戦後七十年 河田 宏 1 みどりのかぜ<第39巻>より
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- 戦後七十年 河田 宏 1 みどりのかぜ<第39巻>より (編集者, 2016/7/7 8:32)
- 戦後七十年 河田 宏 みどりのかぜ<第39巻>より 2 東京大空襲 (編集者, 2016/7/8 7:43)
- 戦後七十年 河田 宏 3 みどりのかぜ<第39巻>より 3 戦災孤児 (編集者, 2016/7/9 7:43)
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投稿日時 2016/7/7 8:32
編集者
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投稿数: 4298
はじめに
この記録のメロウ伝承館への掲載につきましは、
投稿者のご了承をいただいております。
メロウ伝承館スタッフ
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みどりのかぜ<第39巻>より
戦後七十年 河田 宏 (緑風会 会員)
今年は戦後七十年。安倍総理の他人ごとのような声明は論ずるに価しないが、昭和二〇(二九四五)年の八月十五日を知っている年代の者には、それぞれの憶いの深い年である。
一九四五年八月十五日、当然のことながら韓国の人たちも日本人とまったく違う思いで日本の敗戦を知った。この日、韓国は日本の植民地支配から解放されたのである。これで独立できる。国中に「萬歳!」の声が湧き上がった。
独立の実感いまだ湧からざるに
吾もつられて萬歳唱う
ソウル近郊の高等女学校教師・孫方妍(ソンバンヨン)はこのような和歌を詠んでいる。彼女はこのとき二一歳。
私はそのとき中学三年生であった。前年の十二月に本郷千駄木から浦和に疎開して来て半年少したった時期である。王子の陸軍造兵廠に動員されていた。十五日正午、本部前に集合して玉音放送(天皇のラジオ放送)を聞かされた。よく聞きとれなかったが、戦争が終わったらしいことはわかった。解散すると泣いているグループもいたが、私はポカンとしていた。連日の空襲と新聞・ラジオで、戦局が非常に困難になっていることはわかっていたが、敗けるとは思っていなかった。敗けるという言葉を知らなかったのか、そういう考えがなかったように思える。
その日の午後、空はどこまでも青く、道端の雑草の緑が輝いて見えたのを覚えている。そして
「しっかりしなくては、しっかりしなくては」と自分に言いきかせていた。いまだに心に残っているのは、その夜、浦和の街のあちこちの家に電灯が灯った光景である。戸毎の灯を見ていると、戦争は終わったのだという気持ちがこみあげてきた。だからといって嬉しくもなかった。ずっと戦争状態が続いていたので、平和とはどんなことかわからなかったのである。
私の母の実家は上野松坂屋まえで書店を営んでいた。当然、三月十日の東京大空襲で焼け出された。ただ土蔵があったのでそこだけは焼け残り、伯父たちはそこで暮らしていた。そして終戦である。いや敗戦である。
まだ暑かったから八月未か九月初旬であったと思う。本屋の伯父はもうバラックを建てて商売を始めていた。それが大繁盛であった。驚くなかれ、もう新刊本が出版されていたのだ。まずは『日米会話手帳』。敗戦の日から一カ月後に出版されている。四六半裁の手帳ほどの本だが、それこそ飛ぶように売れた。著者であり出版社(誠文堂新光社)社長である小川菊松は、敗戦の玉音放送に涙したその日の夜、この本の出版を思いついたという。戦時中に日本軍が中国に行く兵士に持たせた日支(日中)会話手帳の項目をそのまま東大の学生に三日で英訳させてこの本を作った。定価八十銭。印刷は焼け残った大日本印刷。年内四カ月で三五〇万部売れたという。
