇付きと一緒に乗り込んで、自習をする。ただし実際にはモーターやエンジンは廻さない。





(8)昭和20年6月1日少尉任官―――――――――――――――

 人生で忘れられない日というのが、いくつかある。
 昭和16年12月8日、戦争の始まった日。
 昭和20年8月15日、戦争に負けた日。
 この他に、昭和20年6月1日(ろくがついっぴ)というのが、われわれ5期兵科予備学生が、晴れて海軍少尉に任官した日として忘れられない。
 前々からこの日が少尉任官の日として約束されていたので、襟章に着ける桜のマークを準備して、いつ連絡が来るかと待っていたが、何処からも何も言ってこない。
 待ちくたびれて、夕方になって代表の学生が教官室にお伺いに行った。戻ってきた彼は、「桜を着けて宜しい」と、至って事務的に叫んだだけで、任官の儀式は何もなく、数日後「任官祝賀会」が開かれ酒がでた。
 6月1日は5期予備学生にとって、一人前の将校になったということもあるが、それ以上に、海兵74期の候補生達よりも、自分達の方が上になったという方が大事件であった。
 それまでは、年令では1才下の彼等に、こちらから敬礼をしなければならなかったのだが、6月1日を境に、こちらが上官になり、彼らの方から敬礼をしてくれるのである。
 ただし6月15日になると彼等も少尉任官となり、わずか15日間の優越感であった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/18 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 (9)水上航走――――――――――――――――――――――

 自分の艇付きとのペアーで海龍に乗り込み、水上航走の訓練を行なう。
 出発の前に教官から注意がある。海龍は水上で高速を出すと、艇首が水に引き込まれて潜航してしまう。水上航走中、艇付きは操縦桿を手前に引き、艇首が沈まないようにすること。艇長は艇首の水のかぶり方に気を付け、潜航しそうになったら速度を落とすこと。
 教官は艇に同乗はするが、艇の中には入らない。艇の外にいて、ハッチ《蓋つきの昇降口》の上に跨ったり、胴体の上に立ったりして、艇の中にいる我々に指示をするのであるから、こちらの不注意で艇が潜航すると、彼は海のなかに放り出されることになる。
 横須賀基地の傍に、日露戦争時の戦艦「三笠」が記念艦として一般公開されていたが、そのすぐ北側が機関学校ポンドで、我々はそこから出港する。(当時と今では「三笠」の位置が違う)
 「三笠」を右に見て東へ向かう。ポンド《注》の左手に、これも日露戦争時の軍艦「春日」が係留されている。ポンドから東京湾へ出ると、右斜め前方に猿島が見える。
 猿島の北で、反転し、ポンドへ戻るのだが、前もって出港時に後ろの景色を確認しておかないと、沖合いから見て、ポンドが何処だか分からなくなる。
 5月の始めに横須賀に来てから、2、3度、航海実習として、東京湾めぐりをしているのだが、汽船の上から肉眼で東京湾全体を見渡せるのと、海面すれすれの低い位置から、潜望鏡の狭い視野で覗くのとでは、同じ景色でも違って見える。
 「春日」のマストを目標に覚えたまでは良かったが、「三笠」のマストをそれと誤認して、ポンドが見当たらず困った男もいた。


