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[No.15181] 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/02(Sun) 06:55
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妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

御坂峠
太宰治の小説の舞台である。
この文章では、見合い当時のことが書かれている。
御坂トンネルの大きな暗い口のすぐわきに、街道に面して、天下茶屋が建っていた。
前に、甲府の美知子の実家で会ったときよりも太宰は若々しく、寛いでみえたが、バスを降りた美知子を迎えた、茶店のしっかり者らしい三十過ぎのおかみさんと、大柄の妹の、ふたりの同性の眼が、二階の座敷に上がってからも美知子には気にかかり、モトヒコという太宰にまつわりついて甘えている子のことも美知子にはじゃまに思われた。

太宰は美知子に、ひっきりなしに煙草を吸いながら、先日までここに滞在していたI先生ご夫妻のこと、この茶店の主人は応召中などを話した。
天下茶屋は、かなり広い二階建てで、階下には型通りテーブルや腰掛を配置し、土産物やキャラメル、サイダーなどを並べ、二階は宿泊できるようになっていた。

御坂トンネルが穿たれて甲府盆地と富士山麓を直結する新道八号線が開通したのが昭和五年で、川口湖畔のТさんがこの茶店を建てたのもその頃であろう。
甲府盆地では御坂山脈に遮られて富士は頂上に近い一部しか見えない。
盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に広がる河口湖とが視野にとびこんで「天下の絶景」ということになる。
トンネルの口の高いところに「天下第一」と掘り込まれている。

I先生が太宰を励まして新しい出発を決意させたのである。下宿での毎日がよくない。東京を離れて山中に籠もって、長編にとりくんでみるようにと、この茶店を紹介したくださり、書き上げたら竹村書店から上梓してもらう内諾もとってくださっていた、そう書いて美知子はI先生に感謝している。

大きな課題を負い、師を頼って御坂にきた太宰は、I先生のご帰京後は一人ぼっちでこの二階に残されたのであった。
それらはあの小説に書かれたとおりであった。
 ☆ 富嶽百景ですね。  井伏鱒二は良い師匠だった。

御崎町
六月に実家の母、妹と四人で東海に遊んだ。三保の燈台下の三保園は、美知子が以前来たとき大変よい印象を受けたので、皆を引っ張ってきたのだが、太宰にも気に入って、後日また訪ねている。
修善寺で一泊して三島に出たときは小雨が降っていた。太宰は雨の中を先に立って町中歩き回り、美知子は安くてうまい店を探しているものとばかり思っていた。
なんと三島は太宰の老ハイデルベルヒだったとは美知子は知る由もなかった。
 ☆ 私もこれを読んでびっくり。三島が太宰の老ハイデルベルヒだったとは。

初めて金木に行ったとき
昭和17年の秋、美知子は始めて太宰の生まれ故郷の金木に行った。
母が重態なので生前に修治とその妻子を対面させておきたいと、北、中畑両氏がはからってくれたのだ。これが十月下旬で、十二月十日に母は死んだから、いま思えばまことに時を得た配慮であった。
美知子としても夫の母なる人に会わず仕舞いでは心残りだったと思うと書いている。なんといっても苦労人の両氏は有難い存在であると感謝している。

このとき郷里へのお土産とともに、美知子は95円の駒燃りお召しを買ってもらう。まだ駒燃りの出始めで呉服売り場でもそれは高級品の部類であった。それに加えて流行の黒いハンドバッグも買ってもらう。
美知子が太宰に着物その他身につける品を買ってもらったのは、あとにもさきにもこのとき一度だけだった。
原稿料が入ると、いつも太宰の着物は買っても、妻にも何か買うかとは言わなかったので、美知子は不満だった。だから、金木行きのときにこのときとばかり高級品を買ってもらい鬱憤をはらしたのだったが、太宰はたまらん、たまらん、破産だと騒いだという。
 ☆ 太宰という人は家族にとても迷惑をかけた。 妻としては言いたいこともいっぱいあったろう。この本はそういうことは書いていない。事実だけたんたんと書いている。それは感心する。


