私の敗戦体験 (路傍の小石)
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投稿日時 2007/8/28 9:08
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものをご本人の了承を得て転載するものです。
(メロウ伝承館スタッフ)
私の敗戦体験 (その1・八月十五日)
五十年前のあの日八月十五日、私は旅順《りょじゅん 注1》師範学校附属国民学校の三年生でした。
夏休みのことです。
正午にラジオを聞くようにとの知らせを私は知りませんでした。
でもラジオから「君が代」が流れてくると、母は衣服を正しラジオの前に正座したのです。
私はその後ろに同じように正座しました。
ラジオの前で、頭をさげて玉音放送《ぎょくおんほうそう 注2》を聞きました。
勿論私に放送の内容などは判る筈がありません。
母が「日本が戦争に負けた」と教えてくれました。
泣いていたでしょうか・・・覚えておりません。父は出征《しゅっせい=軍隊に徴兵され戦地に行く》していて不在でした。
弟・妹達が何処にいたのか、何をしていたのか・・・私の記憶には母と私の二人だけ、後は暑い夏の陽射しと、やけに静かな音のない透明な世界が残っているだけです。
「日本が負けた?」そんな馬鹿な・・・私にはとても信じられませんでした。
「ソ連が参戦(もっと易しい言葉だったとおもいますが)、それで日本は降伏した」という事でした。そんな馬鹿な・・・「ソ連なら一週間も戦えば必ず降伏するのに」と思った事を覚えています。
旅順は日露戦争《注3》の激戦地です。
朝な夕な戦跡「爾霊山」《にれいさん 注4》 を仰ぎ見、毎月八日には「忠霊塔」《注5》 に参拝して、日露の戦いで日本兵がどんなに勇敢に戦ったかを、
幼いながら誇りに思って育ちました。
それがいきなり「ソ連に降伏」と言われて信じる事が出来るでしょうか・・・私達は「連合国」とか「アメリカ」とか言わなかったように思います。
私は外に出てみました。
真っ青な空と真夏の太陽、そして蝉の声だけの、本当に静かな昼下がりでした。
お隣の渡来先生のお宅も、その向こうの玲子ちゃんの家もいつもと変わらず、しぃ~んとしていて、何の変化もありません。
関東神宮《注6》 の方まで行ってみました。人の姿は全くありません。
「日本が負けた、そんな馬鹿な」心の中でそればかり繰り返し叫んでいました。
でも平穏はこの日が最後だったのです。
父は幸いにもまだ市内の集結地に居て、数日後帰宅したようです。
これからどうなるのか・・・
「写真類は焼くように」との指示があり、ブランコのあるアカシヤの木の下で写真を一枚一枚焼きました。
アルバムから剥がしては目に焼き付けて、火にくべました。
悲しくて、悲しくて、涙が後からあとから流れました。
ビロ―ド草が風に揺れていたように思います。
8月22日、ソ連軍が進駐してきました。
旅順はソ連にとっても、忘れ難い父祖奮戦《ふんせん=力をふるって闘った》の地だったのです。
私がその事に気付いたのは、ずぅ~っと後になってからです。
ソ連軍は大きなお屋敷から、次々に民家を接収していきます。
遂に我が家にも「2時間以内に立退」命令がきました。
父36歳、母29歳、今にして思えばこんな苛酷《かこく=厳しく残酷な》な運命を受け入れるには、あまりに若い二人でした。
8歳の私から3月に生まれたばかりの妹まで、5人の子供を抱えて、2時間で荷物を纏めるのは容易な事ではありません。
避難先も、家族が多いので他人さまのお宅は遠慮して、千歳倶楽部(今で言う公民館でしょうか)への入居許可を貰ってそこに引越ました。
その時父の勤務先の中国人が駆けつけて来て、手伝ってくれました。
大切なもので持って行けない物はその中国人にあげたり、預けたりしたそうです。
「預けた」と言う事はまた帰つて来る積もりもあったのでしょうか・・・(^。^)
荷物を纏めている間、塀の外には中国人が群がって見ていました。
出て行つたら、残った荷物を奪っていくためです。
乱暴は働きませんでしたが私は複雑な気持でした。
扉に緑の奇麗なカ―テンが貼ってある私の大切な本箱、美しいセロファンや千代紙、何処にいってしまったのでしょう。
確か大八車に載るだけの荷物を持って引っ越ししたのでした。
千歳倶楽部での生活は何日くらい続いたのか、いつもは必ず鍵をかけておくのに、ある夜かけ忘れたのでしょう、夜中に突然二人のソ連兵が侵入してきました。
殆どの荷物を置き去りにし、めぼしいものなど何も残っていないのに、あれこれと物色していました。後で聞くとカメラが欲しいと言ったとか。
奥の部屋の押入で息を殺して恐怖におののいている私達に向かって、突然父が「ゆきの、酔っぱらっているから逃げろ」と叫んだのです。
母は乳を含ませていた妹を置いて、窓から飛び降りて逃げました。
ロシア建の高い建物の二階からです。
その気配に気付いたソ連兵はバタバタと窓に駆け寄り、ピストルをやみくもに発射しました。
その時の恐ろしさ、「生きた心地がしない」とはこんな時の事でしょう。
暫くして諦めたのか、ソ連兵は出て行きました。
母を探して来るから・・・と鍵をかけて父が出ていきました。
「ゆきの―」「ゆきの―」と呼ぶ父の声が今でも耳に残っています。
押入の隅で怯えながら父の帰りを待った恐怖を忘れる事は出来ません。
心細い時間がどれくらい過ぎたでしょうか、母は父におぶさって戻ってきました。
飛び降りた時に、足を挫いて遠くまで逃げられず、
近くの陸軍病院の森の中にうずくまっていたのだそうです。
挫いたくらいで済んだのは、不幸中の幸いでした。
最初に進駐してきたソ連兵は囚人部隊だと言うう噂でした。
見つかったらどんな目にあったか想像にかたくありません。
こうして静かな学園都市旅順は、ソ連兵による略奪と暴行の町と化したのでした。
注1 中国東北部の遼東半島先端の都市で 嘗てロシアの軍港があった
注2 1945年8月15日戦争終結の天皇陛下自らの詔勅を放送された
注3 1904年(明治37年)大日本帝国とロシア帝国とが中国東北部を主戦場に戦い 日本の勝利となり ロシアの租借地を譲りうけた
注4 日露戦争でロシア軍軍港背面の山に要塞があり この要塞を巡る激しい攻防戦があったところ
注5 戦死した人を顕彰する記念塔
注6 中国東北部関東州 旅順市にあった神社 現在廃絶となる
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この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものをご本人の了承を得て転載するものです。
(メロウ伝承館スタッフ)
私の敗戦体験 (その1・八月十五日)
五十年前のあの日八月十五日、私は旅順《りょじゅん 注1》師範学校附属国民学校の三年生でした。
夏休みのことです。
正午にラジオを聞くようにとの知らせを私は知りませんでした。
でもラジオから「君が代」が流れてくると、母は衣服を正しラジオの前に正座したのです。
