画像サイズ: 618×370 (58kB)明治村には何度か行ったのです。いまから十数年前の夏鹿児島で学会があり、台風が近づいてきたので学会は最終日の行事をとりやめ参加者は飛行機の飛ぶうち、できるだけ早くお帰りくださいという配慮でした。そこで鹿児島の帰りに名古屋で一泊して明治村を見学したのでした。明治村はなかなか見所も多く、明治の建築や鉄道や電車など当時の文化や日本の技術レベルをふりかえる勉強にもなります。まず入口です。 正門(第八高等学校正門)
画像サイズ: 512×384 (51kB)> 明治村はなかなか見所も多く、明治の建築や鉄道や電車など> 当時の文化や日本の技術レベルをふりかえる勉強にもなります。> 正門(第八高等学校正門) その脇の入口から入ります。ちょうど明治萬国博覧会という企画展を開催していました。
画像サイズ: 566×386 (54kB)神戸市にあった大井牛肉店です。明治20(1887)年ころ牛肉販売と牛鍋の店として建てたものです。ここで、牛鍋を食べることができます。 文明開化の味
画像サイズ: 636×396 (79kB)これは三重県庁舎です。県令岩村定高により計画され、明治12(1879)年に完成。設計者は大工清水義八です。
画像サイズ: 512×384 (26kB)> これは三重県庁舎です。立派な建物でした。
画像サイズ: 480×447 (54kB)京都市にあった 聖ヨハネ教会堂です。京都市下京区河原町通五條明治40(1907)年に建設されました。プロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会解説を読むとヨーロッパのロマネスク様式を基調に細部にゴシックのデザインを交えた外観など説明があります。ロマネスクなら厚い壁で,がっしりしているが中は(普通は)暗い。ゴシック教会は窓が多くて明るい。ロマネスクとゴシックの違い 最初はよくわからなかったが、ロマネスクは半円アーチで、ゴシックは先頭アーチだから、明確に違いがあるのです。 (半円アーチよりも尖頭アーチの方が力の作用線にアーチの形態が近いから合理的である)そういう知識で見るとこの教会は、そもそも石で造っていない、木造なので自由に形状を選べる。鉄でつくったアーチ部など、明治の大工が苦労したのだろうと思うのです。
画像サイズ: 320×240 (18kB)> ロマネスクとゴシックの違い 最初はよくわからなかったが、> ロマネスクは半円アーチで、ゴシックは先頭アーチだから、明確に違いがあるのです。> (半円アーチよりも尖頭アーチの方が力の作用線にアーチの形態が近いから合理的である)> そういう知識で見ると> この教会は、そもそも石で造っていない、木造なので自由に形状を選べる。> 鉄でつくったアーチ部など、明治の大工が苦労したのだろうと思うのです。明治の建築は西洋建築を見よう見まねで日本につくっていった大工たちの苦労がしのばれます。
画像サイズ: 574×259 (61kB) 森鴎外・夏目漱石住宅 です。なんと、この家に時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。この建物は、明治20(1887)年頃医学士中島襄吉の新居として建てられたものですが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借りて、一年余りを過ごしました。そして、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいたのでした。
画像サイズ: 582×372 (26kB)> 森鴎外・夏目漱石住宅 です。 > なんと、この家に> 時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。森鴎外 明治21(1888)年 26歳 7月ベルリンを出発してロンドン、パリを経由して9月帰国。 明治22(1889)年 27歳 3月海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。 夏に根岸から下谷区上野花園町11番地に住む。 (この家は、池之端3丁目の水月ホテル鴎外荘に保存されています) 明治23(1890)年 28歳 9月長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。 10月本郷駒込千駄木町57番地に転居。 この家は後に夏目漱石も住んだ家で、現在明治村にあるわけです。夏目漱石は1902年(明治35年)9月にロンドンを訪れた友人たちの間に「夏目発狂」の噂が流れ、文部省もほおっておけず、漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになります。(偶然ですが)帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したそうです。 (斎藤紀一の娘婿が斎藤茂吉で、孫にあたるのが斎藤茂太や北杜夫ですね) 漱石は英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地に転入します(現在は日本医科大学同窓会館、敷地内に記念碑があります)。東京帝大では小泉八雲の後任として学生を教えることになったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評でした。また、当時の一高での生徒の中に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺したのです。 漱石は自分の厳しい言葉が藤村を自殺に追いやったのかと悩みます。