(10)甲飛の殉職――――――――――――――――――――

 普通、「予科練」と呼んでいるが、「予科練」にも種類があり、一番人数の多いのが、「甲種飛行予科練習生」である。彼等自身は自分達のことを「予科練」と呼ばれるよりも、「甲飛」と呼ばれることを好むと、戦後、海龍関係者の集まりの時に聞いたので、それ以後私は「甲飛」と呼ぶことにしている。
 水上航走を一度でもやると、今度はこちらが先輩として、初めて水上航走をする仲間の上乗りをする。
 艇の上に素足で、棍棒を持って乗る。黒い艇の上に乗って、足元を波が洗い、まるで鯨の背中にでも乗って海上を走っているようで、気分爽快であるが、遊んでいる訳ではない、これは訓練である。
 昭和20年6月始めの頃はまだ、訓練艇は10隻くらいしか無かったが、それでも、横須賀基地と猿島の間で10隻もの艇がうろちょろすると、お互いが衝突する危険がある。
 艇長は潜望鏡という狭い視野でしか、周囲を見ていないから、上乗りが見張り役を勤め、いざとなると棍棒で艇の胴体を叩いて、艇長に危険を知らせる。
 ある少尉が上乗りをしていた時に、反航していた別の艇と衝突しそうになった。上乗りの少尉は、棍棒で急を知らせると共に、潜望鏡を掴んで、相手の艇の方に向けた。どうせ潜望鏡の下では、艇長が潜望鏡の取っ手に腕を乗せているだけだから、艇の外から掴んで回しても潜望鏡は回るのである。
 状況を察した中の艇長は、後進全速をかけた。向こうの艇も後進全速をかけたので、10メートル位のニヤミスで、衝突は免れた。
 ここまでは良かったのであるが、この後がいけない。水上航走中は、頭を突っ込まないように、艇首を上向きにして走っている。その侭の姿勢で、後進を掛けるとどうなるか。艇の後ろが下がったままだから、艇尾から水中に潜り込むことになる。
 双方の艇はいずれも艇首が45度くらい上に向いた格好で、後ろへ海中に潜ってしまい、双方の上乗りは海中に放り出されてしまった。
 幸い私の戦友は泳いでいる内に、浮かび上がってきた艇を掴まえることが出来たが、相手の艇の上乗りが行方不明になっってしまった。甲飛だが、泳げない海軍がいたのだ。連日捜索が続けられ、1週間ほど経ってから、猿島の南方で遺体が発見された。海流で遭難現場からは、かなり流されていたようである。
 この事件以後、上乗りは泳げる泳げないに関係なく、救命ジャケットを着用することになった。
 
 それから数日後、隊の中央の道路をトボトボと歩く老婆を見掛けたが、直感的に、遭難した甲飛の祖母だと思って胸が痛んだ。
 いま、手許の「特潜会会員名簿」を見ると、昭和20年6月11日、川崎沖にて監視艇乗船中に殉職と記してある。死んだのは彼であったが、もしかしたら私の戦友だったかもしれないし、私だったかも知れない。あの時、あそこにいた誰もが、同じ危険の中で訓練していたのである。


(11)父からの手紙―――――――――――――――――――

 子供の時。出張先の父からよくハガキが来た。
 書いてあるのは子供3人の名前の後に「元気か」とだけの、短いものであったが、独特の字の踊り具合に、父の声、顔、手のぬくもりを感じた。
 海軍にいる私にある日、父から封書が届いた。表書きの踊る文字を目にした途端、一瞬にしてそこに父のぬくもりを感じ、滂沱《ぼうだ=とめどなく流れる》の涙であった。
 中の文章は、「皇国のためしっかりやれ」という、およそ父からぬ紋切り型の文章で、愛情を吐露《とろ=本心を打ち明ける》できぬ父のもどかしさを、字の背後に感じた。


(12)海軍の長髪――――――――――――――――――――

 海軍の将校は長髪でよかったが、昭和20年6月ごろ、断髪の指示が出た。でも、さすが海軍。「長髪でなければ、その容貌を保てない者は、この限りにあらず」と、但し書きが付いていた。
 「あ、俺も、容貌が保てない」「大きな禿げがあるんだ」と、無理に口実を作って、結局私の部隊で丸刈りにした者は、予備学生出身者にも海兵出身者にも一人も居なかった。
 負けてくると精神論になるのが、日本人の特性だが、敗色濃厚な昭和20年6月ともなれば、「海軍にはいまだに長髪の者がおる。あれはアメリカの真似だ。怪しからん」と陸軍からイチャモンがついたのではないか、と当時も今も思っている。真相がどうだったのかは知らない。

注 和訳は池ですが 此処では「船留まり」をいう
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/19 7:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 (13)潜航訓練と事故

