陸軍登戸研究所:殺人光線?
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- 陸軍登戸研究所:そして終戦 (かんぶりあ, 2007/2/6 7:51)
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投稿日時 2007/2/6 7:51
かんぶりあ
投稿数: 11
【登戸研究所の思い出(11)】
短波放送で聞いたところでは『受諾しないときは Complete Destructionが行われること、及び Atomic Weapon の威力と、今後の見通しを熟慮するため、返答に16時間の猶予を与える』と通告した。
然るに、日本側政府の返答は ignore だった … とありました。
今後如何なる惨劇が起きようとも、すべて日本政府の責任に帰するものである … と言うような内容の放送だったと記憶します。
全てが完全に解ったわけではありませんが、大体そんなことでした。
通告は7月26日に行なわれたとのこと、そのころは、ちょうど高性能の短波受信機を作るべく、半田鏝で格闘している最中でした。
米国は、もしポツダム宣言を受諾しなければ原子兵器を使用する、と日本政府に通告していたことになります。
つまり、通告した時期は、ニューメキシコの実験から10日目だったことになるわけです。
宿直で聞いたのは7月末で、直後に千機近いB29が川崎から水戸に及ぶ広い範囲を襲い、そのまま北上して日本海側の2,3の都市を破壊したとも言っていましたから Complete Destruction とはこのことか、と思ったりもしたものでした。
ともあれ、宿直の夜に体験したあの恐怖感は、原子兵器を使用する旨を、はっきり日本政府に通告した、と言うことを知ったからでした。
結局原爆は投下されましたが、これは同時に本土決戦を主張する人々の致命傷にもなったので、尊い犠牲だったのかも知れません。
でも万事がすんなり進行した訳でもなく、海外向放送で10日の早朝午前7時35分に英語で連合国に受諾する旨を伝えたにも拘らず、玉音放送まで更に5日も掛ってしまいました。
この5日間に生じた犠牲者は本当に気の毒です。
突然陛下の声を聞かされた一般国民にとっては、恐らく唐突なことだったでしょうが、当事者達には焦燥の数日だったとも言えましょう。
15日 … やっと録音盤が回わります。その日は白い入道雲と青い空。
緑の大銀杏に蝉しぐれ … 極く普通の暑い夏の昼でした。
中央実験室に集められて陛下の放送を聞いたあと、皆に青酸加里が配られました。誰だ? こんなことする奴は! …
どうも工研の事務所かららしいです。
なるほど、あそこは海軍の技研が居候してるからな。
それにしても、ホントに馬鹿なことをするねえ …
ま、いいか。鍍金に使うのに丁度いい … 平素は買いにくいものだから。
たはっ! 医者の薬包のように硫酸紙で包んであるよ …
うわあ~! こりゃまた凄い量。
これじゃあ、数百人分の致死量じゃないですか!
「お~い! 一度に飲むには多過ぎるよ!」
「じゃあ、少しづつ分けて飲もう」
「でもこれ、全部飲んだら死に過ぎるかも知れんな」
「朝、昼、晩、と三度三度に分けて飲むか …」
「食前がいいか、食後がいいか … それが問題だ」
「To be or not to be, that is the question …」
皆、腹を抱えてゲラゲラ笑って居ります。戦争が終わって嬉しいのです。
取り敢えず胸のポケットに入れて置いたら、水分を吸ってべとべと!
