特攻インタビュー(第7回)
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- 特攻インタビュー(第7回)・その21 (編集者, 2012/7/18 6:43)
- 特攻インタビュー(第7回)・その22 (編集者, 2012/7/20 6:46)
- 特攻インタビュー(第7回)・その23 (編集者, 2012/7/21 7:44)
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海軍航空特攻 野口 剛氏
◆若い人に「犠牲的精神」を持ってほしい
--------今は時代が違うからというので、年配の方は黙ってしまう。若い人は聞く耳を持たない……。それではせっかくの野口さんが経験されたノウハウというか、人生の生き方も含めて貴重な財産が受け継がれないように感じます。そこで、野口さんが孫の世代や子孫にこれだけは遺したいというものがあれば、是非お聞かせください。
野口‥確かに僕らが育ったときには、正に軍国主義の真っ最中でしたよね。しかし、あの教育が良かったか悪かったかということは度外視して、中には、あんな教育はなってないという方もいるかもしれないですし、良かったという方がいるかもしれないですが、それはやはり、それぞれ個人で判断していただきたいと思いますね。
僕らなどは、小学生のころから軍人になりたいと言っていた当時、希望はあったし、それに向けて邁進していたわけです。今の人は平和ボケしているからかなあとは思いますが、自分が何をやりたいんだ、自分は何をしたいんだという思いを、なかなか大学生ですら掴めていないんだなと……。 話をただ聞いているのですけども。それでいて、いい会社には入れなければ駄目なんだと。そしたら、就職もしないでアルバイトをして生活していこうというようでは先のことを考えていないのかと……。今は年金の問題などでも、ああいうふうにして忘れちゃった人、あるいは会社がつぶれてしまって年金をもらえない人もたくさんいるのですから、これから、そういう状況に自分が年をとってからなってしまったら困るとか、今の年金制度にも早く入っておかなければという考えはないのかと思いますね。
だから、僕らのときでもそうでしたが、会社を定年になったときでも誰も色々なことを教えてくれるようなことはなかったですよね。我々がいろいろな経験をした後に、いろいろな問題が出てきて、こうだああだという状態になったわけですよね。わがままに生活をしてはいけないなと、ひとつ節度のある生活がいいなと。それと軍隊などのように、助け合うという一つの精神を「犠牲的精神」と我々は言っていましたが……あれは非常にいいことだと思います。勉強場の掃除に3人!と言うと10人くらいがバァーつと出てくる。ああいうふうにね。例えば学校の給食当番なんていうときにも、10人くらい並んで出て来て皆の面倒を見てやるみたいな、そういう感じにならないものだろうかと考えますね。
そうすることで、自分が困ったときに誰からでも面倒見てもらえるようになるのではないかと思いますね。だから軍隊だとか我々がそうですね。カッター訓練も2隻3隻揃うと自然に競争になったり、毎年暮れになると1万mの競走があるわけですが、分隊単位でやるわけです。そうすると、自分だけ早くてもダメなんですよ。全員がそろって入ってこなければダメだと。そしたら途中で加わった人が背中を押すなり担いででも完走させるというような精神を持たされるのが、今の世の中にあっても良いのではないかと思います。だからなにも、そんなに難しいことではないから、そういうような世の中になったらいいのになと思います。そうすれば、我々がやってきたことも、今の若い人にも少しでも理解してもらえるんじゃないかと思いますね。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
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※注1
・予科練(飛行予科練習生) の制度が発足した昭和4年(1929年)の応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満。教育期間は3年(予科練での基礎教育2年6カ月、飛練6カ月。後に短縮)だった。昭和12年(1937年)、更なる搭乗員育成のため、旧制中学校4学年1学期修了以上(後に3学年修了程度) の学力を有し、年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。教育期間は2年(予科練での基礎教育1年6カ月、飛練6カ月。後に短縮)。従来の練習生は乙種飛行予科練習生 (乙飛) と改められた。
※注2
・予科練の代名詞となった「七つボタン」 の制服が採用されたのは昭和17年(1942年) 12月から。
※注3
・丙種‥「丙種飛行予科練習生」の略称。昭和15年(1940年) 10月発足。海軍部内の一般下士官兵の中から飛行科を志願し、合格した者を採用。予科練での基礎教育3カ月、飛練6カ月と規定されていた。特乙制度の新設で昭和18年(1943年) 3月が最後の入校となった。海軍最下級の学歴者が多く、約7300人の入隊者のうち、実に75・4%に当たる約5500人が戦死した。
※注4
・特乙・・「乙種(特) 飛行予科練習生」の略称。昭和17年(1942年) 12月発足。従来の乙種と丙種に相当する者を、乙種2次試験合格者の中から年齢17歳以上の者を採用し、予科練での6カ月の基礎教育と飛練の教育を6カ月受けさせると規定されていた。戦況の悪化の中、乙飛合格者の優秀者を選抜して短期養成するためのもので、卒業生の多くが特攻要員に充足された。
※注5
・陸軍の「靖国」という爆撃機‥陸軍四式重爆撃機「飛龍」のこと。海軍では、海軍指揮下の陸軍雷撃隊を「靖国部隊」と呼び、それに所属した雷撃機型の「飛龍」のことを、非公式に「靖国」という名称で呼んでいた。
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前村弘(陸軍特幹一期生)軍歴
1925年(大正14年)6月
生誕。
1941年(昭和16年)5月1日
乙種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊。
1942年(昭和17年)7月29日
配属変更により三重海軍航空隊へ入隊。
1943年(昭和18年)5月26日
第16期乙種飛行予科練習生教程卒業。
第32期飛行練習生操縦特修者(陸)として出水海軍航空隊へ入隊。
1943年(昭和18年)11月24日
第32期飛行練習生陸上練習機教程卒業。大分海軍航空隊に入隊。
1944年(昭和19年)3月25日
第32期飛行練習生教程卒業。筑波海軍航空隊附 大分航空基地勤務。
1944年(昭和19年)4月17日
操縦教員として筑波航空隊に転属。
1944年(昭和19年)8月
三沢基地に転進。
1944年(昭和19年)11月15日
七二一海軍航空隊三〇六飛行隊附。神ノ池、海軍神宮部隊に配属。
1945年(昭和20年)2月1日
七二一海軍航空隊三〇七飛行隊附。
1945年(昭和20年)3月18日
富高基地で遊撃戦に参加。
1945年(昭和20年)3月21日
第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の直掩機として参加。被弾により不時着。
1945年(昭和20年)3月26日
二〇三海軍航空隊三一二飛行隊附。笠之原基地へ。
1945年(昭和20年)6月27日
基地移動により、築城基地に転進。
1945年(昭和20年)8月15日
終戦。