 潜航訓練の場合は艇への上乗りによる見張りはなくなり、代わりに監視艇が海龍の後ろから着いて行く。エンジン付の漁船に5人ほどが乗り、いざとなると発音弾を海中に放り込んで、その爆発音で危険を知らせる。
 海龍は後ろに長さ1メートル直径30センチほどの赤い「タコ」をワイヤーで引っ張り、潜航しても「タコ」の動きで、位置と進んでいく方角が分かる。
 潜航訓練を始めるといろんな失敗が出て来る。まずハッチの閉め忘れ。ハッチを閉めてなければ潜航した途端に海水が艇の中に浸入して沈没する。次に水上航走から潜航に移る際の操作ミスがある。
 海龍は水上ではディーゼルエンジンを使って航走し、水中では電池とモーターで走る。エンジン用の吸気筒と排気筒が艇の上部に伸びているが、潜水するには筒の弁を閉めないと海水が入ってくる。こればかり気になって、エンジンを止める前に給排気弁を閉めようとしたのがいる。同乗していた教官が阻止して事無きを得たが、艇内が真空になって即死する。
 信じられないような事故もある。海には暗礁《水面下の岩》を示すブイが設置してあるが、あれは海底にワイヤーで繋がれている。海底部分でワイヤーが3本に分かれているが、その間を海龍が通過し、「タコ」のワイヤーがブイのワイヤーに絡んで、海中で動けなくなるという事故があった。数時間後に救助隊が「タコ」のワイヤーを切って助かった。


 (14)事故と搭乗停止

 事故を起こした搭乗員は搭乗停止の罰則を食う。搭乗停止について当時我々予備学生は、「海兵出身者の訓練を優先するため」と僻んでいた。
 搭乗停止の措置に憤慨してか、ある予備学生が訓練から帰って来て、碇泊位置の横に係留されている軍艦「春日」(日露戦争時代のもの)の横腹に頭から突っ込んだ。
 艇の頭部に火薬を詰めた実用の爆装艇(後述)だったら大爆発だが、訓練艇にはそのような装備はしていないから事無きを得たが物騒な男である。
 この男も訓練停止になったのはいうまでもないが、訓練停止の措置は、今思えば戦局が切迫してきて、戦力になる者から1日でも早く前進基地へ展開してもらわねばならぬという状況であったからだと思う。


 (15)頭部に爆薬を装備

 海龍は魚雷2本を両脇に抱え、命中すれば敵船2隻を沈められる。だが外洋に出て、敵の軍艦を攻撃するという使命も能力もなく、攻撃の目標は本土上陸の輸送船で、それもアメリカ兵が上陸した後の空船を攻撃するように言われていた。
 ある日、海龍頭部の重油タンクの代わりに600キロの火薬を詰める、これで敵船に体当たりして3隻目を沈めるようにというお達しがあり、自爆用の紐が艇付の左肩の辺に取り付けられ、操作の教育があった。
 このとき私は「それは海軍さん、契約にないよ」と思った。武山で基礎教育の終りに、専門分野を選ぶときも、海龍が特攻兵器であるという説明はなかったし、潜水学校でもなかった。
 海軍に取り込んだ兵隊だから、何を命令しても大丈夫と思ったのかも知れないが、「それはないでしょう」というのが実感だった。一緒に居た100名の予備学生と、この問題について感想を言うことも聞くこともなかったが、艇付には「こんな物騒なもの引っ張るな」と言い聞かせる。
 当時新聞やラジオが隊の中には無かったから、戦局についてはほとんど知らなかったが、上層部では沖縄が落ち、戦艦「大和」が沈み、あとは本土決戦のみという状況は分かっていて、特攻しか方法はないという認識であったのであろう。


 (16)ぶつかれー

 東京を空襲して墜落したB29から飛び降りたアメリカ兵が、横須賀沖の海龍の訓練海域に浮いているのを、救助の飛行艇が着水して拾い上げていた。
 その傍を海龍が悠々と訓練航行しているのが、陸上の指揮所から見え、「ぶつかれー」と大声で怒鳴るが、艇の中まで聞こえる訳が無い。
 訓練から帰って「お前は特攻隊員なのに、何故ぶつからなかった」と教官から怒られていたが、訓練科目をこなすのに必死で、飛行艇だなんて目に入らないよ。