私はその後ろに同じように正座しました。
ラジオの前で、頭をさげて玉音放送《ぎょくおんほうそう 注2》を聞きました。
勿論私に放送の内容などは判る筈がありません。
母が「日本が戦争に負けた」と教えてくれました。
泣いていたでしょうか・・・覚えておりません。父は出征《しゅっせい=軍隊に徴兵され戦地に行く》していて不在でした。
弟・妹達が何処にいたのか、何をしていたのか・・・私の記憶には母と私の二人だけ、後は暑い夏の陽射しと、やけに静かな音のない透明な世界が残っているだけです。
「日本が負けた?」そんな馬鹿な・・・私にはとても信じられませんでした。
「ソ連が参戦(もっと易しい言葉だったとおもいますが)、それで日本は降伏した」という事でした。そんな馬鹿な・・・「ソ連なら一週間も戦えば必ず降伏するのに」と思った事を覚えています。
旅順は日露戦争《注3》の激戦地です。
朝な夕な戦跡「爾霊山」《にれいさん 注4》 を仰ぎ見、毎月八日には「忠霊塔」《注5》 に参拝して、日露の戦いで日本兵がどんなに勇敢に戦ったかを、
幼いながら誇りに思って育ちました。
それがいきなり「ソ連に降伏」と言われて信じる事が出来るでしょうか・・・私達は「連合国」とか「アメリカ」とか言わなかったように思います。
私は外に出てみました。
真っ青な空と真夏の太陽、そして蝉の声だけの、本当に静かな昼下がりでした。
お隣の渡来先生のお宅も、その向こうの玲子ちゃんの家もいつもと変わらず、しぃ~んとしていて、何の変化もありません。
関東神宮《注6》 の方まで行ってみました。人の姿は全くありません。
「日本が負けた、そんな馬鹿な」心の中でそればかり繰り返し叫んでいました。
でも平穏はこの日が最後だったのです。
父は幸いにもまだ市内の集結地に居て、数日後帰宅したようです。
これからどうなるのか・・・
「写真類は焼くように」との指示があり、ブランコのあるアカシヤの木の下で写真を一枚一枚焼きました。
アルバムから剥がしては目に焼き付けて、火にくべました。
悲しくて、悲しくて、涙が後からあとから流れました。
ビロ―ド草が風に揺れていたように思います。
8月22日、ソ連軍が進駐してきました。
旅順はソ連にとっても、忘れ難い父祖奮戦《ふんせん=力をふるって闘った》の地だったのです。
私がその事に気付いたのは、ずぅ~っと後になってからです。
ソ連軍は大きなお屋敷から、次々に民家を接収していきます。
遂に我が家にも「2時間以内に立退」命令がきました。
父36歳、母29歳、今にして思えばこんな苛酷《かこく=厳しく残酷な》な運命を受け入れるには、あまりに若い二人でした。
8歳の私から3月に生まれたばかりの妹まで、5人の子供を抱えて、2時間で荷物を纏めるのは容易な事ではありません。
避難先も、家族が多いので他人さまのお宅は遠慮して、千歳倶楽部(今で言う公民館でしょうか)への入居許可を貰ってそこに引越ました。
その時父の勤務先の中国人が駆けつけて来て、手伝ってくれました。
大切なもので持って行けない物はその中国人にあげたり、預けたりしたそうです。
「預けた」と言う事はまた帰つて来る積もりもあったのでしょうか・・・(^。^)
荷物を纏めている間、塀の外には中国人が群がって見ていました。
出て行つたら、残った荷物を奪っていくためです。
乱暴は働きませんでしたが私は複雑な気持でした。
扉に緑の奇麗なカ―テンが貼ってある私の大切な本箱、美しいセロファンや千代紙、何処にいってしまったのでしょう。
確か大八車に載るだけの荷物を持って引っ越ししたのでした。
千歳倶楽部での生活は何日くらい続いたのか、いつもは必ず鍵をかけておくのに、ある夜かけ忘れたのでしょう、夜中に突然二人のソ連兵が侵入してきました。
殆どの荷物を置き去りにし、めぼしいものなど何も残っていないのに、あれこれと物色していました。後で聞くとカメラが欲しいと言ったとか。
奥の部屋の押入で息を殺して恐怖におののいている私達に向かって、突然父が「ゆきの、酔っぱらっているから逃げろ」と叫んだのです。
母は乳を含ませていた妹を置いて、窓から飛び降りて逃げました。
ロシア建の高い建物の二階からです。
その気配に気付いたソ連兵はバタバタと窓に駆け寄り、ピストルをやみくもに発射しました。
その時の恐ろしさ、「生きた心地がしない」とはこんな時の事でしょう。
暫くして諦めたのか、ソ連兵は出て行きました。
母を探して来るから・・・と鍵をかけて父が出ていきました。
「ゆきの―」「ゆきの―」と呼ぶ父の声が今でも耳に残っています。
押入の隅で怯えながら父の帰りを待った恐怖を忘れる事は出来ません。
心細い時間がどれくらい過ぎたでしょうか、母は父におぶさって戻ってきました。
飛び降りた時に、足を挫いて遠くまで逃げられず、
近くの陸軍病院の森の中にうずくまっていたのだそうです。
挫いたくらいで済んだのは、不幸中の幸いでした。
最初に進駐してきたソ連兵は囚人部隊だと言うう噂でした。
見つかったらどんな目にあったか想像にかたくありません。
こうして静かな学園都市旅順は、ソ連兵による略奪と暴行の町と化したのでした。
注1 中国東北部の遼東半島先端の都市で 嘗てロシアの軍港があった
注2 1945年8月15日戦争終結の天皇陛下自らの詔勅を放送された
注3 1904年(明治37年)大日本帝国とロシア帝国とが中国東北部を主戦場に戦い 日本の勝利となり ロシアの租借地を譲りうけた
注4 日露戦争でロシア軍軍港背面の山に要塞があり この要塞を巡る激しい攻防戦があったところ
注5 戦死した人を顕彰する記念塔
注6 中国東北部関東州 旅順市にあった神社 現在廃絶となる
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(その2・旅順を去る)
九月に入るとソ連から全ての旅順市民に大連への立ち退き命令が下りました。
大連まで馬車で避難した人達も多くいたようですが、私達家族は旅順駅から大連まで鉄道で行きました。
不思議な事ですが、車内は立っている人などいなくて、とても空いていたように思います。
私達家族は1ボックスに座っていました。右手窓の外を見ると、捕虜になった兵隊さん達が鉄条網に囲われたりんご畑で作業をしていました。
そして通過する列車に向かって手を振っているのです。
私達も手を振って「お元気で~」「さよ~なら~」と声を限りに叫びました。
林檎を投げてくれる兵隊さんもいました。母が「勿体ない」と言って泣きました。
私達はいずれ日本に帰れるのに、捕虜になった兵隊さん達はこれからどうなるのでしょう・・・
それなのに私達の事を心配して「頑張るんだょ」と励ましてくれたのです。
あの方達はその後シベリヤへ送られたのでしょう。
シベリヤでどんな運命が待っていたかは今では明白です。
途中水師営《すいしえい=旅順攻略後日露の司令官が会見した場所》を通過。
乃木将軍とステッセルとが会見した民家・なつめの木が草原の中にありました。
