> > > > ということで > > > > 12月、1月、2月の > > > > 京のおばんざいを少しずつ紹介してみましょう。
1月の巻 ぶりの骨
お正月は十五日で松の内がすんで、あとはもうなんでもない普通の日になるのに 二十日をまた骨正月といいました。 この日はぶりの骨やさけの頭を使って、かす汁をつくったり、お大根と炊き合わせて食べたりしたのです。 わたしが骨正月をおぼえているのですから、そんなに前の話ではないと思うのに いまの若い人たちには耳新しい言葉みたい。 よその国の珍しい習慣みたいな顔つきで聞くのですから、妙な気がしてきます。
ぶりの骨には熱湯をかけて生ぐさみをぬき、お大根と炊き合わせました。 さけの頭は出刃包丁で割って、それを薄く切って、かす汁に入れました。 どんなにしても、しょせん生ぐさくて、子ども心に好きではありませんでしたが、これをいただかなかったらほかに食べるものがありませんでした。
京都の家の造りは、片側が裏までつつぬけの通り庭になっていて、そこにお台所があります。 天井もなく太いはりがむき出しになっています。上の方に天窓が一つ、そこから光が入ってきます。表から裏までつつぬけのお勝手元には、よく風がとおります。底冷えのする京都の冬には、いよいよ寒い台所です。ですが物はくさらず、天然の冷蔵庫といったぐあいです。
わたしはときどき、実家の中京の家のお台所を思い出すのです。おくどさんに薪をくべてご飯を炊いているおなごしさんの背のあたりの暗いところに、縄でつり下げてあった塩ぶりやさけのことを。 それが日とともに短くなって、やがて頭ばかり残るころ、たたきに生ぐさいしたたりのあとがついています。 少女のころは、それを心の底からうとましいことだとながめていました。 今そんな少女のころも、母がいる中京の家も、なつかしいのです。
前にも紹介したことがあるが 中世ドイツの研究家の阿部謹也先生の文化というものの説明を もう一度ここに出します。
故郷の山や海に対する思いがこめられた地名なども、 ものの名前にすぎないわけでであるが、 そこには思いがこめられている限り、 その土地の人だけがそのことばを聞いた瞬間に その光景を頭に浮かび上がらせることができるのである。
その土地の人間にしかわからないという意味で、 非合理なものや不合理なものを含んでいるのである。
だれにでも理解し得るというわけにはいかない、その仲間にしか完全にはわからない それが文化というもののもつ特性だということである。
特定の土地に長く住んでいないとわからないような感覚の世界があって、 それを私たちは文化の世界というふうに一応いっております。
京都の天井の高い家の中、太いはりからぶら下げられた鮭や鰤 冬の台所は寒いから天然の冷蔵庫。
そんな台所の雰囲気は、京都は見たことがないが、新潟県の高田の雁木の家のある開放された家の内部を思い出す。
私も毎年冬になると、海岸の親戚から送られてくる新巻を、庭の物干しに吊したりする。そうすると猫がねらってくるから、二階のベランダの洗濯物干し場に移し替えたりする。
鮭の切り身をとって残った頭は、やはり酒粕をつかって煮て食べたりすが、私はおいしくて冬の楽しみだった。
|