こうして日本に帰って来ても漱石を苦しめることが続き、神経衰弱に悩むのです。そして、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆します。明治村にある漱石の家にある日迷い込んできた猫その猫をモデルに書いた「吾輩は猫である」まことに、漱石の妻のいうとおり、幸運をもたらす猫だったのです。ドイツで元気に留学生活を送った森鴎外に対しロンドンで精神病におちいったと言われる夏目漱石この二人の対比される留学に対して片方(鴎外)は若い時の留学であるのに対し、もう片方(漱石)は37歳でロンドンに渡ったという違い (鴎外の若い柔軟なときの楽しいドイツ留学に対し、ある程度人生観もできていた漱石はなかなかロンドンの生活にとけこみにくかっのではないか)あるいは片方は医学という実学なので成果は目に見えるが、もう片方は文学というなかなか成果の見えない世界(虚学)だったからなどと分析する議論があります。ロンドンで苦しんだ漱石は、英文学では得られなかった日本文学のあり方を日本に帰ってから必死に求め、苦しみながら、日本の文学界をリードする成果を上げるのです。イギリス留学は漱石に何の成果も上げなかっただから、日本に帰ってから漱石は苦しみながら独自の文学の世界を創造したイギリス留学は作家漱石にとって、日本の文学にとって必要なものであったそう分析する人もいます。
画像サイズ: 976×556 (91kB)> > 森鴎外・夏目漱石住宅 です。> > なんと、この家に> > 時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。森鴎外 > 明治23(1890)年 28歳> 9月長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。> 10月本郷駒込千駄木町57番地に転居。> この家は後に夏目漱石も住んだ家で、現在明治村にあるわけです。夏目漱石> 英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地に転入します(現在は日本医科大学同窓会館、敷地内に記念碑があります)。そこで日本医科大学同窓会館、敷地内に記念碑を紹介します。なんと猫の置物まであった。
画像サイズ: 446×350 (41kB)札幌電話交換局です。 明治31(1898)年暮れに竣工 翌年から交換業務開始村内を走るバスも写っていました。
今日は!> 札幌電話交換局です。> > 明治31(1898)年暮れに竣工 翌年から交換業務開始> > 村内を走るバスも写っていました。〒484-0000 愛知県犬山市内山1 博物館明治村内 タイトルに釣られて・・・え? 見たことないな、と思ったら、明治村に建てられているのですね? なるほど、納得です。まや
画像サイズ: 467×350 (42kB)> 鹿児島の帰りに名古屋で一泊して> 明治村を見学したのでした。千早赤阪小学校講堂(大阪府) です。一階が雨天体操場、二階が講堂になっていました。この建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが昭和4(1929)年に同校の校舎が新築されたので南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものです。ちょうど昭和万国博覧会の展示をしていました。
画像サイズ: 566×249 (22kB)> 千早赤阪小学校講堂(大阪府) です。 > ちょうど> 昭和万国博覧会の展示をしていました。これは月琴です。月琴は江戸時代のおわりに 中国から日本にもたらされた楽器です。明治時代に盛んに演奏されました。 第一回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞した月琴もあります。月琴は溝正史の(金田一探偵の活躍する)推理小説に出てきたのでなるほど、こういう楽器だったのかと思って見ました。
画像サイズ: 750×541 (87kB)> 明治村はなかなか見所も多く、明治の建築や鉄道や電車など> 当時の文化や日本の技術レベルをふりかえる勉強にもなります。京都市電です。1881年ドイツにおいて初めて電車の営業が開始されたがわが国では市内電車として明治28(1895)年に開業した京都市電が最初です。京都では、琵琶湖からひかれた疎水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり明治24年に電力供給が開始された。さらに明治28年の第4回国内勧業博覧会の開催地が京都に決定したことも重なり京都電気鉄道が設立されたのです。
画像サイズ: 734×551 (66kB)> 京都市電です。この電車は明治村の中を走っています。乗ることができます。
画像サイズ: 639×335 (63kB)第四高等学校物理化学教室です。この物理化学教室は明治23(1890)年、金沢に創建された。明治村は四高時代同級生であった東京工業大学教授(建築家)谷口吉郎と名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫の発想と決意によって誕生した。 (明治村のガイドブックを参考にしました)
画像サイズ: 623×388 (88kB)東山梨郡役所です。 明治18(1885)年 新庁舎として落成した。当時の山梨県令藤村紫朗は地元に多くの洋風建築を建てた。人びとは「藤村式」と呼んだが、この東山梨郡役所もその一つである。 正面側にベランダを廻らせ,中央棟と左右翼屋で構成する形式は三重県庁舎と同様で、当時の官庁建築の特徴である。