私自身はその時に列車の中から見た記憶だと思っているのですが、或いはその後の心象風景《しんしょうふうけい=心の中での風景》なのかも知れません。
いぃぇ、やっぱりあの時の記憶です。父が指さして教えてくれました。
私達はあの民家と棗《なつめ》の木を、見えなくなるまで目で追い続けました。
大連駅には伯父達家族が迎えに来てくれて、松葉杖をついた母は、従兄におぶさって駅から程近い伯父の家まで辿りついたのでした。
親類縁者のいる人はそこを頼り、頼る当てのない人達は、学校等の収容施設や大連の各家に強制的に同居させられました。
こうして20年の10月末には、旅順の人達はすべて大連に移住させられたのです。
私達が大連に着いた頃には、奥地(満洲)から、ぞくぞくと避難民が到着していたそうです。
断髪に麻袋(マタイ)を身にまとい、見るに耐えない無残な姿だったそうです。
遠からず日本への引揚げが始まると予期していた私達は、その後一年半、大連で難民生活を送らねばなりませんでした。
九月に入るとソ連から全ての旅順市民に大連への立ち退き命令が下りました。
大連まで馬車で避難した人達も多くいたようですが、私達家族は旅順駅から大連まで鉄道で行きました。
不思議な事ですが、車内は立っている人などいなくて、とても空いていたように思います。
私達家族は1ボックスに座っていました。右手窓の外を見ると、捕虜になった兵隊さん達が鉄条網に囲われたりんご畑で作業をしていました。
そして通過する列車に向かって手を振っているのです。
私達も手を振って「お元気で~」「さよ~なら~」と声を限りに叫びました。
林檎を投げてくれる兵隊さんもいました。母が「勿体ない」と言って泣きました。
私達はいずれ日本に帰れるのに、捕虜になった兵隊さん達はこれからどうなるのでしょう・・・
それなのに私達の事を心配して「頑張るんだょ」と励ましてくれたのです。
あの方達はその後シベリヤへ送られたのでしょう。
シベリヤでどんな運命が待っていたかは今では明白です。
途中水師営《すいしえい=旅順攻略後日露の司令官が会見した場所》を通過。
乃木将軍とステッセルとが会見した民家・なつめの木が草原の中にありました。
私自身はその時に列車の中から見た記憶だと思っているのですが、或いはその後の心象風景《しんしょうふうけい=心の中での風景》なのかも知れません。
いぃぇ、やっぱりあの時の記憶です。父が指さして教えてくれました。
私達はあの民家と棗《なつめ》の木を、見えなくなるまで目で追い続けました。
大連駅には伯父達家族が迎えに来てくれて、松葉杖をついた母は、従兄におぶさって駅から程近い伯父の家まで辿りついたのでした。
親類縁者のいる人はそこを頼り、頼る当てのない人達は、学校等の収容施設や大連の各家に強制的に同居させられました。
こうして20年の10月末には、旅順の人達はすべて大連に移住させられたのです。
私達が大連に着いた頃には、奥地(満洲)から、ぞくぞくと避難民が到着していたそうです。
断髪に麻袋(マタイ)を身にまとい、見るに耐えない無残な姿だったそうです。
遠からず日本への引揚げが始まると予期していた私達は、その後一年半、大連で難民生活を送らねばなりませんでした。
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(その3・大連での生活)
伯父は歯医者で、駅近くのかなり大きな家に住んでいましたが、私達家族7人が同居、更に奉天《ほうてん 注1》医大の学生だった従兄、旅順高校一年生の従兄がそれぞれ実家が内地だという学友を何人か連れて戻り、広い家にもとても入りきれなくなり、私達家族は大連運動場の近くにアパ―トを探してもらって移りました。
そのうち父が保証人を引受ていた、旅順高女の女学生だった絹枝さんが難民収容所にいる事がわかり、迎えにいって我が家の家族に加わりました。
連れて帰った晩、髪を洗ってあげたら洗面器が「しらみ」で真っ黒になった・・・と母の記憶です。
あの頃誰もが、「のみ」「しらみ」「南京虫」《吸血性の寄生虫》に悩まされました。
このアパ―トも、続々と増える避難民の収容施設が足りなくなったのか、あけ渡しになり、下藤町の吉村さんと言う方の所に強制的に移されました。
吉村さんは二階に住み、私達家族7人は階下の北側の六畳一間に、他にもう一家族が同居していました。
私はここで腎臓を患い、押入の上段に寝ていた事を思い出します。妹が死んだのもこの部屋でした。
大連での生活は、父がおりました分、恵まれていた方だと思います。
父は歯医者の伯父の斡旋で、自分の専門分野の仕事をしてたいようです。
母は夜なべをして得意の編物をしておりました。
セ―タ―1枚を三日くらいで仕上げていたと思います。
元々大連に住んでいた人達は、旅順からの避難民と違って、それなりに裕福だったのでしょう、注文は日本人からあったようです。
私は弟と「お豆腐売り」をしました。
これは大変でした。バケツにお豆腐を入れて売って歩くのですが、何しろお豆腐だけを入れる訳にはいきません。
たっぷりのお水にお豆腐を浮かして、崩れないように運ばなければなりません。
天秤棒でかついだ人もいましたが、私は弟と二人でバケツを持って歩きました。
寒い冬の朝、「ト―フ―」「ト―フ―」と大きな声を出して売って歩くのです。
恥ずかしくて声が出ません。
ちぃさな弟が声を張り上げてくれるのですが、それさえ恥ずかしくて・・・本当に泣きたくなりました。あまり長続きしなかったと思います。
大連運動場で「南京豆」や「煙草」を売っていた人もいます。
十歳前後の子供のことですから、ちょっとわき見した隙に盗まれたり、だまされたり。それでもたくましく生活を支えていたのでした。
ロシヤ人の家庭から黒パンを仕入れて売つたという人もいました。
「人殺し」以外、何でもした・・・と告白した同級生もいます。
初期の頃は売り食いなのどゆとりのあった人々も、やがて売り食いが尽きると、大連港での荷役《にやく=船荷の運搬》など力仕事に従事したのです。
昨年、49年に及んだ旧東独駐留《注2》からソ連軍が撤退した時の報道に、「ロシヤ軍兵士による基地引き払いは徹底しており、窓枠一つ残さずロシヤに持ち帰った」との報道がありましたが、私はこの時大連に進駐してきたソ連が、膨大な機械類を始めとして、レ―ル一本にいたるまで本国に運び出したといわれた事を思い出しました。
事の善し悪しは別として、日本が営々と築いてきた有形無形の財産は、全て中国側に引き渡される筈でした。
それ等を全て持ち去ったばかりでなく、軍属ばかりか、民間人までシベリヤに送ったのです。
こうして夜を日についで大連港からソ連本国に運び出す荷役の手伝いをして、飢えをしのがなければならなかった心中はいかばかりか・・・
空腹に耐えかねて、つまみ食いしたのが、「猫いらず」だったと言う話。
主食はコ―リャンや粟でした。
それさえ食べられない人達もいっぱい居たと思います。
母は父の収入があると、どうせ日本に持って帰えれないお金だから・・・と「銀飯」を炊いて食べさせて呉れたと、絹枝さんが話してくれました。
こんな我が家は恵まれていた方でしょう。
