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[No.96] 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/09(Sun) 15:55
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 みなさんは、若い日にこんな本を読まれたことはないだろうか。非常に薄い本で注などを除けば、たかだか110ページ位にしかならない。

 原本(文庫版)では更に少なく、80ページほどだ。いろいろ勿体をつけたが、書名を明かすとこれはメーリケの「旅の日のモーツアルト」である。本の腰巻にもあるように、なにしろ著者が、テーマになっているモーツアルトの熱烈なファンと来ているのだから、読む方も信用できるし、なによりも安心して読める。

 ドイツ詩人のエードワルト・メーリケは1804年生まれだから、この不世出の音楽家が亡くなった1791年から、まだ10数年しかたっていない頃にかれメーリケは、シュヴァーベンの地で呱々の声を上げたことになる。

 作品の舞台はモーツァルトが、前作「フィガロの結婚」が音楽家の言葉を引用すれば「話すことと言えば、フィガロばかり、オペラを観に行くといえばフィガロばっかり」という古今未曾有の大当たりを取ったので、さっそく注文の来た新作「ドン・ジョヴァンニ」を引っさげてプラーグへ、コンスタンツェ夫人とともに勇躍馬車を駆って向かうところだから、神童が31歳、ちょうど脂の乗り切ったころのことだ。

 ウィーンでは、この作もどうも評判が芳しくなかったらしいが、ボヘミアの大都市、プラーグでの人気は大変なものだったらしい。あっしが愚考するに、これはたしかにモーツァルトの天才に負うところが絶大だったためだが、歌劇である以上台本が必須。これを手がけたこれまた天才のダ・ポンテの力もバカにはできない。ジョヴァンニの序曲をわずかひと晩で仕上げた音楽家にももちろんエライが、ダ・ポンテの方もなにしろ、この天才の台本だけでなく、あたかもわが国の流行作家のように一遍に依頼者三人分の台本を、同時進行で書き進めたというから凄まじい。

 同書の中の逸話でとくに面白いのは、この天才音楽家が、ある伯爵の屋敷の庭園に入りこみ、オレンジを一個もぎ取ったところ、折悪しく園丁に見つかり取っちめられるところだ。夫人は当時、料理屋にいてマッタクこの大事件を知らず、あとで晩餐の折、はじめて張本人の『自白』で知ることになる。メーリケはまるでその場にいたかのように巧みな情景描写をしている。また、貴族の屋敷での演奏風景なども、かれの巧みな筆によって、後世のあっしらもつぶさに窺い知ることが出来る。

 そのあと、十代の作曲家が、イタリアのナポリに旅行したときに体験した、オレンジ投げの遊びも、まるで見てきたように活写しているが、メーリケはただの一度だってイタリアへは行ったことはないそうな。(^_-)-☆

* 宮下健三氏が訳書の底本に使ったのは別のものだが、同書の序文で氏がレクラム版も参照した書いているので、ドイツ語の分かる恵まれたひと達は、あの小型の文庫で読まれたらどうだろうか。なお、原題はMozart auf der Reise nach Pragつまり、プラーグへの旅になっているらしい。





 


[No.99] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/09(Sun) 21:18
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(補足)

あのころはドイツ、オーストリアの人はみな一様に南国に憧れていたようで。少年時代にイタリア語を習得したモーツアルトだけでなく、ゲーテにも詩「君よ知るや南の国(「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」に収録)があり、作中空は飽くまでも蒼く、至るところにオレンジの花が咲き乱れている、素晴らしい国イタリアを讃えているところが出てくるようですね。

 なにしろ、ゲーテはお役所を、ずる休みして迄して行ったイタリア旅行中、この外国語のことで困ったことは一回もなかったらしいです。まあ、考えてみれば当時は音楽ではイタリアが世界を牛耳ってわけですから、イタリア語なんぞは、今の英語みたいに、いわゆる『必須教養科目』だったのかも知れませんね。


[No.100] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/10(Mon) 12:31
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(補足)

 どんなものを読んでもかならず、何かが残る。読書の功徳とでもいうか。読み飛ばしでは無理かもしれない。ある程度の『精読』は必要かも。

 と云ったからといって、そう乗り出されても困るが、「旅の日のモーツァルト」の中ほどに、「あの壮麗なパルテノーべの都の栄華も」という箇所がある。読み飛ばしてしまえばそれまでだが、注を見るとナポリの古称とある。レクラムを見ても、たしかに脚注があり、2行半ほどの説明があった。

 注には1799年ナポリ王国はこのパルテノーべ共和国となったとあるが、この表現を使ったモーツァルトが、旅をしていたのは1787年だからまだパルテノーべになっていないのでは?しかも音楽家自身が、父親とともにイタリアを訪れたのはさらに15年以上も前の話だ。(^_-)-☆まあ、重箱の隅を突っつくような行為はあまり感心したものではないが。(-_-;)

 しかしメーリケがマエストロの生きた姿を読者に伝えたいという姿勢は随所に見られて、ほほえましい。たとえば、伯爵家では娘がモザの話にまるで、『フィガロの結婚』の優雅さそのもののようじゃないですこと、などと言わせてみたり、マエストロにも、東屋でオレンジの実に対面したとき、それが少年時代の想い出につながり、さらにマゼットやツェルリーニのアリアを思い出させたり。いや、思い出すだけではなく、さらにエスカレートして、伯爵の家族の前で、「ドン・ジョヴァンニ」第1幕第7場のツェルリーナのアリア、「若い娘さんたち」を口ずさんで見せたりするのだ。