 (17)これが連合艦隊なんだよ

 昭和20年6月29日、三浦半島油壷の前進基地へ10隻ほどの海龍が出撃することになって、その見送りに行った。
 なんと海軍軍楽隊が来て、勇壮に軍艦行進曲を演奏する。
 まるで連合艦隊の出撃の様ですねと傍らの教官に言うと、「いまや、これが連合艦隊なんだよ」と言われて愕然となる。
 子供の時に記憶に摺り込まれた連合艦隊が、何処かで戦っているのだと思っていた。長門こそ横須賀に繋がれているが、他の戦艦、巡洋艦、航空母艦はすべて健在であると思っていた。


 (18)4期予備学生の沈没殉職

 油壷へ出撃して行った艇の1隻が、途中波を被って沈没したという知らせが入った。数日後引き上げられたが、艇付とともに殉職していた。艇長が4期の予備学生であるというので、見苦しい死に方ではなかったかと案じていた。
 潜水艦乗りなら誰でも、明治43年(1910年)に第6号潜水艇で殉職した「佐久間艇長」の話を知っている。
 殉職した予備学生も、操作ミスで艇を沈めたことを詫び、艇付の家族への配慮を願い、佐久間艇長の遺書に劣らぬ見事な遺書が残されていた。もし見苦しい死に方であったら予備学生全体に対する悪評となったであろう。
 沈没の原因として、後ろから波を被って浸水したこと、排水ポンプを動かしたが、弁の操作を間違えて吸水状態になり、大量の海水が浸水したことを述べていた。
 海龍の艇内にはパイプがいろいろ通っている。パイプの途中に弁がついていて、水の流れを通したり止めたり出来るようになっている。だが、どの弁は開いているのが正常で、どの弁は閉じているのが正常だということを、なかなか覚えられない。浸水と言う緊急事態に彼が弁の開閉を間違えたとしても、有り得ることである。
 艇の操作に未熟であったといえばそれまでであるが、未熟な者でも駆り出さなければならなかった戦局なのである。

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 (19)外出禁止と記念艦「三笠」

 昭和20年の7月、横須賀へ来て2カ月を過ぎたが、訓練訓練で基地の外へ出たことが無い。教官に一度外出させてくれないかと頼んだ所、海龍は秘密兵器だから、おまえ達を外出させて秘密が漏れては困るのだ、というつれ無い返事が返ってきた。
 当時、海龍の訓練は横須賀基地東側の機関学校ポンドで行われていた。海龍に搭乗して出発すると、すぐ右手に記念艦「三笠」があり、その甲板からポンドを見下ろして、海龍が出入りするのを見ている民間人が見受けられた。
 「三笠」から民間人が毎日見ていて、何が秘密兵器ですかと文句を言ったら、教官も反発してこなかった。これで明日から外出が許可されるものと期待していたら違った。
 「三笠」の方が立ち入り禁止になってしまった。
 当時、少尉の基本給が80円くらいなのに、航海手当、危険手当などを加えて500円近く貰っていたが、ちり紙の役にも立たないと、給料袋のまま行李に放り込んでいた。毎月300円を国許へ送っている孝行息子もいた。


 (20)艇の沈降試験

 6号ドックで建造された海龍は、さまざまな検査を受ける。その中に沈降試験というのがある。海龍は設計上は100メート潜れるのだが、軍港の中ではそんなに深い所はないから30メートルくらい沈める。
 艇の中に一人入り、ハッチを閉め、クレーンで前後を吊るして、沈めていく。ある予備学生が、その試験に立ち会い、艇の中に入り、潜望鏡で外を覗いて、作業員の動きを眺めていた。
 艇が海中に沈んでいくと外は見えなくなる。致し方なく艇内の横を見たり、後ろを見たり足元を見たりしていた。
 身体を戻した途端、頭の上から潜望鏡が水圧に押されて、ストンと足元に落ちてきた。足元を見ているときだったら、首の骨を折られるところであった。