中には知り合いの中国人が、蔭ながら面倒を見てくれたと言う人もいます。
こうして生命をつないだ日々でした。
(返信)
私の敗戦体験、読んで下さってありがとうございます。
私の同級生にも、昭和20年3月、内地に帰られた方がいます。
その時、こなん時期に内地に帰るなんて・・・と大人たちが話し合っていたのを覚えております。
帰国の途中大連でお父様が召集《軍隊に入隊させられる》になり、そのまま帰ってこられなかった事。
朝鮮経由でとにもかくにも無事内地に帰り着いた事。
別途送った荷物は全て海に沈んだ事。
お父様の大切なレコ―ドが何よりも悔しいと話していました。
門司から東京までの列車は途中で何度も停車、東京では焼け野原を見てびっくり、その後、仙台まで帰り着くのに随分日数がかかったそうです。
そして旅順の同級生達が無事に内地に帰っているとは、夢にも思わなかったって・・・本当に何が運命を変えるかわかりませんね。
今思えば、一番いい時期に帰国なさったのかも知れません。
戦後の悲惨さを味わう事なく、また空襲の経験もしないで済んだ訳ですから。
旅順の思い出もお話し下さって嬉しくおもいます。
旅順の思い出を共有出来る方ってなかなかいないんですょね。
注1 中国東北部の現在の瀋陽
注2 第二次大戦中ドイツ降伏後ドイツを二分割し西側を米英軍が東側をソ連が占領駐留していた
伯父は歯医者で、駅近くのかなり大きな家に住んでいましたが、私達家族7人が同居、更に奉天《ほうてん 注1》医大の学生だった従兄、旅順高校一年生の従兄がそれぞれ実家が内地だという学友を何人か連れて戻り、広い家にもとても入りきれなくなり、私達家族は大連運動場の近くにアパ―トを探してもらって移りました。
そのうち父が保証人を引受ていた、旅順高女の女学生だった絹枝さんが難民収容所にいる事がわかり、迎えにいって我が家の家族に加わりました。
連れて帰った晩、髪を洗ってあげたら洗面器が「しらみ」で真っ黒になった・・・と母の記憶です。
あの頃誰もが、「のみ」「しらみ」「南京虫」《吸血性の寄生虫》に悩まされました。
このアパ―トも、続々と増える避難民の収容施設が足りなくなったのか、あけ渡しになり、下藤町の吉村さんと言う方の所に強制的に移されました。
吉村さんは二階に住み、私達家族7人は階下の北側の六畳一間に、他にもう一家族が同居していました。
私はここで腎臓を患い、押入の上段に寝ていた事を思い出します。妹が死んだのもこの部屋でした。
大連での生活は、父がおりました分、恵まれていた方だと思います。
父は歯医者の伯父の斡旋で、自分の専門分野の仕事をしてたいようです。
母は夜なべをして得意の編物をしておりました。
セ―タ―1枚を三日くらいで仕上げていたと思います。
元々大連に住んでいた人達は、旅順からの避難民と違って、それなりに裕福だったのでしょう、注文は日本人からあったようです。
私は弟と「お豆腐売り」をしました。
これは大変でした。バケツにお豆腐を入れて売って歩くのですが、何しろお豆腐だけを入れる訳にはいきません。
たっぷりのお水にお豆腐を浮かして、崩れないように運ばなければなりません。
天秤棒でかついだ人もいましたが、私は弟と二人でバケツを持って歩きました。
寒い冬の朝、「ト―フ―」「ト―フ―」と大きな声を出して売って歩くのです。
恥ずかしくて声が出ません。
ちぃさな弟が声を張り上げてくれるのですが、それさえ恥ずかしくて・・・本当に泣きたくなりました。あまり長続きしなかったと思います。
大連運動場で「南京豆」や「煙草」を売っていた人もいます。
十歳前後の子供のことですから、ちょっとわき見した隙に盗まれたり、だまされたり。それでもたくましく生活を支えていたのでした。
ロシヤ人の家庭から黒パンを仕入れて売つたという人もいました。
「人殺し」以外、何でもした・・・と告白した同級生もいます。
初期の頃は売り食いなのどゆとりのあった人々も、やがて売り食いが尽きると、大連港での荷役《にやく=船荷の運搬》など力仕事に従事したのです。
昨年、49年に及んだ旧東独駐留《注2》からソ連軍が撤退した時の報道に、「ロシヤ軍兵士による基地引き払いは徹底しており、窓枠一つ残さずロシヤに持ち帰った」との報道がありましたが、私はこの時大連に進駐してきたソ連が、膨大な機械類を始めとして、レ―ル一本にいたるまで本国に運び出したといわれた事を思い出しました。
事の善し悪しは別として、日本が営々と築いてきた有形無形の財産は、全て中国側に引き渡される筈でした。
それ等を全て持ち去ったばかりでなく、軍属ばかりか、民間人までシベリヤに送ったのです。
こうして夜を日についで大連港からソ連本国に運び出す荷役の手伝いをして、飢えをしのがなければならなかった心中はいかばかりか・・・
空腹に耐えかねて、つまみ食いしたのが、「猫いらず」だったと言う話。
主食はコ―リャンや粟でした。
それさえ食べられない人達もいっぱい居たと思います。
母は父の収入があると、どうせ日本に持って帰えれないお金だから・・・と「銀飯」を炊いて食べさせて呉れたと、絹枝さんが話してくれました。
こんな我が家は恵まれていた方でしょう。
中には知り合いの中国人が、蔭ながら面倒を見てくれたと言う人もいます。
こうして生命をつないだ日々でした。
(返信)
私の敗戦体験、読んで下さってありがとうございます。
私の同級生にも、昭和20年3月、内地に帰られた方がいます。
その時、こなん時期に内地に帰るなんて・・・と大人たちが話し合っていたのを覚えております。
帰国の途中大連でお父様が召集《軍隊に入隊させられる》になり、そのまま帰ってこられなかった事。
朝鮮経由でとにもかくにも無事内地に帰り着いた事。
別途送った荷物は全て海に沈んだ事。
お父様の大切なレコ―ドが何よりも悔しいと話していました。
門司から東京までの列車は途中で何度も停車、東京では焼け野原を見てびっくり、その後、仙台まで帰り着くのに随分日数がかかったそうです。
そして旅順の同級生達が無事に内地に帰っているとは、夢にも思わなかったって・・・本当に何が運命を変えるかわかりませんね。
今思えば、一番いい時期に帰国なさったのかも知れません。
戦後の悲惨さを味わう事なく、また空襲の経験もしないで済んだ訳ですから。
旅順の思い出もお話し下さって嬉しくおもいます。
旅順の思い出を共有出来る方ってなかなかいないんですょね。
注1 中国東北部の現在の瀋陽
注2 第二次大戦中ドイツ降伏後ドイツを二分割し西側を米英軍が東側をソ連が占領駐留していた
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(その4・引揚げ)
日本からの迎えの船は待てど暮らせどやって来ない。
終戦二度目の冬にはもう疲れきって、動くとお腹が空くだけだから・・・と何もしないでじぃっと寝ている事にしたと、話した同級生もいました。
こんな時期「こっくりさん」と言う占いが流行りました。
3本の割箸の片方を結んで、片方を足をつっぱるように三方に開いて、文字を書いた紙の上に乗せてるのです。