危ないねえ! 平時には考えられないようなことが色々と起こります。
凡ゆる書類の焼却に3日を要しました。少し残して置けば良かったなあ。
ガラン、と、空になった机の上に、融けたガラスがぽつん、と一つ。
「このガラスのようなもの、なんですか?」
不思議そうに部屋の後輩が尋ねます。
「ようなもの、じゃなく、ガラスなんだけど」
「また、どうしてこんなものを?」
「いやね … 空襲の焼け跡で拾ったんだ。その夜、空襲に遭ってね」
「大変だったんですね」
「ところが、どうもその情景を思い出せない。何か酷いことがあったが」
「記憶喪失って、やつ?」
「熱い風が吹いて来て … 酸欠状態で気が遠くなった。そこから分らん」
「で、何故ガラスを? くねくねして、芸術品みたいですね」
「なんか、こう … 眺めてると記憶が戻るみたいでね」
田中助教授(後の教授)が2階から降りて来て、
「さあ、これから金儲けだ!」
と、ガッツポーズを取りました。意識の変革が起こり始めたのです。
ここは電気工学教室阿部研究室。略して「アベケン」と申します。
田中先生は、潜水艦の探知機のチタン酸バリュームの研究をして居りましたが、「村田 昭」と言う人が、これでチタニウムコンデンサーを試作して製品化、所謂「チタコン」なるものをラジオの部品として世に出しました。
「アベケン」は村田製作所のテクノロジーの源流とも申せましょう。
その他、色んな分野で戦時中の経験が戦後の産業の興隆に一役買います。
阿部教授は登戸研究所の戦時研究の依託研究をしていたT教授の愛弟子。
T教授はその後間もなく総長になりました。
終戦直後は学長と言う呼称でしたが、とにかく先生は電力界の権威です。
明治の富国強兵と産業の振興には、電気エネルギーの活用が最重要要件。
蹴上の日本初の水力発電所は、京大の電気工学教室の管轄でした。
爾来、京大は電気エネルギーに強く、戦時には登戸研究所の電気要塞砲の委託研究にも繋がった、と言う次第。
こう言うことは、今でこそ言えることで、当時登戸研究所の話など洩らしたら、京大の総長が公職追放とか戦犯になってしまいます。
と言うわけで、真相は半世紀の間、闇の中に封印されたままでした。
やがて時代は原子力発電へ … 工学研究所に電力実験室があり百万ボルトの高圧発生装置がありましたが、今は原子核研究所になって居ります。
「東北大」は八木アンテナや磁電管の仙台管(セントロン)など、通信や情報、それに磁気関係に強い所。それぞれに特長がありますね。
「東大」は? 「超弩級戦艦の設計者」が「東大の総長」なりました。
確か戦艦長門はその方の手によるもの。軍国時代、戦艦と言えば即国力。
東大が何故軍艦か … 今の時代には不思議でしょう。
往年の建艦競争や海軍の軍縮協定等は、今の核抑止に似て居ます。
5、5、3、1、1 の比率とは戦艦の保有率で、英、米、日、仏、伊のそれを示します。その昔、日本は3大強国の一つで軍事超大国でしたから、「帝国大学」は「大日本帝国」の軍事力の産みの親でもあったのです。
常識も思考の傾向も、時代と共に変化と変貌を繰り返します。
願わくは昔のように、「平和指向」が「軟弱な愚者のたわ言」にならないように。いつも犠牲者は罪のない一般の国民や兵隊さん達なのですから。
この「思い出の記」は、実際に直視したむごたらしいことの90%を割愛せざるを得ませんでした。読む人も、決して愉快なものではありません。
でも当時の若人達は、平和になってからも大変でした。
やがて戦後のインフレが、徐々に猛威を振るい始めます。
文部省からの給料は物価にスライドして上がるけど、給料日から次の給料日までの間に物価が数倍に上昇するので、なにしろ生活が出来ません。
売り食いをしたり闇をしたり、夫々に庶民は工夫しますが、学者とはその種のことにまことに疎いもの。世情への適応能力がありません。
当時、ラジオの修理をしたり作ったりすると、相当の収入が得られます。
真空管1本で米1升が相場でした。特に短波ラジオは高く売れます。
そこで一計、海外引揚者や失業者相手に、ラジオや無線を教える各種学校を作り、大学の教職員のバイトにする事を思い付きました。
教える方も、教わる方も、双方に多くの人が助かります。
難しいこと抜きで、単刀直入、役に立つことだけを身につけさせる …