画像サイズ: 519×343 (51kB)清水医院(木曽郡大桑村) 木曽路の中程、妻籠と木曽福島の中間、須原の地に清水医院が建てられた。その様式から、だいたい明治30年代(1897〜1906)と推定される。 この清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした小説「ある女の生涯」に、須原の蜂谷医院として出てくる。
画像サイズ: 541×353 (45kB) 安田銀行会津支店安田銀行は明治12(1879)年に認可を受け、翌13年に開業した。最初は栃木、宇都宮の二店であったが、その後東北地方に展開し明治23年には会津若松に若松支店が設けられた。 当初は既存の土蔵造りの建物で営業していたが明治40(1907)年にこの建物が新店舗として落成した。
画像サイズ: 507×351 (44kB)北里研究所本館・医学館 日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4(1915)年 柴白金三光町に建てた研究所の本館 東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し破傷風の培養、破傷風の血清療法により学界に認められた。
画像サイズ: 804×700 (96kB)> 北里研究所本館・医学館ちょうど北里柴三郎の記念展が開催されていました。> 東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し> 破傷風の培養、破傷風の血清療法により学界に認められた。1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。しかしノーベル生理学・医学賞は、共同研究者のベーリングのみが受賞して北里柴三郎は はずされていた。野口英世にしても、ノーベル賞の候補になったことは今日では有名な事実であるが日本人の優秀さを、欧米人がまだ認めていなかったふしがあるように思われる。
画像サイズ: 582×364 (70kB)幸田露伴住宅「蝸牛庵」 露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えている。隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、明治30(1897)年から約10年間を過ごしている。
画像サイズ: 378×407 (30kB)品川燈台 江戸幕府と明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼した。東京湾沿岸の観音崎、野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がウェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設された。
画像サイズ: 450×458 (47kB)菅島(すがしま)燈台付属官舎 菅島燈台は明治6(1873)年 伊勢湾の入り口、鳥羽沖合の菅島に建てられた。 品川燈台がフランス人の手になるのに対して、これはブラントンを頭とする工部省燈台局のイギリス人技術者の設計管理になるものだった。
画像サイズ: 635×426 (53kB)長崎居留地二十五番館ここの常設展示が印象的それは 明治の厠(トイレ)
画像サイズ: 448×336 (29kB) > それは> 明治の厠(トイレ)古い料亭にはこのような便器を見かけます。使用しないようにという注意書き
画像サイズ: 507×258 (10kB)> > それは> > 明治の厠(トイレ)きれいな容器チェンイバーポット西洋にも100年前には日常使われた「おまる」です。しかし、まだ売られているみたい。https://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC+%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88&index=aps&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_6mqzs7xx3h_b&adgrpid=52839503883&hvpone=&hvptwo=&hvadid=259139989185&hvpos=1t1&hvnetw=s&hvrand=2661647962012467712&hvqmt=b&hvdev=c&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=1009120&hvtargid=kwd-381860609414
画像サイズ: 444×268 (34kB)神戸山手西洋人住居先の長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違ったものがある。平屋建でゆったりとした長崎居留地二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を遺すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっている。これは,当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており,建物にも洗練されたものが求められたためと考えられる。ベランダから室内へ数多くの出入り口を設けているのは、余り広くない室内をベランダと一帯で使うための配慮であろう。 (敷地が狭いから、ベランダに廊下の機能をもたせた?)