そして目をつぶって祈るような思いで聞きます。
「こっくりさん、こっくりさん、引揚船は何時来るの、教えて下さい」と・・・すると不思議にも割箸が動いて、文字を指して教えて呉れるのです。
また油揚を使った占いもあったように思います。
とにかく何時になったら日本に帰れるのか不安な毎日、こんな事でもしなければ、やりきれなかったのでしょう。
あと半年、引揚げが遅れたら生きてはいなかった・・・と言った人。
もぅ、生死の境、ぎりぎりのところ、昭和21年も押し詰まった12月、引揚げ第一船が入港したのでした。
奥地からの避難民、大学・高校への内地からの留学生など、今で言う「生活弱者」を乗せて、大連からの引揚げ第一船が出港したのは、年が明けて昭和22年1月1日でした。早い船で絹枝さんも先に帰国しました。
私達家族は終りに近い昭和22年3月22日、第一大海丸で帰国しました。
(正確な記録の第一船は21/12/3のようです)
引揚げが具体化した頃、技術者に中国の復興の為にと、中国政府から残留要請がありました。
大学教授、医者などはおおかた残されたと思います。
父も歯科医である伯父から「内地に帰っても仕事なんかないかも知れないから」と残留を勧められ、随分迷ったようです。でも私は頑として反対しました。
21年6月、アカシヤの咲く頃、妹が消化不良で死にました。
1年3ケ月の本当に可愛い盛りでした。
-----うつし世に残る面影ひとつなく
幼き吾子は永久にねむれる-----(当時の母の短歌)
両親は旅順で知り合って、旅順で結婚しましたから、私達姉弟妹はみな旅順生まれで、内地を知りません。
妹が死んだ時、私は祖国の土を踏む事なく、異郷で死ぬのは絶対にイヤだと思ったのです。
どうして父が子供の主張に従ったのか不明ですが、生活の為にかなり無理をしていたからでしょうか。
黄胆《おうだん=体の組織が黄色くなる病気》にかかって、寝ていた事もありましたし、馴れない肉体労働で、足が全く持ち上がらなくなって電車に乗るにも不自由だった事もあったそうです。
仕事上で中国人に文句を言われた事もあったと、後で従兄から聞きました。
今までの立場を思うと、それは屈辱だったと思います。
一年半の苦労は並大抵ではなかったでしょう。
母の足は幸いにも、良いお医者様に恵まれて、杖なしで歩けるまでに回復していたとは言え、妹の死や、私達の学校の事、赤化《せっか=共産思想を奨める》する社会情勢、さまざまな不安が、帰国を決意させたのかも知れません。
夜明け前、冷たい風の吹きすさぶ中、トラックに立錐《りっすい=立っておられる》の余地もないほどに詰め込まれて、埠頭近くの集結地に向いました。
灯りもなく、暖もなく、だだっ広い体育館のような収容所で一夜を過ごしました。
荷物に持たれて眠った事、眠たい目をこすりながら歩かされた事など、今でも夜のプラットホームなどで、ふ~っと蘇《よみがえって=思い出し当時の事が浮かんでくる》ってくることがあります。
荷物は手に持てるだけ。写真・記録類は一切ご法度《はっと=禁止の掟》。
持ち帰れるお金も制限されていたと思います。布団袋を父が担いでいました。
この布団袋は帰国後、何度かの引越の度に使用していましたので、はっきりと覚えています。
小豆色をしたガバガバの布地に「B55団」と書かれていました。
私も何か持たされたと思うのですが、何を持っていたのかさっぱり記憶がありません。
18年生まれの弟が、死んだ妹のお骨をリュックに入れて背負っていました。
収容所から桟橋まで大勢の人の列が続きます。
母が荷物を背に、弟達の手を引いていたのですが、私は大人達の狭間《はざま=間に挟まれて》で、押されて倒れそうになりました。
「押さないてくださ~い。子供が・子供が・・・」と必死の形相で叫んでいた母。
寒風の中なのに、誰もが額に汗びっしょりでした。
先日の関西大震災の一場面、又伊豆大島の噴火で島民が船で本土へ避難した時など「私もかつて同じ経験をした」と言う思いで胸がきゅぅんと締めつけられました。
ぎゅうぎゅう詰めの貨物船の船底で、何日かかったのか・・・あんなにも帰りたいと望んだ祖国でしたが、祖国の土を踏んだ時の感激はなぜか記憶にありません。
頭から、背中からDDT《注》を振りかけられた事ばかりが、印象に残っています。
大連から一足先に帰国して伊万里にいた伯母一家が、出迎えてくれました。
佐世保の収容所で何日過ごしたのでしょうか・・・
南風崎駅から引揚列車で父の妹がいる東京へ向ったのでした。
┏無残であったのは、引揚において、長い場合には40年もかかって
┃築きあげられた私有財産や人間関係のほとんどすべてが、
┗失われなければならなかったことであろう。 (清岡卓行著 アカシヤの大連より)
注 有機塩酸化合物の殺虫剤で 戦後多く使われたが その後人体に残留毒素持続する為 我が国では1971年から使用禁止となる
日本からの迎えの船は待てど暮らせどやって来ない。
終戦二度目の冬にはもう疲れきって、動くとお腹が空くだけだから・・・と何もしないでじぃっと寝ている事にしたと、話した同級生もいました。
こんな時期「こっくりさん」と言う占いが流行りました。
3本の割箸の片方を結んで、片方を足をつっぱるように三方に開いて、文字を書いた紙の上に乗せてるのです。
そして目をつぶって祈るような思いで聞きます。
「こっくりさん、こっくりさん、引揚船は何時来るの、教えて下さい」と・・・すると不思議にも割箸が動いて、文字を指して教えて呉れるのです。
また油揚を使った占いもあったように思います。
とにかく何時になったら日本に帰れるのか不安な毎日、こんな事でもしなければ、やりきれなかったのでしょう。
あと半年、引揚げが遅れたら生きてはいなかった・・・と言った人。
もぅ、生死の境、ぎりぎりのところ、昭和21年も押し詰まった12月、引揚げ第一船が入港したのでした。
奥地からの避難民、大学・高校への内地からの留学生など、今で言う「生活弱者」を乗せて、大連からの引揚げ第一船が出港したのは、年が明けて昭和22年1月1日でした。早い船で絹枝さんも先に帰国しました。
私達家族は終りに近い昭和22年3月22日、第一大海丸で帰国しました。
(正確な記録の第一船は21/12/3のようです)
引揚げが具体化した頃、技術者に中国の復興の為にと、中国政府から残留要請がありました。
大学教授、医者などはおおかた残されたと思います。
父も歯科医である伯父から「内地に帰っても仕事なんかないかも知れないから」と残留を勧められ、随分迷ったようです。でも私は頑として反対しました。
21年6月、アカシヤの咲く頃、妹が消化不良で死にました。
1年3ケ月の本当に可愛い盛りでした。
-----うつし世に残る面影ひとつなく
幼き吾子は永久にねむれる-----(当時の母の短歌)
両親は旅順で知り合って、旅順で結婚しましたから、私達姉弟妹はみな旅順生まれで、内地を知りません。
妹が死んだ時、私は祖国の土を踏む事なく、異郷で死ぬのは絶対にイヤだと思ったのです。
どうして父が子供の主張に従ったのか不明ですが、生活の為にかなり無理をしていたからでしょうか。