そのときの体験が、再度、別の形で訪れようとしています。
ただ、ラジオの代りにコンピュータなのですが …
「第二の敗戦」と謂われる「変革の時」がまた来たのです。
そんなわけで、終戦前後の思い出を今に活かそうと思いつつ、忘れぬうちに記録して置こうと思い立ちました。
戦争のときもそうでしたが、このたびの経済戦争の敗北も、人が人の心を失った結果だと思えてなりません。
----------------------------------------------------------------
五十年の歳月に 巨大な狂気の争いは 歴史となって過去に去ったが
まわりの小さな争いは 未だに続いているのだろうか …
争う心はいけないものだ どんな理由があろうとも
争うことはいけないことだ やはりそれは無くしたい
どんな小さな争いも どんな小さなところにも
やはりそれは無くしたい … どんなことで あろうとも
----------------------------------------------------------------
(謹んで戦争犠牲者に捧ぐ)
== THE END ==
=== 新多(Shinta)昭二 ===
短波放送で聞いたところでは『受諾しないときは Complete Destructionが行われること、及び Atomic Weapon の威力と、今後の見通しを熟慮するため、返答に16時間の猶予を与える』と通告した。
然るに、日本側政府の返答は ignore だった … とありました。
今後如何なる惨劇が起きようとも、すべて日本政府の責任に帰するものである … と言うような内容の放送だったと記憶します。
全てが完全に解ったわけではありませんが、大体そんなことでした。
通告は7月26日に行なわれたとのこと、そのころは、ちょうど高性能の短波受信機を作るべく、半田鏝で格闘している最中でした。
米国は、もしポツダム宣言を受諾しなければ原子兵器を使用する、と日本政府に通告していたことになります。
つまり、通告した時期は、ニューメキシコの実験から10日目だったことになるわけです。
宿直で聞いたのは7月末で、直後に千機近いB29が川崎から水戸に及ぶ広い範囲を襲い、そのまま北上して日本海側の2,3の都市を破壊したとも言っていましたから Complete Destruction とはこのことか、と思ったりもしたものでした。
ともあれ、宿直の夜に体験したあの恐怖感は、原子兵器を使用する旨を、はっきり日本政府に通告した、と言うことを知ったからでした。
結局原爆は投下されましたが、これは同時に本土決戦を主張する人々の致命傷にもなったので、尊い犠牲だったのかも知れません。
でも万事がすんなり進行した訳でもなく、海外向放送で10日の早朝午前7時35分に英語で連合国に受諾する旨を伝えたにも拘らず、玉音放送まで更に5日も掛ってしまいました。
この5日間に生じた犠牲者は本当に気の毒です。
突然陛下の声を聞かされた一般国民にとっては、恐らく唐突なことだったでしょうが、当事者達には焦燥の数日だったとも言えましょう。
15日 … やっと録音盤が回わります。その日は白い入道雲と青い空。
緑の大銀杏に蝉しぐれ … 極く普通の暑い夏の昼でした。
中央実験室に集められて陛下の放送を聞いたあと、皆に青酸加里が配られました。誰だ? こんなことする奴は! …
どうも工研の事務所かららしいです。
なるほど、あそこは海軍の技研が居候してるからな。
それにしても、ホントに馬鹿なことをするねえ …
ま、いいか。鍍金に使うのに丁度いい … 平素は買いにくいものだから。
たはっ! 医者の薬包のように硫酸紙で包んであるよ …
うわあ~! こりゃまた凄い量。
これじゃあ、数百人分の致死量じゃないですか!
「お~い! 一度に飲むには多過ぎるよ!」
「じゃあ、少しづつ分けて飲もう」
「でもこれ、全部飲んだら死に過ぎるかも知れんな」
「朝、昼、晩、と三度三度に分けて飲むか …」
「食前がいいか、食後がいいか … それが問題だ」
「To be or not to be, that is the question …」
皆、腹を抱えてゲラゲラ笑って居ります。戦争が終わって嬉しいのです。
取り敢えず胸のポケットに入れて置いたら、水分を吸ってべとべと!