画像サイズ: 632×350 (82kB)四高武術道場柔道、剣道、弓道の三つの道場を兼ね備えた洋風建築作家井上靖も柔道で汗を流 した武道場「無声堂」
画像サイズ: 460×305 (25kB)> 四高武術道場 > 作家井上靖も柔道で汗を流 した武道場「無声堂」ああ 明治だ。あすなろ物語
画像サイズ: 439×349 (25kB)日赤中央病院病棟ドイツのハイデルベルク大学病院を模して二階建レンガ造で造られた本館を正面に据え,背後中央に大きな中庭を設け、その廻りに病棟を配する形は、陸軍軍医森鴎外も推奨したものである。
画像サイズ: 480×360 (36kB) 歩兵第六聯隊兵舎明治政府は軍事組織や訓練方法だけでなく、兵舎等の軍用建造物についてもフランスから学んでおり、明治6(1873)年の聯隊創設時に建てられた歩兵第六聯隊兵舎も、フランスの建築書を基に海外の例に学んで造られた。
画像サイズ: 502×354 (24kB)> 歩兵第六聯隊兵舎映画にも出てきそうな場面
画像サイズ: 590×236 (23kB)> 歩兵第六聯隊兵舎楽しい食事 昼食
画像サイズ: 536×237 (21kB)> > 歩兵第六聯隊兵舎こちらは夕食です。
画像サイズ: 589×372 (34kB)> > 歩兵第六聯隊兵舎献立です。
画像サイズ: 526×397 (48kB) シアトル日系福音教会当初はアメリカ人の住まいであったが、1930年代(昭和5〜14)に日系移民の所有となった。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家であったが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われた。戦後は日系一世のための福音教会として使われてきたが、一世の高齢化と減少という時の流れでその役目を終え、明治村に移築された。
画像サイズ: 617×320 (59kB) ハワイ移民集会所ハワイ島の町ヒロのイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であった。この建物にある地方色としては、床が高いことが挙げられる。未だ開発の進まない土地では、治水もあまり完全ではなかったであろう。川のほとりの建物では、出水のことや日頃の湿気の心配があったと考えられる。
画像サイズ: 506×352 (27kB)> ハワイ移民集会所中の国旗ですがこの建物の脇にもありました。私の写真( No.5860)では、少しわかりにくいですが。
画像サイズ: 566×328 (63kB) 六郷川鉄橋明治5年、日本に初めて鉄道が開業されたとき、新橋横浜間に造られた大小22の橋はすべて木橋であった。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)である。明治8(1875)年 英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され、輸入された。
画像サイズ: 563×338 (56kB)> 六郷川鉄橋 > 開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。 > 錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)である。鉄橋の上を歩いてはいけないと言われたことを思い出します。
画像サイズ: 417×401 (35kB)> > 六郷川鉄橋> > 錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)である。部材と部材の接合する継手部分は興味深い。
画像サイズ: 509×361 (47kB)鉄道寮新橋工場です。明治5(1872)年に開業した新橋ステンション(停車場)に設置された。鋳鉄柱や外壁の鉄板などすべての材料をイギリスから輸入しイギリス人技術者の指導の下に建設された。
画像サイズ: 637×340 (73kB)工部省品川硝子(がらす)製造所です。明治6(1873)年イギリス人技術者を雇い入れて、品川興業社硝子製造所が開設された。同9年工部省がこの製造所を買い上げ官営とし、その後この建物等が建てられた。
画像サイズ: 642×591 (67kB)> 工部省品川硝子(がらす)製造所です。この中には「汐留バー」があります。
画像サイズ: 780×585 (81kB)> > 工部省品川硝子(がらす)製造所です。> > この中には「汐留バー」があります。そこで デンキブランを注文しました。 (一緒にビールも注文)
画像サイズ: 512×384 (38kB)宇治山田郵便局 明治42(1909)年、伊勢外宮前の角地にこの建物が新築された。 木造平家建銅板萱で、中央には円錐ドームの屋根を頂き、両翼屋には寄棟の屋根をふせており、正面の左右には小ドームの載る角塔を立てている。
画像サイズ: 504×407 (49kB)本郷喜之床(きのとこ)東京は本郷で理髪店喜之床の二階二間に、啄木とその一家、母かつ、妻節子、長女京子が暮らしていた。この家で長男真一が生まれたが、間もなく夭折(ようせつ)した。啄木一家は、この家を出て小石川久堅町に引っ越しする。
