【応召と陸軍嘱託】 90歳を過ぎたKT
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- 【応召と陸軍嘱託】 90歳を過ぎたKT (編集者, 2007/9/4 7:32)
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投稿日時 2007/9/4 7:32
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
昭和16《1941》年太平洋戦争が始まると戦線は急速に拡大し、初期には勝勢だったため陸軍から占領地のマレー半島に作る医科大学の要員募集があった。28歳の時である。
それに応募して一応内定の報を得たが、いくら待っても正式の出発命令が来ない。
そのうち立川の第八陸軍航空技術研究所(医学専門)から戦時研究要員として来ないかと言う話があり、応諾《=申し入れを引き受ける》して内定したところ、昭和18年秋突然召集令状(いわゆる赤紙)が来てしまった。
これはあらゆる話に優先する命令なので、急ぎ富山の連隊に入隊してみると、医師ばかり30人のいわゆる懲罰召集《=秩序を乱した罰として召集をかける》だった。3週間の軍事訓練と金沢陸軍病院における学科教育を経て1ヶ月後に帰郷を許されたが、早晩召集が来るから覚悟しておけと言われた。
ところが私だけは除隊の日に師団軍医部の幹部から面接を受け、F教授の話によると君は戦時研究要員として立川の研究所に行く予定だそうだが、本当かと聞くから、その通りと答えると、後で分かったことだが、名簿に延命と書き込んでくれた。
召集命令を延ばす意味だが、事実は命を延ばすに等しかった。
それがなかったら、当時の状況から南海の孤島で戦死する可能性が高かったのである。
召集から戻って間もなく上京し、立川の研究所に陸軍嘱託《しょくたく=その能力などを生かして特定の仕事を依頼された人》 ここは戦争に直結する最重要課題を研究する所で、中でも低圧実験(高空を飛行するのと同一環境の装置内での人体実験)が頻繁《ひんぱん》に実施された。
私もしばしばそれに参加したが、相当に慣れた時の油断から、酸素の操作を誤り(1万メートル以上の高空環境ではどうしても酸素不足のため頭がぼんやりする)、酸素吸入を自ずから断ったため直ちに失神昏倒《こんとう》した。
装置外の監視員が急ぎ急降下の装置を取って5分後に地上に戻り息を吹き返したが、危うく死ぬところだった。それから1週間位は夢の中にいるような気持ちが続いたが、徐々に自然回復した。これが私の人生中、第2の死線を越えた経験である。
(第1の死線を越えたのは、小学校1年生の年末、当時世界的に流行したスペイン風邪にかかり危うく死ぬところだった。発病の数日前に校医から背中に予防接種を受けたが、病原体がまだウイルスと分かっていない時代の事ゆえ、この注射は無効どころか反って有害だったらしく背中が痛い痛いと言っているうちに発熱し、高熱に浮かされて夜中も飛び起きたりした。
幸い命拾いして正月明けに登校してみると、級友の中に同じ病気で死んだ者がいて、その席がぽっかり空いていたのが妙に記憶に残っている。)
それに応募して一応内定の報を得たが、いくら待っても正式の出発命令が来ない。
そのうち立川の第八陸軍航空技術研究所(医学専門)から戦時研究要員として来ないかと言う話があり、応諾《=申し入れを引き受ける》して内定したところ、昭和18年秋突然召集令状(いわゆる赤紙)が来てしまった。
これはあらゆる話に優先する命令なので、急ぎ富山の連隊に入隊してみると、医師ばかり30人のいわゆる懲罰召集《=秩序を乱した罰として召集をかける》だった。3週間の軍事訓練と金沢陸軍病院における学科教育を経て1ヶ月後に帰郷を許されたが、早晩召集が来るから覚悟しておけと言われた。
ところが私だけは除隊の日に師団軍医部の幹部から面接を受け、F教授の話によると君は戦時研究要員として立川の研究所に行く予定だそうだが、本当かと聞くから、その通りと答えると、後で分かったことだが、名簿に延命と書き込んでくれた。
召集命令を延ばす意味だが、事実は命を延ばすに等しかった。
それがなかったら、当時の状況から南海の孤島で戦死する可能性が高かったのである。
召集から戻って間もなく上京し、立川の研究所に陸軍嘱託《しょくたく=その能力などを生かして特定の仕事を依頼された人》 ここは戦争に直結する最重要課題を研究する所で、中でも低圧実験(高空を飛行するのと同一環境の装置内での人体実験)が頻繁《ひんぱん》に実施された。
私もしばしばそれに参加したが、相当に慣れた時の油断から、酸素の操作を誤り(1万メートル以上の高空環境ではどうしても酸素不足のため頭がぼんやりする)、酸素吸入を自ずから断ったため直ちに失神昏倒《こんとう》した。
装置外の監視員が急ぎ急降下の装置を取って5分後に地上に戻り息を吹き返したが、危うく死ぬところだった。それから1週間位は夢の中にいるような気持ちが続いたが、徐々に自然回復した。これが私の人生中、第2の死線を越えた経験である。
(第1の死線を越えたのは、小学校1年生の年末、当時世界的に流行したスペイン風邪にかかり危うく死ぬところだった。発病の数日前に校医から背中に予防接種を受けたが、病原体がまだウイルスと分かっていない時代の事ゆえ、この注射は無効どころか反って有害だったらしく背中が痛い痛いと言っているうちに発熱し、高熱に浮かされて夜中も飛び起きたりした。
幸い命拾いして正月明けに登校してみると、級友の中に同じ病気で死んだ者がいて、その席がぽっかり空いていたのが妙に記憶に残っている。)
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編集者 (代理投稿)