黄胆《おうだん=体の組織が黄色くなる病気》にかかって、寝ていた事もありましたし、馴れない肉体労働で、足が全く持ち上がらなくなって電車に乗るにも不自由だった事もあったそうです。
仕事上で中国人に文句を言われた事もあったと、後で従兄から聞きました。
今までの立場を思うと、それは屈辱だったと思います。
一年半の苦労は並大抵ではなかったでしょう。
母の足は幸いにも、良いお医者様に恵まれて、杖なしで歩けるまでに回復していたとは言え、妹の死や、私達の学校の事、赤化《せっか=共産思想を奨める》する社会情勢、さまざまな不安が、帰国を決意させたのかも知れません。
夜明け前、冷たい風の吹きすさぶ中、トラックに立錐《りっすい=立っておられる》の余地もないほどに詰め込まれて、埠頭近くの集結地に向いました。
灯りもなく、暖もなく、だだっ広い体育館のような収容所で一夜を過ごしました。
荷物に持たれて眠った事、眠たい目をこすりながら歩かされた事など、今でも夜のプラットホームなどで、ふ~っと蘇《よみがえって=思い出し当時の事が浮かんでくる》ってくることがあります。
荷物は手に持てるだけ。写真・記録類は一切ご法度《はっと=禁止の掟》。
持ち帰れるお金も制限されていたと思います。布団袋を父が担いでいました。
この布団袋は帰国後、何度かの引越の度に使用していましたので、はっきりと覚えています。
小豆色をしたガバガバの布地に「B55団」と書かれていました。
私も何か持たされたと思うのですが、何を持っていたのかさっぱり記憶がありません。
18年生まれの弟が、死んだ妹のお骨をリュックに入れて背負っていました。
収容所から桟橋まで大勢の人の列が続きます。
母が荷物を背に、弟達の手を引いていたのですが、私は大人達の狭間《はざま=間に挟まれて》で、押されて倒れそうになりました。
「押さないてくださ~い。子供が・子供が・・・」と必死の形相で叫んでいた母。
寒風の中なのに、誰もが額に汗びっしょりでした。
先日の関西大震災の一場面、又伊豆大島の噴火で島民が船で本土へ避難した時など「私もかつて同じ経験をした」と言う思いで胸がきゅぅんと締めつけられました。
ぎゅうぎゅう詰めの貨物船の船底で、何日かかったのか・・・あんなにも帰りたいと望んだ祖国でしたが、祖国の土を踏んだ時の感激はなぜか記憶にありません。
頭から、背中からDDT《注》を振りかけられた事ばかりが、印象に残っています。
大連から一足先に帰国して伊万里にいた伯母一家が、出迎えてくれました。
佐世保の収容所で何日過ごしたのでしょうか・・・
南風崎駅から引揚列車で父の妹がいる東京へ向ったのでした。
┏無残であったのは、引揚において、長い場合には40年もかかって
┃築きあげられた私有財産や人間関係のほとんどすべてが、
┗失われなければならなかったことであろう。 (清岡卓行著 アカシヤの大連より)
注 有機塩酸化合物の殺虫剤で 戦後多く使われたが その後人体に残留毒素持続する為 我が国では1971年から使用禁止となる
編集者
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(その5・後で知った事)
なぜ大連からの引き揚げはこんなにも遅れたのだろうか?
そこには米ソの対立、国共内戦等が複雑にからみあっていたようです。
ここに1992年12月28日の新聞の切り抜きがあります。
『100歳、消えた"党の顔"』という見出しで、
53年前無実の同志山本懸蔵を裏切り、スパイとして密告した事実が判明、共産党の名誉議長野坂参三が党除名処分になった記事です。
併記して昭和21年1月26日、日比谷公園で野坂参三氏15年ぶりの帰国を祝う「歓迎国民大会」が盛大に催されたとの記事がありま す。
この集会で野坂参三は
「満洲の残留邦人は中国共産党、ソ連軍の庇護《ひご》のもとで
生活不安もなく安全に暮らしている」と演説したのです。
人はこんなにも平然と公然と嘘をつき、同胞を裏切る事が出来るものなのか・・・
この大会の模様をひそかに隠し持ったラジオで知った奉天残留の三人の日本人が決死の覚悟で満洲脱出、マッカ―サ―元帥や吉田首相に在満同胞の窮状を直訴、引揚げの早期実現の為に尽くした話は実に感動的です。
この事によりどれだけ引揚げが早やまったかは正確には知りませんが、餓死寸前の多くの生命が救われた事は確かでしょう。
「あと1週間も頑張ればソ連なんか降伏したのに」と
幼い私が単純に考えていた頃。
ソ連は、日ソ不可侵条約《注1》を無視、疾風の進撃により、一挙に満洲全土を席巻《せっけん=蓆をまく様に領土を攻め取る》。
この怒濤《どとう=荒れ狂う海》のように押し寄せたソ連軍の戦車は、大混乱の中、逃げ惑う避難民を虫けらのように押し潰していたのでした。
「葛根廟事件」「麻山事件」《注2》その他開拓団の悲劇、ソ連抑留等々ソ連は終戦直前に参戦、残虐の限りをつくしことは忘れられない事です。
たった1週間連合国の一員になっだけで、戦勝国の中で唯一領土の割譲を強行、以来50年、未だに理不尽に我が国を「侵略」しているのです。
「日ソ不可侵条約」の破棄が通告された(4月)段階で、
ソ連の魂胆を見抜けず、和平の仲介を依頼した時の為政者。
「今でも理解出来ないのは、日本が終戦直前、ソ連を通し、和平の打診をしていたことだ。日本は真にソ連を中立国、否、他の中立国に比し日本に多少なりとも友好的な中立国と考えていたのだろうか」アメリカの高級参謀の率直な疑問は私の疑問でもあります。
「なんの為にソ連が米ソ関係を犠牲にしてまで対日関係の増進を考えるだろうか」と対ソ和平工作に内心批判的だった当時の佐藤尚武駐ソ大使。
「鉛を飲む思いをもってすべての犠牲を忍び国体護持の一途にいづるほかなし」
「幾百万の無辜《むこ=罪の無い》の都市住民を犠牲にして、なお抗戦の意義ありや」
「七千万の民草枯れて上御一人《天皇陛下》ご安泰を得べきや」
「国民は長期にわたり、敵国の重圧にあえがざるを得ず。
しかしながら国家の命脈はこれによりて継がるべく、かくて数十年の後、
再び以前の繁栄を回復するを得べん」佐藤尚武駐ソ大使の本国への電報です。
「祖国の興亡、この一電にかかわるとさえ思われ、書き終わって机に臥《ふ》す。
涙滂沱《なみだぼうぼう》たり」----------------------------------佐藤尚武(回顧八十年)
スウェーデン駐在武官小野寺信大佐の「ヤルタの密約情報」を握りつぶした参謀本部。
感慨無量なものがあります。
これからも「秘密文書」の公開等で新しい事実が判明するのでしょうか・・・
注1 1941年4月日本とソ連とが お互い侵入しないと条文を作り約束した しかし1945年8月一方的に条約を破棄し侵入してきた
注2 「葛根廟事件」中国東北部葛根廟で 在留邦人千数百人がソ連軍戦車部隊に襲われ 千人以上が惨殺された
「麻山事件」 1945年8月12日に起こった満蒙開拓団四百数十人が集団自決した
なぜ大連からの引き揚げはこんなにも遅れたのだろうか?
