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宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 唐辛子 紋次郎

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/11 8:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子 紋次郎さん、みなさん

引用:
この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。

 残念ながら「宝塚」へは行ったことがありません。

 ただ、学童疎開をしていたときに、宝塚のから慰問団が来てくださったのを憶えています。
 長野県の鹿教湯温泉でした。
 しかも、私たちの寮は「腸チフス」に汚染されて隔離されていたので見に行くことが出来なかったのです。
 それは可哀想とわざわざ旅館の広間で我々のためだけに危険を冒して(感染する可能性がありましたから)上演してくださったのです。

 たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。
 一生、忘れられません。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/12 8:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 追伸です。

引用:
たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。
 
 この愛国の花は舞踊だったのですが、「愛国の花」をウェブサイトで調べますと

 昭和12年(1937年)にラジオの国民歌謡として作られ、昭和13年(1938年)4月20日、渡辺はま子の歌唱で日本コロムビアからレコード化された歌謡曲。福田正夫作詞、古関裕而作曲ーーーとあります。

 しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢おられるそうです。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/12 8:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ご無沙汰してます。

引用:
しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢
 フィリピンではどうか知りませんが、インドネシアでは、故老の方は・・。
 当時、セレベス島 マカッサル中学では、故 藤山一郎さん(増永丈夫海軍嘱託ー少佐待遇)が現地の女子中学生に教えて、皆さん、歌ってました。
 数十年後、昭和50年代にもメロディは残ってました。
 歌詞も マシロキフジノ・・・ は覚えておりました。
 もうみんな十字架の下です。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/13 8:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUPさん

引用:
しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢フィリピンではどうか知りませんが、インドネシアでは、故老の方は・・。当時、セレベス島 マカッサル中学では、故 藤山一郎さん(増永丈夫海軍嘱託ー少佐待遇)が現地の女子中学生に教えて、皆さん、歌ってました。数十年後、昭和50年代にもメロディは残ってました。歌詞も マシロキフジノ・・・ は覚えておりました。  もうみんな十字架の下です。

 そうでしたか。「愛国の花」をインドネシアでも。

 フィリッピンでは、ギターに合わせて歌っていました。

 日本の若い世代にはこの歌を知らない人が多いのに、海外で歌い継がれているのですね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/13 8:12
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マーチャン、みなさん、今晩は。

引用:
たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。

  むかし、疎開から帰った後、よく家の茶の間かなんかで、その芝居をやってみせて呉れて、こちとらは急拵えの観客席で、のんびり見物した記憶がある。とくに「そら豆の煮えるまで」というのは、芝居の中に、細かい煮方の所作までが入っていたような気がする。そら豆をうまく煮るには、こうしやしゃんせ、といったような。(^_-)-☆

 「コルネビーユの鐘」(Les Cloches de Corneville)というオペレッタも大ヒットしたらしく、浅草オペラの歴史にも出てくるようだ。


 これは、フランスのロベール・プランケットの作曲で、3幕4場。初演は1877年4月19日、パリのテアトル・デ・フォリー・ドゥラマティーク。その後、NYに渡り、アメリカンヴァージョンの「ノルマンディーの鐘」「コルネヴィーユの鐘」として上演された模様。

 いまは城を追われ漁師に身を落としているが、正当の権限を持つわかい城主が、いろいろあった末に、美女を后に迎え、目出度くコルネヴィーユ城の鐘が鳴って幕となる。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/14 17:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子 紋次郎さん、みなさん

引用:
むかし、疎開から帰った後、よく家の茶の間かなんかで、その芝居をやってみせて呉れて、こちとらは急拵えの観客席で、のんびり見物した記憶がある。とくに「そら豆の煮えるまで」というのは、芝居の中に、細かい煮方の所作までが入っていたような気がする。そら豆をうまく煮るには、こうしやしゃんせ、といったような。(^_-)-☆「コルネビーユの鐘」(Les Cloches de Corneville)というオペレッタも大ヒットしたらしく、浅草オペラの歴史にも出てくるようだ。これは、フランスのロベール・プランケットの作曲で、3幕4場。初演は1877年4月19日、パリのテアトル・デ・フォリー・ドゥラマティーク。その後、NYに渡り、アメリカンヴァージョンの「ノルマンディーの鐘」「コルネヴィーユの鐘」として上演された模様。

 それにしても不思議なのはあの戦争中を、あの華やかな宝塚が、よく生き延びたいうことです。
 戦争末期を、あのように慰問に徹して過ごしたのがよかったのでしょうか。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/14 17:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子 紋次郎さん、みなさん

 きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の方々と知り合いになりました。

 何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

 皆様のお好きな方がおられたら、いいですね(^0^)v

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/16 20:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 きりん さん、みなさん、こんばんは。

引用:
きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の方々と知り合いになりました。

 もとTakarasienneとお知りあいたぁ、大した紋です。(@_@;)タカラヅカはなぜ、片仮名か。それは世界の宝塚だから、でしたよね。

引用:
何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

 宝塚時代の華やかな思い出話を、当事者から肩のこらない場所で、じっくり聴くということにでもなれば、メロウの淑女連中も、大勢集まるのでは?

引用:
皆様のお好きな方がおられたら、いいですね(^0^)v

 淑女連のなかには、男役スターのブロマイドを夢中で集めた人も、結構お出でではないでしょうかね。あっしも、むかしは押入れに一杯しまっている人を間近かに見た記憶があります。いまでも残っていれば貴重品で、まさに文字通りの「宝の塚」かも。(^_-)-☆
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/16 20:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 きりんさん

 引用:
きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の方々と知り合いになりました。
何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

 是非!

 Y-catが、ズカ志願を言いだして必死に止めた経験有り。



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/16 20:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 変蝠林様

 Y-CATさまの歌と踊りをぜひ、拝見したかったです!

 元タカラジェンヌの方は、最近 神田の古書店で古い宝塚の写真集の中で春日野八千代様が主役、ご本人は端役(^^)で写っていたそうです。

 現在は、童話作家として活躍しておられ、お話も、とっても楽しいおもしろい、すてきな方です。

 変蝠林様のご近所で、企画します。
 ぜひ、ご期待ください。
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