画像サイズ: 426×374 (26kB)> 本郷喜之床(きのとこ) > 東京は本郷で> 理髪店喜之床の二階二間に、啄木とその一家、母かつ、妻節子、長女京子が暮らしていた。金田一京助は死ぬまで啄木の世話をしたが野口雨情は札幌と小樽だけのつきあいだった。 (北海道のあと 東京で会っていただろうか)
画像サイズ: 616×497 (38kB)> 本郷喜之床(きのとこ)> 東京は本郷で> 理髪店喜之床の二階二間に、啄木とその一家、母かつ、妻節子、長女京子が暮らしていた。こちらは現在もある (東京都文京区本郷の喜之床)新井理髪店元の建物は明治村に移転したというわけ。
画像サイズ: 480×360 (45kB)小泉八雲避暑の家 ラフカディオ・ハーンは明治23(1890)年に来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚、同29年日本に帰化して小泉八雲と名のった。同年帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じた。 東京へ移った翌年から,夏を焼津で過ごすようになり,その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」という小説があり、中学校の教科書で読んだことがある。
画像サイズ: 454×440 (47kB)> 東京へ移った翌年から,夏を焼津で過ごすようになり,> その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家である。その説明です。
画像サイズ: 521×375 (78kB)新宿区大久保の小泉八雲記念公園には八雲の旧居跡があります。
画像サイズ: 461×346 (37kB)呉服(くれは)座 江戸時代以来の伝統建築の名残を留めるこの芝居小屋は、 明治初年大阪府池田市の戎(えびす)神社の近くに建てられ、 戎座と呼ばれていたが、明治20年代(1887〜1896)に同じ池田市の西本町^名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められた。
画像サイズ: 508×376 (31kB)> 呉服(くれは)座立派な当時の芝居小屋
男爵さんこのように旅行をなさったのですね、すごいです。私もこの中はほとんど行っていますが、昔のことで、今は近場を歩くことで終わっています。旅行とは言えなかった、家の近くにあった六郷川鉄橋は懐かしいです。散歩コースでしたもの!もう少ししたら、また旅行を始めようと友人と話あっているところですが、実現するかどうか?
画像サイズ: 421×379 (33kB)半田東湯 この東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあった。
画像サイズ: 459×352 (58kB)高田小熊写真館この建物は、豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田に明治41(1908)年頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。初代店主小熊和助が、東京へ出て江木写真館で修行し、地元に帰って開業した。階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居間があり、二階に撮影スタジオが設けられていた。明治村の村長になった小沢昭一の父親は、この小熊写真館に弟子入りして写真技術を身につけた。 −−−明治村村長第三代 小沢 昭一 氏 (俳 優)平成16(2004)年〜平成24(2012)年小沢さんは著書「美人諸国ばなし」(新潮文庫)で「私の父は長岡育ちです。山本五十六元帥の中学の後輩であることを自慢にしていました。写真の修行は新潟県高田市の小熊写真館で、兵役は高田の師団に入りました」と書いている。昭一さんの父哲男さんは、和助さんの妻の妹と結婚して、親戚関係になったこともあり、上越市を訪れる度に同館を訪れた。和子さんによると、仏壇に手を合わせる際、「小沢昭一が父、哲男を背負ってお参りしております」とつぶやいていたという。
明治村の村長になった小沢昭一は、かねがね明治村に遊廓をと言っていたがとうとう遊廓を明治村に移転する案は実現しなかった。 −−− 歌丸ばなし うなぎ書房 2006年桂歌丸は横浜真金町の富士楼という遊廓で育った。祖母が切り盛りしていた。 母は祖母との折り合いが悪く、出て行ってしまった。父は三つの時に他界した。 おばあちゃん子だった。この本には貴重な遊廓の図面が載っている。小沢昭一が見れば喜ぶところ。
画像サイズ: 700×525 (43kB)> 明治村の村長になった小沢昭一は、かねがね> 明治村に遊廓をと言っていたが> とうとう遊廓を明治村に移転する案は実現しなかった。明治村の小沢昭一村長の写真が見つかりましたので載せておきます。東山梨郡役所に、この写真が置いてあったと記憶しています。
画像サイズ: 512×384 (33kB)聖ザビエル天主堂明治23(1890)年かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリック教会基本構造はレンガ造と木造の併用で、外周の壁をレンガ造で築いている。しかし移築に際して、建物強化のために駆体を鉄筋コンクリートに変えられた。