そこには米ソの対立、国共内戦等が複雑にからみあっていたようです。
ここに1992年12月28日の新聞の切り抜きがあります。
『100歳、消えた"党の顔"』という見出しで、
53年前無実の同志山本懸蔵を裏切り、スパイとして密告した事実が判明、共産党の名誉議長野坂参三が党除名処分になった記事です。
併記して昭和21年1月26日、日比谷公園で野坂参三氏15年ぶりの帰国を祝う「歓迎国民大会」が盛大に催されたとの記事がありま す。
この集会で野坂参三は
「満洲の残留邦人は中国共産党、ソ連軍の庇護《ひご》のもとで
生活不安もなく安全に暮らしている」と演説したのです。
人はこんなにも平然と公然と嘘をつき、同胞を裏切る事が出来るものなのか・・・
この大会の模様をひそかに隠し持ったラジオで知った奉天残留の三人の日本人が決死の覚悟で満洲脱出、マッカ―サ―元帥や吉田首相に在満同胞の窮状を直訴、引揚げの早期実現の為に尽くした話は実に感動的です。
この事によりどれだけ引揚げが早やまったかは正確には知りませんが、餓死寸前の多くの生命が救われた事は確かでしょう。
「あと1週間も頑張ればソ連なんか降伏したのに」と
幼い私が単純に考えていた頃。
ソ連は、日ソ不可侵条約《注1》を無視、疾風の進撃により、一挙に満洲全土を席巻《せっけん=蓆をまく様に領土を攻め取る》。
この怒濤《どとう=荒れ狂う海》のように押し寄せたソ連軍の戦車は、大混乱の中、逃げ惑う避難民を虫けらのように押し潰していたのでした。
「葛根廟事件」「麻山事件」《注2》その他開拓団の悲劇、ソ連抑留等々ソ連は終戦直前に参戦、残虐の限りをつくしことは忘れられない事です。
たった1週間連合国の一員になっだけで、戦勝国の中で唯一領土の割譲を強行、以来50年、未だに理不尽に我が国を「侵略」しているのです。
「日ソ不可侵条約」の破棄が通告された(4月)段階で、
ソ連の魂胆を見抜けず、和平の仲介を依頼した時の為政者。
「今でも理解出来ないのは、日本が終戦直前、ソ連を通し、和平の打診をしていたことだ。日本は真にソ連を中立国、否、他の中立国に比し日本に多少なりとも友好的な中立国と考えていたのだろうか」アメリカの高級参謀の率直な疑問は私の疑問でもあります。
「なんの為にソ連が米ソ関係を犠牲にしてまで対日関係の増進を考えるだろうか」と対ソ和平工作に内心批判的だった当時の佐藤尚武駐ソ大使。
「鉛を飲む思いをもってすべての犠牲を忍び国体護持の一途にいづるほかなし」
「幾百万の無辜《むこ=罪の無い》の都市住民を犠牲にして、なお抗戦の意義ありや」
「七千万の民草枯れて上御一人《天皇陛下》ご安泰を得べきや」
「国民は長期にわたり、敵国の重圧にあえがざるを得ず。
しかしながら国家の命脈はこれによりて継がるべく、かくて数十年の後、
再び以前の繁栄を回復するを得べん」佐藤尚武駐ソ大使の本国への電報です。
「祖国の興亡、この一電にかかわるとさえ思われ、書き終わって机に臥《ふ》す。
涙滂沱《なみだぼうぼう》たり」----------------------------------佐藤尚武(回顧八十年)
スウェーデン駐在武官小野寺信大佐の「ヤルタの密約情報」を握りつぶした参謀本部。
感慨無量なものがあります。
これからも「秘密文書」の公開等で新しい事実が判明するのでしょうか・・・
注1 1941年4月日本とソ連とが お互い侵入しないと条文を作り約束した しかし1945年8月一方的に条約を破棄し侵入してきた
注2 「葛根廟事件」中国東北部葛根廟で 在留邦人千数百人がソ連軍戦車部隊に襲われ 千人以上が惨殺された
「麻山事件」 1945年8月12日に起こった満蒙開拓団四百数十人が集団自決した
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編集者 (代理投稿)
編集者
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(その6・最近思う事)
歴史とは「戦い」の繰り返しである。
現に今も地球上で凄惨な「殺し合い」「奪い合い」が、絶え間なく続いている。
どの国の歴史にも必ず栄光と汚辱の両面がある。
どんな国家、どんな民族にも「光と影」がある。
先の大戦にも影と共に光もあった事をきちんと認めたい。
当事国は「光」を採り「正義」を主張する。
あえて自国の「影」のみを捕らえて自虐的になっているのは、日本だけではないだろうか。
外国に向かって日本の非を唱える「反日的日本人」にはなりたくない。
先の大戦にも誇るべき事実もあった事を忘れたくない。
*歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させる事に貢献した国はない
------------------------------バ-・モウ『ビルマの夜明け』
*日本人は東北開発の恩人なり--------林彪(日経新聞江上波夫氏「私の履歴書」
*日本民族の戦争はインドネシア民族の戦争である
------インドネシア独立の英雄 スカルノ初代大統領
*ビルマ独立義勇軍が日本軍とともにビルマに進駐した事は、
ビルマ人にとって非常に誇らしく喜ばしい出来事であった
------ノ-ベル平和賞受 賞者ス―・チ―
*私は1929年から1945年までの17年間の歴史を2年7ケ月かかって調べ、 私の判決文につづった。欧米こそアジヤ侵略の張本人である。
それなのにあなた方は、自分の子弟に「日本は犯罪を侵した」「侵略の暴挙をあえてした」と教えている。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されるのを私は見過ごすわけにはいかない」 ---インドのパル判事(兵庫県立宝塚西高教諭・中島英迪著---爽やか通信4
*さきの大戦が持つ大きな意味は、あの犠牲によって人々が解放され、独立が達成出来たことだ。
日本はオランダによって投獄されていた独立の戦士たちを解放してくれた。
日本の支援が東南アジアの人々に自信をもたらしてくれた。
アジアの諸国は日本を手本にしてやっていこうと考えている。
日本はアジアの教師であり、自信である。
ところが、最近の日本の国民をみていると、なんだか自信がなさそうだ。
日本に自信を取り戻して貰い、そしてもう一度心の豊かな国になつて貰いたい。
-------マレ-シア・マラヤ大学副学長・フセイン・アラタス
日本がアジヤ近隣の人々に与えた被害や罪禍には、率直な自戒と反省が必要なのはいうまでもない。
しかし歴史のバランス感覚からすれば、あの戦争は、結果として東南アジヤに対する数世紀にわたる欧 米の抑圧や植民地支配をうちくだき、独立と解放をうながす一面を持った。
歴史を見る平衡感覚とは、その影と共に光の部分についても、正しく認識する事ではないだろうか。
日本の過去をあしざまにののしるだけでなく、父祖のあやまちに対する苦さ、その苦さと悲しみとを通して、日本と言う国と民族へのいとおしみを、自国への愛や誇りを忘れたくないと思う。
少なくとも私は、自国に誇りを持ち自国を愛する国民でありたいと願っています。
けれども「謝罪決議」「不戦決議」と血眼になっている最近の風潮は、こんな私の願いを根底から覆されるるようで、本当に悲しい。
歴史とは「戦い」の繰り返しである。
現に今も地球上で凄惨な「殺し合い」「奪い合い」が、絶え間なく続いている。
どの国の歴史にも必ず栄光と汚辱の両面がある。
どんな国家、どんな民族にも「光と影」がある。
先の大戦にも影と共に光もあった事をきちんと認めたい。
当事国は「光」を採り「正義」を主張する。
あえて自国の「影」のみを捕らえて自虐的になっているのは、日本だけではないだろうか。
外国に向かって日本の非を唱える「反日的日本人」にはなりたくない。
先の大戦にも誇るべき事実もあった事を忘れたくない。
*歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させる事に貢献した国はない
------------------------------バ-・モウ『ビルマの夜明け』
*日本人は東北開発の恩人なり--------林彪(日経新聞江上波夫氏「私の履歴書」
*日本民族の戦争はインドネシア民族の戦争である
------インドネシア独立の英雄 スカルノ初代大統領
*ビルマ独立義勇軍が日本軍とともにビルマに進駐した事は、
ビルマ人にとって非常に誇らしく喜ばしい出来事であった
------ノ-ベル平和賞受 賞者ス―・チ―
*私は1929年から1945年までの17年間の歴史を2年7ケ月かかって調べ、 私の判決文につづった。欧米こそアジヤ侵略の張本人である。
それなのにあなた方は、自分の子弟に「日本は犯罪を侵した」「侵略の暴挙をあえてした」と教えている。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されるのを私は見過ごすわけにはいかない」 ---インドのパル判事(兵庫県立宝塚西高教諭・中島英迪著---爽やか通信4
*さきの大戦が持つ大きな意味は、あの犠牲によって人々が解放され、独立が達成出来たことだ。
日本はオランダによって投獄されていた独立の戦士たちを解放してくれた。
日本の支援が東南アジアの人々に自信をもたらしてくれた。
アジアの諸国は日本を手本にしてやっていこうと考えている。
日本はアジアの教師であり、自信である。
ところが、最近の日本の国民をみていると、なんだか自信がなさそうだ。
日本に自信を取り戻して貰い、そしてもう一度心の豊かな国になつて貰いたい。
-------マレ-シア・マラヤ大学副学長・フセイン・アラタス
日本がアジヤ近隣の人々に与えた被害や罪禍には、率直な自戒と反省が必要なのはいうまでもない。
しかし歴史のバランス感覚からすれば、あの戦争は、結果として東南アジヤに対する数世紀にわたる欧 米の抑圧や植民地支配をうちくだき、独立と解放をうながす一面を持った。
歴史を見る平衡感覚とは、その影と共に光の部分についても、正しく認識する事ではないだろうか。
日本の過去をあしざまにののしるだけでなく、父祖のあやまちに対する苦さ、その苦さと悲しみとを通して、日本と言う国と民族へのいとおしみを、自国への愛や誇りを忘れたくないと思う。
少なくとも私は、自国に誇りを持ち自国を愛する国民でありたいと願っています。
けれども「謝罪決議」「不戦決議」と血眼になっている最近の風潮は、こんな私の願いを根底から覆されるるようで、本当に悲しい。
編集者
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(その7・最後に尋ね人)
うさぎ追いしあの山 こぶなつりしかの川
夢はいまもめぐりて 忘れがたきふるさと
私が外地「旅順」で終戦を迎えたのは、先にも書きましたように、旅順師範附属国民学校三年生の夏休みのことでした。
母校は進駐してきたソ連軍に接収され、恩師学友と別れの挨拶を交わすこともなく、大連に強制移住をさせられました。
そして日本への引揚げとともに同級生の消息は全く判らなくなりました。
あの混乱の中で幼い私たちに再会への絆を残しておくことなど思いも及びませんでした。
それから三十有余年、それぞれにふるさと旅順を・当時の友を恩師を懐かしみつつも再会が叶うとは考えられないことでした。
それが昭和56年新聞紙上で、終戦とともに消滅した母校の同窓会がなお存続していることを知ったのです。
それまでに連絡のとれていた、たった二人の友人が京都と金沢から上京、三人で出席しました。
同級生の消息などなんらかの情報が得られるかと期待したのですが・・・明治42年創立の学校に相応しくかなりの年配の方々が多く、終戦当時の在校生は数人にすぎず、勿論私たちの同級生に会うことは出来ませんでした。
同窓会の名簿に同級生の名前は一人も掲ってはおりませんでした。
ただこのことがきっかけで私の同級生捜しがはじまったのです。
当時の名簿も写真も、手がかりになるような資料など何ひとつありません。
遠い幼い日の記憶を必死にたぐり、思い出した名前から、同窓会名簿に兄・姉らしき人を捜がして、尋ねることから始めました。
手がかりを求め厚生省・外務省にも行ってみました。
昭和27年発行の旅順関係者の引揚げ先・勤務先名簿を入手、かなり古い住所ではありましたが、手がかりとなりました。
1年後、努力の甲斐あって恩師5人と同級生18人の再会が実現したのです。
八っつの時に別れて実に37年振りの再会でした。
遠くは鹿児島・熊本からも参加、「感激」の一日でした。
37年の空白でお互い個人個人に対する記憶は少なくとも、
懐かしさは胸にいっぱい、共通の思い出は沢山ありました。
兎狩り・学芸会・水泳・勤労奉仕・遠足等々・・・
一人づつ自己紹介を兼ねて、終戦から現在までの歩みを語り合いました。
ソ連軍の進駐で逃げまどった日々、大連での難民生活、貨物船での引揚げと話はつきませんでした。
父親がソ連に抑留され自分が家族6人無事に連れて帰ってきたと話したひと。
あと半月引揚げが遅れたら家族で餓死したかも知れないと話したひと。
市場で煙草売りをして、品物を全部取られてしまった話。
母と弟の遺骨を旅順のお寺に預けたままだという人。
やっと日本に帰り着いたのに、父は引揚船での怪我がもとで回復することなく亡くなったという人。
お父さんの戦友から戦後〇〇で別れたと聞かされて、今でも中国のどこかで生きているのではないかと思うと言った人。
父親が召集になり、その後母親を旅順で亡くし孤児となって兄妹三人離ればなれにそれでも無事帰ってきた・・と残留孤児になりかかった人。
苦しく悲しい境遇にもめげず誰もが何と逞しく生きてきたのでしょう。
話は尽きることなく一夜を語り明かしたのでした。同世代、同じ場所で多かれ少なかれ同じ体験をした私達だけが知る感動の再会でした。
それからも旧友捜しは続き現在50余名の消息が判明しました。
同級生の約半数が判ったことになるのではないかと思います。
未だ再会を果たしていない人もおりますが、その方たちともいつの日か共に過ごした旅順の思い出を、語り合う日がくることを願っています。
6歳から8歳までのあまりに幼ない日の、しかも僅か2年数ケ月の同級生が37年の歳月を経て、年に一度集まっては、桜・アカシヤ・ライラックの美しい街「旅順」に想いをはせ、帝政ロシア時代ホテルだったというあの瀟洒な白亜の校舎をしのび、旧交をあたためています。
今では異郷となった旅順ですが私達のふるさとに変わりはありません。
私達の夢は旅順が一日も早く開放され、その地で同窓会をすることなのです。
まだ連絡の取れていない方の消息が、一人でも判明すれば、これに優る喜びはございません。
未だ消息不明の方々からのご連絡をお待ちしています。
該当される方、また御存じの方がおられましたら、是非ご連絡をお願い致します。
*下記は消息不明の同級生です。(敬称略)
男子;新井 融 今西章二 植木 皓 上田敬春 浦田 清
江原直彦 大山 悟 鍛冶政秋 梶山日出男 加藤宗生
木村倍男 栗井高明 古賀一守 五反田浩三 酒井田晃
坂口 弘 佐々木健一 佐々木繁 平木哲夫 高木敏行
谷口俊一 得丸憲司 長屋康生 難波雅秀 西田利之
橋本竜一 馬場崎明 兵藤照敏 広川英雄 藤木次郎
藤田 章 松永治之 宮田隆光 山口 浩 養松康博
横谷義行 渡部 剛
女子;新井博子 北本本子 酒井菊枝 白川雲珠 杉野美智子
瀬野良子 高木一子 照屋信子 潘 栄子 太ヒデ子
森美智恵
尚当時の先生は1年生の時、 浅野先生、 水野先生、 野村先生
2年生の時、 石田先生、 野村先生
3年生の時、 男子組 山口先生、 女子組 伊藤先生です。
パソコン通信での「尋ね人」で一人でも消息が判ったら、どんなに素晴らしい事でしょう。