[No.15478] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 11:40
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> 妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

昭和14年1月に太宰は御崎町の借家に移った。
新婚夫婦が引越す前に、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの
太宰にとって不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと
妻美知子の実家の人たちにひやかされたが、その点は便利だった。
酒の肴はもっぱら湯豆腐で「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と隣近所のうわさとなったという。
太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯が悪いのと、何丁買っても高が知れているから豆腐を買うのであった。
 この家で太宰は待ちかまえていたように、美知子に口述筆記をさせる。
「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合う」から始まったが、
彼女は前半を全く読んでいなかったから唐突な感じがした。
また今こそ珍しくないが、当時赤いコートなどはほとんど見かけなかったから
揃いの赤い外套を着た娘さんから写真のシャッターを切ることを頼まれるところで
赤い外套をほかの色に変えるように言おうかと思いつつ遠慮はて言わなくてよかった。
赤いコートでこそ効果的なので、何十年も昔に、太宰はファッションの先どりをしていたことになる。
「女生徒」では、下着の胸に赤いバラの花を刺繍したとあるのを、下着には白い刺繍の方がよいと思うと口出ししたのだが、これはよかったかどうか。

 ☆ 妻美知子は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業で高等女学校教師だったから、口述筆記をさせたことは適切だったであろう。
今この本を読むと、富嶽百景のころには写真はモノクロであってカラー写真は珍しかったのではなかろうかと思う。
下着には白い刺繍がふさわしいだろう。

昭和20年2月末に、「惜別」237枚は完成した。
空襲警報におびえ、壕を出たり入ったり、日々の糧にも、酒、煙草にも不自由し、小さなこたつで、凍える指先をあたためながらの労作であった。
(戦局の緊迫した時期、太宰は最も緊張し仕事をした。資料集めのため仙台に行き多くの人に会って話を聞いた。土地の人から太宰は悪酔いしたと言われたのも、妻からすれば初めての人と酒を飲むので緊張したらしいと推察する)
3月末に、妻と二児が妻の実家に疎開したとき、太宰は妻名義の郵便貯金通帳を作り、妻がかつて持ったことのない預金を入れて持たせた。
これが「惜別」の印税であったと妻が記憶しているので、原稿とほとんど引き換えで支払われたのであろう。
 ☆ 「惜別」誕生のきっかけは、日本文学報国会が昭和18年、大東亜共同宣言の
文学作品化を企画し、内閣情報局とともに執筆希望者を募ったこと。
資料集めや切符人手、印税、用紙割り点てなどの便宜が図られる好条件で、執筆希望者は約50人に上った。
太宰や高見順ら5人が選ばれたが、作品を完成させたのは 太宰と森本薫2人だけ。
上記の妻美知子の記述のように、原稿は昭和20年2月に提出、9月刊行。
取材のため訪れた河北新報社で取ったメモは、200字詰め原稿用紙14枚と厚手の紙などにぎっしり書かれている。
うち3枚は「惜別」の構成案を書き込んだ創作メモであった。
太宰治は「惜別」を書くため魯迅の資料を集めようと
仙台の河北新報社、東北大学などを訪れ、関係者から取材したのであった。
太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように
「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。
そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に
価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」
のであろう。
しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容ではない
ことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」「失敗作」などという評価を
くだした。そのためこの作品は長い間葬られていた。
近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から真価が語られるようになった。
早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、日本の友人ら
との交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、太宰なりの魯迅解釈である。
友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」
と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。
”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、魯迅に自分を重
ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。
当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を
作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。
学術的研究の伝記ものではなく、魯迅という題材をもとに文学の意味と
自分の生き甲斐を訴えたかったのが、太宰治のいいたいことであったのだろう。
(河北新報 1998年10月4日)