画像サイズ: 640×480 (52kB)> 聖ザビエル天主堂身廊、側廊からなる三廊式の典型的なゴシック様式である。内陣もヨーロッパの教会そのままである。
画像サイズ: 640×480 (53kB)> > 聖ザビエル天主堂 > 身廊、側廊からなる三廊式の典型的なゴシック様式である。身廊の両側に並ぶ柱は、軒までに達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束(たば)ね柱になっている。
画像サイズ: 496×276 (48kB)金沢監獄正門 です。赤レンガの正門は、東京駅の赤レンガ建築を連想するのですが。
画像サイズ: 561×292 (48kB)天童眼鏡橋 この石造アーチ橋は明治20(1887)年、山形県天童にそれまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。 山形県の石アーチ橋は多い。http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/bridge/stone-bridge/yamagata-ishibashi/yamagata-ishibashi.htm#taka
画像サイズ: 700×525 (87kB)隅田川新大橋 新大橋は、明治45年に日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられたプラットトラス橋である。 明治村に移築されたのは、日本橋側の一径間の半分、25m分である。
画像サイズ: 529×351 (60kB)> 隅田川新大橋背景に見えるのは川崎銀行本店である。
画像サイズ: 680×464 (34kB)> > 隅田川新大橋なおこれは 隅田川に架かる今の新大橋です。
画像サイズ: 440×360 (24kB)川崎銀行本店 川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。
画像サイズ: 462×382 (39kB)> 川崎銀行本店> > 川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており> 当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。高い建物なのでこれは下の階の部分となります。
画像サイズ: 380×473 (56kB)> > 川崎銀行本店> > > > 川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており> > 当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。こちらは側面からの写真です。
画像サイズ: 496×362 (40kB)大明寺聖パウロ教会堂 この建物は明治12(1879)年頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂である。開国後、長崎の町に建てられた最初の教会は大浦天主堂(1865年完成)で、それから14年後のことであった。 内部こそゴシック様式だが、外観は、鐘楼を除けば、普通の農家の姿にすぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残している。
画像サイズ: 480×360 (33kB)大明寺聖パウロ教会堂建物の正面の土間や鐘楼は、創建後の増築である。この写真は祭壇である。
画像サイズ: 512×384 (40kB)大明寺聖パウロ教会堂 > この写真は祭壇である。祭壇の右に「ルルドの洞窟」がある。通常、「ルルドの洞窟」を設けるには教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのであるがこの大明寺教会堂では室内に設けられている。なお、柱であるが一本おきに柱頭飾りから下の柱を取り払った形になっている。連なる小さなアーチのそれぞれに柱を建てると、室内空間が狭くなるからそうしたのだろう。力学的には途中までの柱は役に立っていない。単なる飾りとなっている。
画像サイズ: 480×360 (38kB)東京駅警備巡査派出所 明治41(1908)年、それまで品川を起点としていた東海道線を皇居正面の丸の内まで延長し、新しい中央停車場を建設する工事が開始された。 大正3(1914)年竣工、東京駅と命名され開業したがその際駅前広場を整備する中で、この派出所が建設された。
東京駅警備巡査派出所> > 大正3(1914)年竣工、東京駅と命名され開業したが> その際駅前広場を整備する中で、この派出所が建設された。ここは終戦まで近衛兵が詰めていたと聞いていますが間違いかな。KOZARU
画像サイズ: 490×434 (53kB)前橋監獄雑居房 構造は和洋折衷になっていて洋小屋に越屋根を載せているが、房(ぼう)廻りの構造は江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えている。 太く堅い栗材を密に建て並べ、貫を通して鳥籠状に囲い床や天井も堅固に組まれている。