 
 (21)艦載機の襲撃と戦友の死

 7月18日午後、艦載機の襲撃があった。島村がやられたという声で、訓練基地へ急いだ。10名ほどの遺体が格納庫風の建物の中に並べられていた。足を曲げたままのもあり、手を伸ばしたままのもあり、作業服を着たマネキン人形が横たえられているようで、悲しいとか、悔しいとか、怖いとかいった感情は全く湧かなかった。
 俺も死ねばあんな格好になるのかなと思っていた。
 後で状況を聞くと、14期甲飛の汽艇操舵訓練を終わって、指揮官の島村が訓示中に、やられたという。海龍に乗っていれば安全だったのに。


 (22)横須賀に爆弾は落ちない

 空襲が頻繁に来るようになった。南の空を見上げていると、10~15機くらいの横一列になった編隊が目に入る。来た来たと思っていると、その後ろにまた一列が来る。なんとその後ろに何列にもなって敵機が来るではないか。こんなに大量の飛行機が飛ぶ姿を日本の観兵式でも見たことが無かった。
 基地の高角砲がすぐ近くでダンッダンッと射撃を始め、その砲弾の破片が落ちてくるようなので、防空壕に逃げ込む。
 防空壕の中で「凄い数の敵機が来た」という話をしていたら、一人の下士官が「敵は横須賀には爆弾を落としませんよ」とアメリカの指揮官の様なことを言う。「占領後、横須賀を米軍の基地として使う積もりだから、破壊するようなことはしません」
 この下士官は、もう日本が負けることを読んでいる。その点こちらは純情で、海龍で出撃することしか念頭に無かった。
 鈴木貫太郎首相が基地を訪問しに来た。激励に来たものと当時は思っていたが、戦後読んだ歴史の本で、彼が終戦の機会を窺っていた事を知り、帝国海軍最後の戦力である特攻基地を視察して、その実力を把握するために来たのだと思う。天皇に、もはや海軍に戦力はありませんと報告したのだろうと思う。


 (23)夜光虫を敵艦隊と見誤る

 アメリカ軍は上陸の直前に徹底的な空襲をする。連日の空襲から、本土上陸近しと全軍が神経を尖らしていた。前線の見張り所もピリピリしていたであろう。8月1日夜10時、大島の見張所が東方海上一面に光るものを発見した。すわ、敵の大船団に間違いなしと全軍に「敵大船団、大島東方を北上中」と発信した。
 これを受けて海龍も、教官連中は艇の出動準備を始めたが、間もなく(2日朝2時頃)[先の大船団は夜光虫の誤り」との連絡が入る。
 昔、水鳥の羽音に驚いて退却した平家の話があるが、帝国海軍も落ちたものだ、亡国の兆候だと嘆かわしく思った。


 (24)女を知らないで

 大島東方の件は夜光虫の誤りであったが、敵部隊接近の情報は掴んでいたようで、「かって見ざる敵大輸送船団現る。本土上陸用に間違いなし。各人身の回りを整理し、出撃準備をなせ」という命令が来た。
 荷物を行李に詰めながら「おい、俺が死んだら頼むぞ」と、ベッドの隣同士で約束する。
 誰かが「おい、女も知らないで死ぬのかよ」と叫んだので、部屋中が大笑いになった。
 軍隊に入る前に女を知っていればともかく、海軍に入ってからは、そういうチャンスは全くなく、ましてや三笠の一件を思い出しての大笑いであった。
 戦後、映画やテレビで、特攻出撃の前に、女と遊ぶ場面が出て来ると、「ウッソー」と思った。そういうことをした部隊も有ったかもしれないが、横須賀にいた我々に関しては全くその気はなかった。