十二月には鱒書房から森正蔵『旋風三十年』上下が出た。国民が真相を知らされていなかった満洲事変から敗戦までの経緯を、毎日新聞記者が手分けして書き、それを著者がまとめた本である。八〇万部売れた。国民は食に飢えていたが、活字にも飢えていた。昭和の戦争の真実が知りたかったのだ。
講談社の大衆誌「キング」も復活した。真相はこうだという「真相」が発行された。戦争が終わってから四カ月間に二〇〇誌近くが発行されている。「改造」が復刊したのは年が明けてからであった。昭和二三年に「リーダーズ ダイジェスト」が発売された日には、開店を待って購読者が上野中通りから広小路までえんえんと並んでいた。とにかく戦争が終わってから伯父のバラック書店は大忙しであった。
私はよく手伝いに行かされた。いまでいうアルバイトである。しかし店頭に並んだ雑誌を読んだ記憶はない。九月から学校に行っても教師の話はウワのそら。関心があったのはホモ・サピエンスに始まる人類の歴史だけであった。そして長文のレポートを書いた。これが文章らしきものを書いた最初である。そして本を読み始めた。昭和初期に出た改造社『現代日本文学全集』や新潮社『世界文学全集』そして『三太郎の日記』などなど、乱読した。当時中山道にあった古本屋で、買って読んでは売りを繰り返していた。夜を徹して読んでいたので、母は自分はあまり食べずに、いつも釜の底に雑炊を少し残しておいてくれた。当時食糧が払底して雑炊が常食であったが、釜の底の雑炊の味はいまも忘れられない。
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私には忘れられない光景がある。浦和に疎開してまもない三月十日の東京大空襲の光景だ。夜中にたたき起こされて外に出ると、南側の東京方面が真っ赤に燃えていた。帯状に炎々と燃え広がっている。音が聞こえたかどうか覚えていない。周囲の大人たちは大声で叫びながら見ていたが、私はあまり恐怖を感じなかったような気がする。空襲が日常になっていたからだろうか。
この日、午前〇時過ぎからB29爆撃機一五〇機(大本営発表一三〇機、米軍発表では二七九機)が東京下町一帯を、最初は大きな楕円形に焼夷弾を落として火網を作り、その内側に大量の焼夷弾を投下したのだ。死者はわかっているだけでも九万二七七八名。負傷者おおよそ四万人。羅災者一〇〇万といわれている。
その日の夕方から夜にかけてであろう。親戚の人たちが線路伝いに歩いて続々と浦和のわが家に避難してきた。上野から浦和までは約二〇キロである。誰もが焼け焦げた防空頭巾をかぶり、顔は煤で真っ黒であった。父の兄弟も上野と深川にいたので、全部で二七名になったことは覚えている。さして広くないわが家は人でいっぱいになった。
その翌日か二日後であったと思う。省線電車(現JR)はもう上野まで動いていた。父は私と一歳年上の従姉を連れて上野まで出た。そして高台にある上野駅プラットホームに降り立ったときの光景はいまも脳裏に焼き付いている。なにしろ、隅田川が見えるのである。一面の焦土に点々とあるのは焼けなかった鉄筋コンクリートの建物と土蔵。そして四角い小さな塊り。後でわかったのだがそれは金庫だった。
上野駅前は焼け出された人でいっぱいであった。地べたに座り込んで汽車に乗れるのを待っているのだ。誰もが焼けただれた衣服をまとい、顔は煤でマックロ。御徒町の方向に歩いていくと道のど真ん中に大きな黒焦げの屍体が横たわっていた。私は足がすくんで歩けなくなってしまった。そのとき父親に思いっきり横っ面をひっぱたかれた。それから屍体のごろごろと、場所によっては何人か積み重ねてある道を厩橋方向に歩いていくうちに黒焦げの屍体に慣れてきた。というか無感覚になってきた。私の手をしっかり握っていた従姉の手に、女の手は柔らかいなと思ったりした。