画像サイズ: 424×320 (21kB)> 前橋監獄雑居房中に入ってみようという案内がある。
画像サイズ: 480×360 (28kB)> > 前橋監獄雑居房それではと中に入ってみよう。
画像サイズ: 512×384 (26kB)> > > 前橋監獄雑居房中は広かった。ここにたくさん入れられたのだろうか。
画像サイズ: 568×377 (38kB)金沢監獄中央看守所 金沢監獄では、広い敷地の北半分が管理のための建物群で占められ南半分に舎房が置かれた。 八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配置されていた。
画像サイズ: 800×600 (60kB)> 金沢監獄中央看守所この中央見張所は、網走監獄にあったものを移転された。
画像サイズ: 561×346 (52kB)宮津裁判所法廷明治19年に宮津裁判所は建てられた。控訴裁判所などの上級審が洋風レンガ造で建てられたのに対しこの裁判所は和洋折衷の木造で建てられた。
画像サイズ: 639×384 (84kB)菊の世酒造西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵である。 明治28(1895)年 愛知県の刈谷にあった酒造の仕込み蔵として建てられたがもとは明治の初め刈谷から程遠くない三河湾近くの新川(碧南市)に穀物蔵として造られたものを移したという。
画像サイズ: 561×330 (61kB)名鉄岩倉変電所・土川元夫記念館 京都市電に遅れること3年、名古屋電気鉄道により明治31(1898)年 日本で2番目の市内電車が名古屋市内に走るが同社はその後も尾張地区に路線を伸ばし大正元(1912)年には犬山線を開通させた。その時、この岩倉変電所が建てられた。 この建物は、明治村の創立をはじめ、各方面に業績を遺した故土川元夫氏の記念館とされ、室内に氏の遺品を展示している。
画像サイズ: 613×290 (58kB)帝国ホテル中央玄関 この建物はアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され大正12(1923)年に完成した帝国ホテルの中央玄関部である。 レンガ型枠鉄筋コンクリート造とも言える構造になっている。
画像サイズ: 700×525 (77kB)> 帝国ホテル中央玄関この写真のほうが建物の形がわかりやすいです。
画像サイズ: 781×589 (48kB)蒸気機関車明治村の「名古屋駅」と「東京駅」の間を毎日走行している。
画像サイズ: 788×572 (82kB)> 蒸気機関車> > 明治村の「名古屋駅」と「東京駅」の間を毎日走行している。けっこう人気のスポットです。写真を撮る人が少なくない。
画像サイズ: 727×581 (92kB)> > 蒸気機関車> > > > 明治村の「名古屋駅」と「東京駅」の間を毎日走行している。SLの転車台人力(?)というのがすごい。
画像サイズ: 551×393 (59kB)内閣文庫 この建物は明治44年、皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館・事務棟である。 本格的なルネッサンス洋式のデザインで、明治のレンガ・石造の建築の教科書的作品である。 設計は明治40年に横河工務所から大蔵省臨時建築部に移籍したばかりの若い大熊喜邦の手になる。なお右手に見えるのは皇居正門石橋飾電燈である。
画像サイズ: 437×478 (53kB)> なお右手に見えるのは> 皇居正門石橋飾電燈である。皇居正門石橋は俗に二重橋と言われているが本当の二重橋は、この石橋の奥に見える鉄橋のことである。
画像サイズ: 328×469 (50kB)小那沙美島燈台小那沙美島燈台は、広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島、小那沙美島に明治37(1904)年に建造された。
画像サイズ: 760×570 (82kB)さて、このへんでいちおう明治村の旅を終わりたいと思います。天童眼鏡橋のまわりの風景です。これまでに紹介したいくつかの建物や施設も背景に写っています。
画像サイズ: 755×510 (85kB)> 天童眼鏡橋のまわりの風景です。> これまでに紹介したいくつかの建物や施設も> 背景に写っています。長い間見ていただきましてどうもありがとうございます。
> > 天童眼鏡橋のまわりの風景です。> > これまでに紹介したいくつかの建物や施設も> > 背景に写っています。> > 長い間> 見ていただきまして> どうもありがとうございます。懐かしい光景です。今日は旅に出るはずでしたが、都合により中止せざるをえなくなって残念です。3か月にもわたっての投稿大変でしたね。ありがとうございました。
> > 長い間> > 見ていただきまして> > どうもありがとうございます。> 懐かしい光景です。 > 3か月にもわたっての投稿大変でしたね。> ありがとうございました。あやさん ありがとうございます。私も、ここで紹介するために写してきた写真を整理したり、地理や歴史の勉強ができました。