「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 1 面白い大道行商人
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- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 21 木炭で走る乗り合いバス (編集者, 2016/5/28 8:09)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 22 進駐軍のジープ野原に (編集者, 2016/5/29 12:10)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 23 だるまストーブで温める弁当 (編集者, 2016/5/31 9:25)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 24 とうふや (編集者, 2016/6/1 6:53)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 25 石やきいも屋が来た (編集者, 2016/6/2 7:34)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 26 夜泣きそばが来た (編集者, 2016/6/20 16:07)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 27 ちんどん屋が来た (編集者, 2016/6/21 9:48)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 28 お医者さんの調剤室 (編集者, 2016/6/22 8:41)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 29 デパートのエレベーター (編集者, 2016/6/23 7:58)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 30 傷痍軍人 (編集者, 2016/6/24 9:03)
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「木炭で走る乗り合いバス」 1945年
描き残したい昭和「木炭で走る乗り合いバス」 昭和20年(1945年)人は窮するといろいろなことを思いつくものです。真っ赤に焼けた木炭に蒸気を吹き込むと水性ガスという水素と一酸化炭素の混合ガスができますがそれを燃料にして走るバスがありました。エンジンはガソリンエンジンを改造したものです。出力が劣るのでちょっと重たくなったり坂道だったりするとウーンウーンと唸っています。千葉県市川市の国道でよく見かけました。しかし手間がかかるのか、戦後間もなく見なくなりました。
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進駐軍のジープ野原に来る 1951年
昭和26年戦後復興は進んではいたがまだまだ焼け野原の墨田区寺島町。子供の遊び場に駐留軍のジープが来た。小冊子を配っている。ヨハネ傳福音書と書いてある。たくさん貰った。ジープが去ると子どもらは本をばらして紙飛行機を作って野原の空に飛ばした。米軍の空襲で焼け野原になったところに平和の使いジープが配った聖書。野原はでこぼこでなお人骨らしい骨が見つかる。米軍の殺戮の結果だというのに。デンプク(傳福)と言うんだよ。近くにいたおじさんが小冊子の読み方を教えてくれた。のちに聖書を知るきっかけとなった。
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だるまストーブで温める弁当 1953年
中学生になると給食がない。冬、冷たくなった弁当をストーブを囲む網に乗せる。なかなか温まらないので4時間目に置く。昼休みにすぐ食べられるように。臭いが教室を漂う。たくあんの臭いは強烈。弁当のおかずはシンプルそのもの。さんまの開きの半身、かき揚げ、シャケ、海苔といり卵など。質素なものでした。
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とうふや 1954年
昭和29年(1954年)の椎名町商店街は朝が早い。豆腐の小池屋は家の斜め前に会った。早朝3時にポッと電気がつく。常連の客は5時にやってくる。働き者の豆腐屋さん。豆を仕込み、4時半におからを出す。寒空におからはモウモウと湯気をあげる。おからはタダ。自由に持ち帰っていい。5時、いつもの客が来る。「やっこにして」「僕はおつゆに」豆腐の切り方を頼む。おからを一掴み。これがおいしい。人参のせん切りとゆで大豆を混ぜてしょうゆをちょっとかけて。今もあれば食べたいものだ。
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石やきいも屋が来た 1955年
描き残したい昭和の時代です。「石やきいも屋が来た」昭和30年(1955年)
「い~しや~きいも~」「い~しや~きいも~~~」「おいも~おいも~おいも~~」「ホッカホッカですよ~」「さあ、いらっしゃい」売り声はあくまでやわらかく、角ばってはいけない。「イシヤキイモ」「イシヤキイモ」これではいけない。あくまでホッカホカに蒸けた雰囲気で呼び込み。このころ一個30円だった。
皮が焦げてはがれそうな焼いもを手で半分に割る。熱いから新聞紙でくるんで。今だって焼き芋屋さんは現役です。昭和の時代からずーっとロングランの屋台、いつまでも人を惹きつけています。
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夜泣きそばが来た 1960年
描き残したい昭和を描いてます。「夜泣きそばが来た」 昭和35年(1960年)夜が更けて遠くに鳴るチャルメラ。淋しそうな音色で奏でる。ソラシーラソー ソラシラソラー 屋台の支那そば屋。屋台の車をひいてお声掛かりを待つ。この支那そばが旨いのだ。特に終電車になり寒い夜にはこれに限る。
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ちんどん屋が来た 1952年
八百屋の回転ちんどん屋が来た 昭和27年(1952)墨田区寺島町(東向島)の玉ノ井いろは通り。新しく回転するとちんどん屋が出動した。かね、太鼓、笛で賑やかにはやし立てた。店は気前よく「おまけ」を奮発する。普段から賑やかないろは通りはちんどん屋で一層華やいだ。
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お医者さんの調剤室 1955年
描き残したい昭和 「お医者さんの調剤室」昭和30年(1955年) 杉並区高円寺の槇小児科医院。お医者さんには薬を調合する調剤室がありました。「よしこさん、体重何キロ?」「んーと…」 診察が終わると自分の体重を告げて薬を調合してもらいます。天秤で薬の量を計ります。ハトロン紙に包んだ薬を窓口で受け取りました。
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「デパートのエレベーター」 1956年
描き残したい昭和 「デパートのエレベーター」
昭和31年(1956年) フワーと舞い上がりフワーッと停止したエレベーター。正しく描けているかわからないので東京日本橋のデパートとしておきましょう。木の内装で正面は金色の彫金で飾られている豪華なつくりでした。エレベーターの上部には停止階の表示盤があって、上下すると針が動いた。階と階の間は階を示す数字があった。売り場は乗って見える。エレベーターが停止するとまず外側のガラス扉が開き、次いで真鋳のエレベーターの格子戸が開く。「上に参ります。ご利用階をお知らせ下さい」エレベーターガールが各階の売り場案内をする。
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「傷痍軍人」 1956年
描き残したい昭和「電車の傷痍軍人」 昭和31年(1956年) 戦後10年以上たったのですがまだ戦争で傷を負った傷痍軍人が電車内を巡回していました。アコーデオンを悲しく奏でて、戦闘帽を被って痛々しく車内を歩きました。腕や脚を失った傷痍軍人は復員しても定職に就くのは難しかったのです。それでやむなくこうした募金活動をしなければなりませんでした。