[No.15479] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 12:59
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> > 妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

(この原稿を書いているうちにパソコンの調子が悪く全部消えてしまって、再度書いたりしたので、こまめにアップするようにします)

「女生徒」は、若い女性の一愛読者から送られたノートに拠っている。
これはS子さんの昭和13年、19歳の、4月30日から8月8日までの日記で、伊東屋の大判ノートブックに、ぎっしり書いてある。
肉筆の書き流しで、大変読み辛い。これを一読ざっと「可憐で、魅力的で、高貴でもある」(川端康成評)魂を、つかみとった太宰は、傍らにあった岩波文庫の「女生徒」から題名をとって八十枚まの小説に仕立てて「文学界」昭和14年4月号に発表した。
太宰が印をつけて書き入れたりしているそのノートが残っているが、「女生徒」の書き出しと終わりの部分は全くノートにはない。
そのころ太宰の家に遊びに来ていた塩月氏が、この女生徒の人と結婚したいから世話役をしてくれと太宰に頼んできた。
太宰もまだ本人に会ったことがないから、昭和14年の年末にS子さんの家を訪問し、翌年早々に太宰はS子さんの母親に手紙を書いた。
その中で、太宰と同じ年の友人塩月氏は東大美学科を出て東洋経済社の編集部に勤めていること、まじめな人物で、初婚であることなど述べて、塩月氏がS子さんと見合いしたいという希望を伝えている。
さて、見合いは無事終わったのだが、塩月氏は、S子さんの体格がよすぎることを理由に、断りたいと言って、大変落胆していたという。
 ☆ S子さんの方が塩月氏よりも数センチ背が高かったらしい。
今ならそういうカップルもいるが、当時はなかなか抵抗があったのだろうか。
小説「女生徒」の印象では、誰でも小柄な女生徒をイメージしそうである。

たけさんに美知子が初めて会ったのは終戦翌年の4月末であった。
 昭和20年7月  疎開していた甲府の妻の実家が空襲で全焼し、妻子を連れ津軽の生家へたどりつく。
 昭和21年11月  妻子とともに三鷹の自宅に帰る。
兄文治は国会議員の選挙に当選したので、まだ春寒い4月に
たけさんは当選祝いの挨拶や、祖母の見舞いや、また疎開中の修治も会いたくて、小泊から金木の実家に出てきて、津島家を訪れたのであろう。
当時は太宰一家は離れに暮らしていたが、知らせがあって離れの奥座敷から出て行くと、母屋に一番近い座敷の外側の廊下で、たけさんが七つか八つくらいの女の子を連れてくるのと出会った。
案外若いと思った、と美知子は書いている。あの津軽を読んだ私もなんとなくお婆さんと思っていたが、目の前にいるたけさんは、店番でもなんでもできそうな中年すぎのおばさんであった。それもそのはず、太宰より11歳くらい年上のたけさんは、そのときまだ50前だったのだ。
たけさんと美知子が廊下で立ったまま挨拶していると、傍らの障子をあけて、書斎にいた太宰が出てきた。
そして妻にほんの二こと三こと言葉をかけると、怱々(そうそう)に母屋のほうに立ち去った。
たけさんに「よくきたな」とも言わず、笑顔も見せず。意外に思う美知子。
たけさんは太宰のうしろ姿を眼で追いながら「修治さんは心の狭いのが欠点だ」と、これまた突拍子もないことを言った。
妻も驚く、金木での太宰とたけさんとの再会。
ここにも書いてあるように、美知子は現実と小説をごっちゃにしていた。
「たけさん現わる」と聞き、「津軽」の終わりの方の、劇的場面が再現されるような期待を抱いていたのではないか。あの小説では久々の対面であり太宰の脚本も加わっていたのだ。そのことを妻は忘れていた。
たけさんの語らんとする太宰の人物評は、妻も感心するくらい的を射ている。
(もちろん、たけさんは常識人として、太宰をの欠点を批評するのである)
そして太宰はすばやくその「人物評」が女房の前で、とりだされるのを予感して逃げたのだ。
事前に一瞬の差で逃げ去った太宰も太宰だが、たけさんもよく彼の「人」を見抜いている。
太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人で、できればいつも蒲の穂綿のような、ほかほかの言葉に包まれていたいのである。
たけさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、きびしい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。
一方で、たけさんの素直な、粗野な飾り気のない性格から、いつ耳に痛い言葉が飛び出すかわからないことを太宰は知っている。
「思い出」と「津軽」に、たけさんが太宰に言った言葉として、「油断大敵でせえ」「たけは、本を読むことは教えたが、酒だの煙草だのは教えねきやなう」と記されている。
育てた人は強い、と美知子は思う。こんなことが言えるのだから。
たけさんの人柄は、美知子は後日接して知ったが、裏と表を使い分けできる、演出のうまい型ではない。
太宰は「逃げるに如かず」と直感したのであるが、もしたけさんが「心が狭いのが云々」と言ったのを、太宰が聞いていたら、きっと「真向唐竹割りにやられた」という風に感じたであろう。
うまく逃げて聞かなかったのは、かえってよかったのかもしれない。
  ☆ 感じたままストレートに言うたけさん。それを聞くのは太宰は辛いこと。
小説「津軽」にあるような劇的な再会は、かなり太宰に劇味ショックを与えたのかもしれない。会いたくもあり、聞きたくない言葉も聞かねばならなかった太宰。
妻はあのクライマックスをもう一度と期待したかもしれないが、太宰にとっては二度とはごめんという気持ちだったろうか。