敗戦から三四年後に講談社から『昭和万葉集』が出版された。その「巻七 焦土と民衆」に当時をまざまざと思い出す歌があった。
石炭にあらず黒焦の人間なり
うづとつみあげトラック過ぎぬ
原爆被爆者 正田篠江
この歌を読んだとき、焼死体を積み上げたトラックが上野の山に向かって、一台また二台と行く光景をありありと思い出した。手や足が荷台からはみ出していたのである。
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戦争が終わったとき、野坂昭如は私と同年の中学三年生であった。彼は神戸の空襲で焼け出されて母は焼死し、三歳の妹と二人きりになってしまった。父は軍人で生死不明。『火垂(ほたる)の墓』は戦災にあってから、妹を栄養失調で死なせてしまったまでの日々を、関西弁のねばつこい文章を読点だけでえんえんと綴っていて、読んでいると何とも切ない思いになってくる。彼は浮浪児になった。本書はフィクションであるが、現実もこの本に近い体験をしている。彼の伝記は『行き暮れて雪』に詳しい。
彼も私も満州事変の年に生まれ、日中戦争の始まった年に小学校に入り、五年生のとき日米戦争が始まる。幼少年期は戦争しか知らなかった。そして彼は敗戦の廃墟に放り出された。彼が戦中派でもなく戦後派でもなく、焼跡闇市派と称する所以である。彼は飢えで死んでしまった妹のことを書いた。もっと何かしてやれたであろうことも。
あの戦争で両親を失った孤児、親類縁者からも見捨てられた孤児と海外からの引揚孤児、捨て子を合わせると一二万三五一〇人いた。うち戦災孤児が二万八二四八人いる。ただしこれは昭和二三(一九四八)年の政府統計であって、記録に残らない孤児がかなりいたのではないかと思われる。
私は東京が焼け野原になったのに、そして頻繁に上野に行っていたのに、戦争が終わるまで戦災孤児の存在に気が付かなかった。気付いたのは敗戦後である。上野に出ると駅構内から地下道にかけてたくさんいた。幼い子から小学校高学年ぐらいの子が、汚れたポロポロのシャツ一枚で小さなカンカラを持って小銭を求めたり、食べ物を貰ったりしていた。どの子も髪の毛ボウボウで、手足は垢で黒く汚れていた。夜になると地下道の両側に小さく蹲って寝ていた。
そのあいだを通るとき、私とさして歳の違わないその子たちに、どうしようもなく気持ちが疼いた。どうしてよいかわからない。何もできない。逃げるようにそこを立ち去るしかなかった。私は逃げたのであろう。そうなのだ。本を読みはじめた私は、本を読むことに没入した。そこには未知のすばらしい世界があった。しかし後ろめたい気持ちはいまも心底にある。
戦災孤児については戦後史のなかであまり語られてこなかった。考えられる理由は、一九五一年のサンフランシスコ講和条約締結まで、日本はアメリカ占領下にあったので、爆撃被害の報道は制限されていたからである。日本政府も適切な対応をしていない。主権が回復しても、軍人軍属の補償は積極的に行ったが、戦災被害者に対してはほとんど何もしていない。まして声を上げることのできない戦災孤児については黙殺といってもよい対応を続けていた。
戦災孤児自身が声を上げるにはあまりに幼かつた。成人してからもその日々は苛酷だったので、自ら語り出し得なかったのであろう。子供のとき親を見失ったときの不安ほど恐ろしいことはない。
その恐ろしさがずっと続くのが孤児である。「身無し子(みなしご)」として社会から差別される。
そういうことを付度できなかった私自身が恥ずかしい。老境に入ったいま、忸怩たる思いはいろいろあるが、少年のころ浮浪児に後ろめたい気持ちを抱いた自分が、結局は何もしてこなかったことが恥ずかしい。
これが私の戦後七十年断想である。
戦争だけはしてはいけない。戦争に正しい戦争なんてないのである。いま日本の津々浦々では、
日本を戦争のできる国にしようとしている安倍総理に反対する運動が盛り上がっている。