 音楽家はいわばサービス精神の塊のような人だったので、その人物像を浮き上がらせようと、著者もまけずに頑張ったのではないであろうか。(^_-)-☆


[No.101] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/12(Wed) 00:20
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 れいの「旅の日のモーツアルト」のなかに、マエストロが伯爵一家の人たちと一緒に掛け合いの歌を歌う場面がある。その中で、ライバルのサリエリは「われらがボンボニエールの君」と呼ばれている。わしの作る傑作をみて、卒倒するまでヤツを死なせてなるものか、と気勢を上げるわけだ。かのイタリアのいかさま師、われらがボンボニエールの君よ、と歌うのはいいが相手はイタリア人だ。ほんとうはボンボニエーラでなくては可笑しい。メーリケの原文でも、ムッシュー・ボンボニエールになっていた。

なことはまあ、どうでもいいが、アントニオ・サリエリと云うのは立派な音楽家であったばかりか優秀な教育者でもあって、一門からベートーベン、リスト、シューベルト、ツェルニー、マイアーベアなど錚々たる音楽家を輩出し、モーツァルトの子、フランツまで教えを受けたというではないか。

 ライバルの暗殺など必要ないほど、世に認められていたのではないか。あれは、世の俗説をロシアの大詩人プーシュキンが真に受けて世間に広めたのが悪い。プーシュキンこそ諸悪の根源であ〜〜〜る。(^_-)-☆

秩父宮勢津子さまのご著書に「銀のボンボニエール」というのがあるそうだ。あっしは読んだことがないが…。宮中ではお祝いの節、皇后からボンボニエールを贈る習慣があるらしい。その形はさまざまで、たとえば鼓の形をしていることもあるらしい。

あるサイトをみていたら、イタリアなどでは皇室でなくとも、『臣下』でも結婚式などの引き出物によく使うようだ。


[No.104] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/12(Wed) 20:49
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 やっぱり本だけじゃ迫力がいまいちで詰まんないと、こないだ、わざわざ遠い方の図書館まで出かけてドン・ジョヴァンニのDVDを借りてきました。ついに病膏肓である。(-_-;)

 きょうで観たのは二回目になるけど、何度見てもいい紋だ。(^_-)-☆こうしてみると、実際には、歌手、楽団、作曲家、台本作者☆だけじゃダメなんかなあ、などと素人なりに考えました。演出の巧拙、舞台装置だって、下手くそではやっぱり興を殺がれるだろうし…。

 あっしはこのオペラは全く初めてなので、悪党ジョヴァンニが石の騎士長を自邸に招待する場面でやる音楽に、フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶ちょ」が出てきて、一瞬耳を疑ったけれど、ネットサーフィンをしてみたら、ほんとうにドン・ジョヴァンニが宴席で「音楽だ!」と喚いたとたんにやる曲は、当時流行ったコーザ・ラーラや漁夫の歌のほか、モーツアルト自身が作曲した「フィガロ」もあると知って、ほんとうに驚きやした。(@_@;)

 しかし、こうして本を読み、さらにDVDをみれば、より理解が深まる感じですね。(^_-)-☆

☆ 堀口修氏に依れば『天才』ダ・ポンテはあの作を作る際、1787年2月ヴェネツィア初演のジョヴァンニ・ベルターティ(台本)を参考にしたと云うから、岡本真夜さんの「そのままの君でいて」ほどではないにしても、かなりの部分『頂いちゃった』のではないだろうか。同じ年の4月には台本はもう楽聖の手元にあったというから、たったふた月程で仕上げたことになる。これはちょっと早すぎはしないか。大体モーツァルトのほかにも、マルティーニ、サリエリと二人分の注文を抱えており、三者同時進行で作っていたと聞くと、余計信じられない。(@_@;)


[No.108] Re: 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/16(Sun) 14:10
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 モーツアルト家はよく馬車で旅行した。かれの生まれたオーストリアの、首都ウィーンは、長い歴史をもつカフェハウスで有名だ。あっしも行ったがウィーンのカフェハウスは天井が非常に高く、広々してじつに心地よい。

 そこで出されるコーヒーは数十種あるといわれているが、その中には馬車の名のついたが二つある。ひとつはアインシュペーナーで、これは一頭立て馬車、もうひとつはフィアカー、これは観光用の二頭立て馬車のことだそうな。

 この一事で、当時コーヒーが馬車の御者や、旅行者や市民にいかに親しまれていたかがわかる。

 ただ乗り心地はあまり良くなかったらしく、マエストロの父、レーオポルトは大変気を遣ったらしいことが、鹿島茂の「パリ時間旅行」にでている。

 ベートーベンの場合は楽譜の印税で食っていかれたのであまり馬車で遠出する必要もなかったらしいが、むかしは道路も悪ければ、馬車のスプリングも幼稚なものだったので、乗っている子どもなどは特にたいへんだったようだ。鹿島茂もまだいたいけない子どもだったモーツァルトが、よく強行軍に耐えたものだと、おおいに気の毒がっている。イタリア旅行のときなど、馬があばれて、父親が右足に裂傷を負うようなことさえあった。こうした事故のほか、天災や強盗事件も多く、旅は危険の代名詞のような状態だったらしい。モーツアルト親子が、外国で厚遇されたのも、頑是無い天才音楽家がとおい外国から数多くの危険を冒して、わざわざやって来てくれたことにも、大いに関係があったものと思われる。