[No.15497] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/16(Fri) 12:35
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妻の実家の甲府で焼け出されたので
太宰は妻子を連れて津軽の金木に向かった。
奥羽線で新庄をすぎるとのんびりした旅になった。

川部でもう一度乗り換えれば五所川原につけるというときに
太宰は能代から五能線に乗り深浦泊まりにしようと言い出した。
疲れて早く実家にたどりつきたい妻美知子であったが
太宰が深浦に泊まりたい目的も知っていたのでやむをえずついていった。

今の五能線ではなく、しかも戦時中のために列車の連絡が悪く
深浦に着いたのは夜だった。暗い夜道を相当歩いてやっと目的の宿についたが
出入口はかたく閉ざされていた。
太宰は懸命に戸を叩き、地元の言葉で金木の実家のことと
昨年五月に泊めてもらったことを言って、やっと中に入れてもらった。
その家の主人は長患いの床についていたのだった。十七、八の娘が給仕をしてくれた。
こんな状態では酒などお願いできるわけもなく
美知子は、あてにしていた太宰を気の毒に思う。

翌日は晴天で、一家は磯に出て磯遊びを楽しむことができた。
四歳の長女はまだ海を見たことがなかった。
一家にとってはじめての行楽の旅を楽しんだ。
あとで太宰は、金木で「海」というコントを書いた。
海を指して教えても川と海の区別ができないで、居眠りしながら子の言葉にうなずく母
 
ーー 海というと私に浮かぶのは、あの朝の楽しかった家庭団欒のひとときの光景である。
「浦島さんの海だよ、ほら小さな魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自身ではないのか。なぜ家庭団欒を書いてはいけないのか −−
 私は「海」を読んでやりきれない気持ちであった。 

体験したままを書かなかった太宰、作風もきまってきたから、そういう家庭団欒の光景は書けなかったのだろう。
それが妻には不満だった。せっかく楽しいひとときをすごしたのに。


[No.15870] Re: 回想の太宰治 投稿者:   投稿日:2010/10/05(Tue) 10:25
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太宰は原稿が売れてくると、しだいに税務署から目をつけられるようになる。
昭和23年2月に、前年の所得は21万円と決定したという通知と
それにかかる所得税額11万7千円、納付期限3月25日という通知書が舞い込む。