危ないねえ! 平時には考えられないようなことが色々と起こります。
凡ゆる書類の焼却に3日を要しました。少し残して置けば良かったなあ。
ガラン、と、空になった机の上に、融けたガラスがぽつん、と一つ。
「このガラスのようなもの、なんですか?」
不思議そうに部屋の後輩が尋ねます。
「ようなもの、じゃなく、ガラスなんだけど」
「また、どうしてこんなものを?」
「いやね … 空襲の焼け跡で拾ったんだ。その夜、空襲に遭ってね」
「大変だったんですね」
「ところが、どうもその情景を思い出せない。何か酷いことがあったが」
「記憶喪失って、やつ?」
「熱い風が吹いて来て … 酸欠状態で気が遠くなった。そこから分らん」
「で、何故ガラスを? くねくねして、芸術品みたいですね」
「なんか、こう … 眺めてると記憶が戻るみたいでね」
田中助教授(後の教授)が2階から降りて来て、
「さあ、これから金儲けだ!」
と、ガッツポーズを取りました。意識の変革が起こり始めたのです。
ここは電気工学教室阿部研究室。略して「アベケン」と申します。
田中先生は、潜水艦の探知機のチタン酸バリュームの研究をして居りましたが、「村田 昭」と言う人が、これでチタニウムコンデンサーを試作して製品化、所謂「チタコン」なるものをラジオの部品として世に出しました。
「アベケン」は村田製作所のテクノロジーの源流とも申せましょう。
その他、色んな分野で戦時中の経験が戦後の産業の興隆に一役買います。
阿部教授は登戸研究所の戦時研究の依託研究をしていたT教授の愛弟子。
T教授はその後間もなく総長になりました。
終戦直後は学長と言う呼称でしたが、とにかく先生は電力界の権威です。
明治の富国強兵と産業の振興には、電気エネルギーの活用が最重要要件。
蹴上の日本初の水力発電所は、京大の電気工学教室の管轄でした。
爾来、京大は電気エネルギーに強く、戦時には登戸研究所の電気要塞砲の委託研究にも繋がった、と言う次第。
こう言うことは、今でこそ言えることで、当時登戸研究所の話など洩らしたら、京大の総長が公職追放とか戦犯になってしまいます。
と言うわけで、真相は半世紀の間、闇の中に封印されたままでした。
やがて時代は原子力発電へ … 工学研究所に電力実験室があり百万ボルトの高圧発生装置がありましたが、今は原子核研究所になって居ります。
「東北大」は八木アンテナや磁電管の仙台管(セントロン)など、通信や情報、それに磁気関係に強い所。それぞれに特長がありますね。
「東大」は? 「超弩級戦艦の設計者」が「東大の総長」なりました。
確か戦艦長門はその方の手によるもの。軍国時代、戦艦と言えば即国力。
東大が何故軍艦か … 今の時代には不思議でしょう。
往年の建艦競争や海軍の軍縮協定等は、今の核抑止に似て居ます。
5、5、3、1、1 の比率とは戦艦の保有率で、英、米、日、仏、伊のそれを示します。その昔、日本は3大強国の一つで軍事超大国でしたから、「帝国大学」は「大日本帝国」の軍事力の産みの親でもあったのです。
常識も思考の傾向も、時代と共に変化と変貌を繰り返します。
願わくは昔のように、「平和指向」が「軟弱な愚者のたわ言」にならないように。いつも犠牲者は罪のない一般の国民や兵隊さん達なのですから。
この「思い出の記」は、実際に直視したむごたらしいことの90%を割愛せざるを得ませんでした。読む人も、決して愉快なものではありません。
でも当時の若人達は、平和になってからも大変でした。
やがて戦後のインフレが、徐々に猛威を振るい始めます。
文部省からの給料は物価にスライドして上がるけど、給料日から次の給料日までの間に物価が数倍に上昇するので、なにしろ生活が出来ません。
売り食いをしたり闇をしたり、夫々に庶民は工夫しますが、学者とはその種のことにまことに疎いもの。世情への適応能力がありません。
当時、ラジオの修理をしたり作ったりすると、相当の収入が得られます。
真空管1本で米1升が相場でした。特に短波ラジオは高く売れます。
そこで一計、海外引揚者や失業者相手に、ラジオや無線を教える各種学校を作り、大学の教職員のバイトにする事を思い付きました。
教える方も、教わる方も、双方に多くの人が助かります。
難しいこと抜きで、単刀直入、役に立つことだけを身につけさせる …
そのときの体験が、再度、別の形で訪れようとしています。
ただ、ラジオの代りにコンピュータなのですが …
「第二の敗戦」と謂われる「変革の時」がまた来たのです。
そんなわけで、終戦前後の思い出を今に活かそうと思いつつ、忘れぬうちに記録して置こうと思い立ちました。
戦争のときもそうでしたが、このたびの経済戦争の敗北も、人が人の心を失った結果だと思えてなりません。
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五十年の歳月に 巨大な狂気の争いは 歴史となって過去に去ったが
まわりの小さな争いは 未だに続いているのだろうか …
争う心はいけないものだ どんな理由があろうとも
争うことはいけないことだ やはりそれは無くしたい
どんな小さな争いも どんな小さなところにも
やはりそれは無くしたい … どんなことで あろうとも
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(謹んで戦争犠牲者に捧ぐ)
== THE END ==
=== 新多(Shinta)昭二 ===