 (25)出撃計画

 身辺整理が終わると出撃計画の作成である。8月10日から20日頃までに、九十九里浜に敵が上陸するとの想定で、潮汐を調べ、東京湾に敷設してある味方の機雷原の位置を教わる。敵輸送船が来る前に九十九里浜沖で潜航して待つ。敵が来たら魚雷2本で2隻を撃沈、さらに体当たりでもう1隻という皮算用だが、前部燃料タンク(600l)の場所に火薬を詰めたので、後部燃料タンク(480l)だけでは片道の燃料すら足りない。
 横須賀から九十九里浜まで約90~100浬(160~180KM)ある。これを巡航速度の時速5ノット(9KM/H)で進むと、18~20時間かかり敵の偵察機に知られてしまう。夜の間に移動を済ませようと7.5ノットで走ると、後部タンクだけでは90浬で重油はなくなる。そこで低圧タンク(350l)にも燃料を積んで、やっと5ノットでの帰りの燃料が残る計算になる。
 どうせぶつかるのだから帰りの燃料は要らないということにはならない。敵が上陸予定地を変えたとか、上陸予定日を変更したとかで、敵と遭遇しなかったから横須賀まで帰ってこなければならない。
 出撃計画を作りかけていると、乗る艇がないとぞという話になった。整備の済んだ艇は前進基地へ海上または貨車での陸送で出発しており、今横須賀には訓練用に使っている艇を含め20隻くらいしかない。1番の艇に特攻長、2番にXX大尉が乗ると勘定していくと、とても予備学生にまでは廻ってこない。こうなりゃ陸戦だと木刀を振り回す者もいたが、今までの1年間に亙る訓練が、いざというときに間に合わないと知ると何か空しかった。


 (26)熱線爆弾、ソ連参戦、日本降伏の放送

 8月6日、広島に原爆が落ちたが、当時海軍では新型の「熱線爆弾」と表現され、白い衣服を着ていれば被害が少ないと掲示があった。
 9日ソ連参戦。アメリカという横綱クラスの攻撃を土俵際でこらえているのに、後ろからソ連横綱が襲い掛かって来ては、万事休すと思った。
 10日夜、「通信隊に行ったら、アメリカ放送が日本は降伏したと言っている」という情報が流れてきた。謀略宣伝かとも思うし、それにしてもボツダム宣言とやらは何だ。


 (27)大御心のままに

 8月15日の玉音放送は、部隊全員が集まって聞いたが、よく聞き取れなかったし、天皇陛下の声の抑揚は我々とは違う独特の言い方なので、はっきりとは分からなかったが、全体として景気の好い声ではなかったし、「忍び難きを忍び」の所は聞き取れたから、前日のアメリカ放送の言っていた通り負けたらしいと、放送が終わってからは、黙々と各自の宿舎に引き揚げた。
 ところが翌日になると厚木航空隊の零戦が飛んで来て、「戦うぞ」と決起を促すビラを撒いていった。それを受けて海兵出の士官の方から「終戦は陛下のご意志ではない。重臣たちを襲撃しよう。お前らはどう思うか」と作文を書かされた。適当に勇ましいことを書いて提出する。
 1期上の予備学生が「大御心のままに」と書いたとかで、翌朝の食事に目の下を黒くして現れた。
 機密書類の返却、焼却、海龍の武装解除とあわただしい日が続く。海龍の武装解除といっても主電路のヒューズを外すだけの操作だが、意識してか間違えてか、自爆装置を動かして、艇を爆破した奴がいた。600キロの火薬が爆発した後には、20センチくらいのクリーク(艇を繋ぐときに綱を掛ける金具)1個が桟橋に残っていただけであったという。


 (28)早く帰れ

 爆発事故があったり、8月15日以降の隊員の動きに不安を感じたのか、「お前達が残っていると、上陸してくるアメリカ兵に何を仕出かすか分からん。今支給してある物は全部遣る。早く帰れ」と命令が出て、8月23日柳行李を担いで隊を後にした。艇付がどこからかリヤカーを探して来てくれた。我々2人の前後も故郷へ帰る隊員の波であった。


        第1部 海軍予備学生
            第4章 横須賀嵐部隊 終り

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