妻は生活費が必要なときだけ夫に言って、夫からもらっているから
全体の収入がいくらあるかは知らない。
太宰自身も自分の収入を把握していないようだ。

彼は税金のことを放置したまま長編を書くため熱海に行ってしまった。
納付期限がすぎてしまったが、まだ何も返事していない。
とにかく武蔵野税務署に行ってみたほうがいいと妻は勧めた。
太宰は税務署からの通知書を前にして泣いた。
そのころの太宰は心身ともによほど弱っていたのだろう。
正月にも、I先生のお宅に年始に伺って、それもしぶっているのを毎年のことだからと
押し出すようにしたのだが、帰ってから茶の間で泣いた。
みんなが寄ってたかって自分をいじめる、といって泣いた。
その泣き方は彼自身が形容している通り、メソメソという泣き方で
坊ちゃんが外で腕白共にいじめられて泣いて訴えているのと同じで、正月にはなんとかなだめて力づけて元気を回復したように見えた。
だが税金のことなると、ふだんいくら入って、どのように消費されているのか
妻は知らないのだから、妻も途方にくれるばかりだった。

結局、美知子は太宰に代わって武蔵野税務署に行き
それでもたりずに、子供を背負って美知子は千代田区の国税局にも行くことになる。
6月2日に、国税局の係が太宰宅にやってきて
太宰の行きつけの店「千草」に案内した。
どんな話し合いがあったかは美知子は知らない。
そして14日に太宰は死んでしまったから、国税局も驚いたかもしれない。

妻としては
この税金のことが死の原因のひとつになっていたとは思わない。
税金のことは美知子に一任したと考えていたと思うから。

文壇関係者が集まれば太宰の死が話題になっていた頃
太宰についての直接の話の種を提供できる人は、みな得意でそれをしゃべり一座の中心となっていたらしい。

真相は誰にもわからない。おそらく本人に聞いてもわからないだろう。
 ノーベル賞作家だって自殺した。


[No.15871] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/05(Tue) 10:59
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津島美知子「回想の太宰治」
大学図書館にある本だが、何度も読む。 読むたびに新しい発見がある。

太宰がI先生に、朝、仕事にとりかかるのが億劫で困ると訴えたら
先生は自分は筆ならしに手紙を書くことにしているよ、とおっしゃった。
感心して聞いたので未だに忘れられない。

これは一種の頭の活動のアイドリングなのだが、こういう生きる知恵は大切だ。
いきなり本格的な仕事にとりかかる前に、調子を出すために
気楽にできることから始めるとよい。
自分の好きな仕事から始めていると、だんだん調子が出てくるものである。

太宰ははがきをよく使っていたのだが、絵はがきもよく使った。
三鷹に引越したときには、一閑張の文箱いっぱいあった絵はがき、それは妻美知子が
旅先や美術館などで求めたものがたまっていたのだが、かなりの枚数があったのに、彼の死んだ頃にはほとんど空っぽになっていた。
文箱の中の絵はがきを太宰から受けとった方から、歿後、書簡集を編纂することになったとき何年ぶりかで見せていただいたときは、二重になつかしかったと
妻美知子は書いている。

次の文章は心に残る文章である。
私の手もとにある太宰の絵はがきの中に、三島から青森の小館家に嫁したすぐ上の姉に出したのがあるが
太宰とこの姉とは親しかったのでこの絵はがきを手にすると、姉弟の情愛が伝わってくるような気がする。
「藍壷の富士」の風景の絵はがきで消印は昭和九年八月十四日、三島 修治とだけ署名してある。
その文面、そのペン字の書体、三島の風景、それらが渾然と交じりあって、一つのいい雰囲気をつくっていた、これはとうてい印刷されたものから味わうことはできない。
 この絵はがきもそうだが、太宰は書簡に日付を記さぬ方が多かった。