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[No.15478] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 11:40
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> 妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

昭和14年1月に太宰は御崎町の借家に移った。
新婚夫婦が引越す前に、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの
太宰にとって不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと
妻美知子の実家の人たちにひやかされたが、その点は便利だった。
酒の肴はもっぱら湯豆腐で「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と隣近所のうわさとなったという。
太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯が悪いのと、何丁買っても高が知れているから豆腐を買うのであった。
 この家で太宰は待ちかまえていたように、美知子に口述筆記をさせる。
「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合う」から始まったが、
彼女は前半を全く読んでいなかったから唐突な感じがした。
また今こそ珍しくないが、当時赤いコートなどはほとんど見かけなかったから
揃いの赤い外套を着た娘さんから写真のシャッターを切ることを頼まれるところで
赤い外套をほかの色に変えるように言おうかと思いつつ遠慮はて言わなくてよかった。
赤いコートでこそ効果的なので、何十年も昔に、太宰はファッションの先どりをしていたことになる。
「女生徒」では、下着の胸に赤いバラの花を刺繍したとあるのを、下着には白い刺繍の方がよいと思うと口出ししたのだが、これはよかったかどうか。

 ☆ 妻美知子は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業で高等女学校教師だったから、口述筆記をさせたことは適切だったであろう。
今この本を読むと、富嶽百景のころには写真はモノクロであってカラー写真は珍しかったのではなかろうかと思う。
下着には白い刺繍がふさわしいだろう。

昭和20年2月末に、「惜別」237枚は完成した。
空襲警報におびえ、壕を出たり入ったり、日々の糧にも、酒、煙草にも不自由し、小さなこたつで、凍える指先をあたためながらの労作であった。
(戦局の緊迫した時期、太宰は最も緊張し仕事をした。資料集めのため仙台に行き多くの人に会って話を聞いた。土地の人から太宰は悪酔いしたと言われたのも、妻からすれば初めての人と酒を飲むので緊張したらしいと推察する)
3月末に、妻と二児が妻の実家に疎開したとき、太宰は妻名義の郵便貯金通帳を作り、妻がかつて持ったことのない預金を入れて持たせた。
これが「惜別」の印税であったと妻が記憶しているので、原稿とほとんど引き換えで支払われたのであろう。
 ☆ 「惜別」誕生のきっかけは、日本文学報国会が昭和18年、大東亜共同宣言の
文学作品化を企画し、内閣情報局とともに執筆希望者を募ったこと。
資料集めや切符人手、印税、用紙割り点てなどの便宜が図られる好条件で、執筆希望者は約50人に上った。
太宰や高見順ら5人が選ばれたが、作品を完成させたのは 太宰と森本薫2人だけ。
上記の妻美知子の記述のように、原稿は昭和20年2月に提出、9月刊行。
取材のため訪れた河北新報社で取ったメモは、200字詰め原稿用紙14枚と厚手の紙などにぎっしり書かれている。
うち3枚は「惜別」の構成案を書き込んだ創作メモであった。
太宰治は「惜別」を書くため魯迅の資料を集めようと
仙台の河北新報社、東北大学などを訪れ、関係者から取材したのであった。
太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように
「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。
そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に
価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」
のであろう。
しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容ではない
ことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」「失敗作」などという評価を
くだした。そのためこの作品は長い間葬られていた。
近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から真価が語られるようになった。
早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、日本の友人ら
との交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、太宰なりの魯迅解釈である。
友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」
と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。
”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、魯迅に自分を重
ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。
当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を
作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。
学術的研究の伝記ものではなく、魯迅という題材をもとに文学の意味と
自分の生き甲斐を訴えたかったのが、太宰治のいいたいことであったのだろう。
(河北新報 1998年10月4日)


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