「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 1 お姉ちゃんがお婿さんを
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- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 31 自分で頭を刈る (編集者, 2016/4/14 6:30)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 32 家の守り、柴犬チュウ (編集者, 2016/4/15 6:46)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 33 木目の天井画 (編集者, 2016/4/17 8:03)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 34 わたしの親たちは何人いたのか (編集者, 2016/4/18 7:57)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 35 夕日の富士 (編集者, 2016/4/19 6:57)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 36 今日はおいもの配給日 (編集者, 2016/4/20 6:57)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 37 坊ちゃん刈りの三人 (編集者, 2016/4/21 8:01)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 38 伊東さんのおじいちゃん (編集者, 2016/4/22 8:13)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 39 ひばりがさえずる富士見台 (編集者, 2016/4/23 6:30)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 40 お弁当の時間 (編集者, 2016/4/24 6:36)
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自分で頭を刈る 昭和28年頃。
当時小学校六年生。親は大体忙しそうなので長く伸びてしまった坊主頭を自分で刈ってみる。バリカンを右手に、体をくねらせて。左手で後頭部をなぜて刈ったあとの結果を感触で調べる。とら刈りになった。修正がきかない。前方はいいんだけれど後ろがダメ。帽子を被って伸びてわからなくなるまでを待つ。大体1週間かかった。
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「家の守り、柴犬チュウ」 昭和48年(1948年)
千葉県市川市笹塚(現在市川真間)の祖母の家のチュウ。大抵の家は防犯のため番犬を飼っていた。“猛犬に注意”の張り紙が門に貼ってあった。人が訪れるとけたたましく吠える。チュウは常時、鎖でつながれていた。報酬は一日一度、アルマイトのボウルでおじや。生活圏は円周内。駆け回り、地面を掻き、穴を掘る。夜、あちこちの家で犬が遠吠え。チュウもウォーン。遠吠えに応える。当時の飼い犬は今のように散歩もさせないし、家の中にも入れない。吠えることだけが仕事だった。
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木目の天井画 1951年
「木目の天井画、いろんな形に見えて」昭和26年(1951年)床に就く。目は上に。毎晩見て寝る天井。同じ紋様が続く。いろいろな形に見える。節目は人の顔のよう。猿やライオンにも見える。木目の波は穏やかな砂浜。遠くの犬が吠えている。廊下の灯りは二燭灯。障子を照らす。柱時計が耳を澄ますと時を刻む。明日のための枕元。おやすみなさい。
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「わたしの親たちは何人いたのか」
いままで親たちは何人いたのか、計算してみました。 それぞれに両親がいる。25年を一世代として、500年前までさかのぼると累計100万人いたことになる。私は今その先頭にいる。「責任あるなあ僕は」 繋がりの一本でも切れると僕はいないことになる。
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夕日の富士
「戦災の焼け跡と生活のすべ」 1949年 一夜のうちに米軍爆撃機B29はすべてを焼き尽くした。戦後4年たった昭和24年、まだ墨田区寺島町(現東向島)は焼野原だった。よくここまで徹底的に破壊したものだ。焼け跡にバラックが建つ。焼け残ったトタンや鉄板、ブリキなどを屋根にして、木切れを壁にした仮小屋バラック。子どもは多い。10人兄弟などざらにあった。生活しなければ。焼け跡には掘り出すと鉄くず、銅線、真ちゅう、レンガなどが出てくる。レンガはへばりついたバリを金槌で剥がして整形、一個2円で売る。銅や真ちゅうが値がいい。子供らは探し競って売った。向島から見た富士山。茜色の夕空にシルエットがとてもきれいだった。
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今日はおいもの配給日 1946年
戦争が終わって食糧難のときがやってきた。お米は米穀通帳で登録した家族に配給米が配られる。外米もやがてやってくる。配給は各戸に割り当てられる。さつまいもの配給はタイハクいもや沖縄いも。今の時代、タイハクいもはむしろ珍重されているが、当時のタイハクいもは、「またか」とうんざりした。水っぽく甘みがない。たまに農林一号や二号が配られると大喜び。配られるお芋の重さは一貫目。その重みがどれくらいかは肌で感じる。南京袋にいれて引きずりながら運んでくる。何で南京袋というのか。丈夫で泥まみれに強い。
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「坊ちゃん刈りの三人」昭和28年
昭和28年のころです。坊ちゃん刈りは、お育ちのいい家庭の男の子に見られた髪型だった。ほとんどは坊主頭。その中に三人だけ6年3組にいた。経師屋の息子で、かけっこではトップの高橋尚、肉屋の息子ですこぶる明るい人気者の片岡豊治、教頭先生の息子で相撲がめっぽう強い安積紀夫の諸君が坊ちゃん刈り。あとはバリカンで自分で刈ってとら刈りの丸坊主ばかり。モノはないがみんな明るかった。
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私のひとこま自分史です。
70才をとっくに過ぎた私にもこんなことがありました。「市川のおじいちゃん伊東さん」昭和18年(1943年)私は2才半記憶の限界です。
小さい私、いつも伊東さんのおじいちゃんの家に遊びに行った。
遊びに来ない日があると寂しがって私を迎えに家の前まで来たという。
ヨチヨチ歩きの幼児を、目を細めて見ているおじいちゃん。私はその歳になりました。
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ひばりがさえずる富士見台 1956年
東京都練馬区は練馬大根で知られるように広く田園地帯でした。のどかな麦畑。描き残したい昭和です。今は環八が走り畑は全部市街地となりました。「ひばりがさえずる富士見台の麦畑」昭和31年(1956年)練馬区富士見台は麦畑が広がっていた。石神井公園の三宝寺池が水源の石神井川は麦畑を流れる。当時中学生だった私。同級生五人で自転車で石神井川に沿って石神井公園に向かう。麦畑で休息するとひばりがのどかに上空でさえずっていた。このあたり後に環状8号線が敷かれるが、当時は全くの田園地帯。環状7号もまだなく、目白通りが13間道路と呼ばれて建設中だった。
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お弁当の時間 1953年
みんなひもじい時代のお弁当でした。今の時代はいいですねえ。描き残したい昭和です。「弁当、海苔が蓋にくっついた」昭和28年(1953年)中学生は給食がない。お弁当を持っていく。ストーブで温めた弁当。この頃はみんなそろっておなかがペコペコだった。蓋を開ける。ご飯の上に乗せた海苔が蓋にくっついた。弁当のおかずはさんまの干物、鯵の干物、かきあげ、炒りたまご、シャケ。梅干しやたくあんが入っていました。