「特集」私が小学生であった頃3
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投稿日時 2004/3/19 20:18
としつる
居住地: 東京
投稿数: 31
henpukurinさんより10年後からこの世に生を受けた としつると申します。昭和2年生れですが大正の種でしたから《=大正15年と昭和元年は同じ1926年》昭和9年入学の男性です。
処《ところ》は上州《じょうしゅう=群馬県》高崎市、明治の初期に開校した「高崎学校」の後輩で当時の名称は高崎中央尋常高等小学校です。当時軍都として日清《=1894年日本と清国(中国)》日露《=1904年日本とロシア(ソビエト連邦)》の戦いに勇名を馳《は》せた歩兵第15聯《れん》隊の広大な兵舎と膨大《ぼうだい》な営庭《えいてい=兵営内の広場》を持つ、その近くに学校が在《あ》りました。
どのくらいの将兵が居たのか全て秘密のような時代であって判《わか》りかねますが、その周りを取り巻く食堂や商店、勝利の都度に幹部将校の使う料理屋をはじめ聯隊兵卒《へいそつ=階級の低い兵》へ面会差し入れに訪れる家族のためにも数知れぬ食堂や商店で市街地を形成していた云《い》わば聯隊中心に栄えた市であります。
それだけでなく立派な旅館やら花柳街《かりゅうがい=いろ里》と言うか近くに歓楽街《かんらくがい=娯楽施設が集まった所》も繁盛し、芸者や達磨(ダルマ)と呼ぶ女性《=売春婦》も数多く住み、一般庶民や下級兵卒を相手にした嬌声《きょうせい=なまめかしい声》賑《にぎ》やかな軒並みを形作っていました。狭い通りに乱雑に並ぶ木造家屋は火災も度々で、半鐘《はんしょう=小型の釣鐘、火災報知に用いた》の早や鐘《=火元が近いほど鐘を早く打つ》で起こされ“高崎田町のダンゴ屋が焼けた”などと言う歌にまで読まれた人口6万前後の商業と軍都の街でした。
馬卆《ばそつ=馬の世話をする兵》の牽《ひ》く乗馬で朝に晩に兵営に通う幹部将校の家族も屋敷町にある借り上げの官宅に住んでいましたから、当然その子弟も我が学校に通学していました。
その子供達は概ね《おおむね》育ちに余裕も見え成績も良く、その身なりは我々商人や一般庶民とは格段な違いを見せていました。庶民の子供は大方《おおかた》衣服も教科書やランドセル、靴や履物《はきもの》も粗末で、まだまだ普段着《ふだんぎ》の着物を三尺紐《さんじゃくひも=90センチほどの紐》で結《ゆ》わえている時代でもあったのです。
街の通りには未だ大型のリンゴ箱やらで作ったゴミ箱が置かれていたから、そこを漁《あさ》る物乞い《ものごい=こじき》なども多く、悪戯《いたずら》坊主は彼らに罵声《ばせい=ののしりの声》を浴びせ、苛《いじ》めるような悪餓鬼《わるがき》も居た時代なのです。
広大な聯隊周囲は昔の高崎城でしたから、桜と松の大木を数多く土塁《どるい=土を盛り上げて作ったとりで》で廻《めぐ》らせ外堀には時季《じき=時節》に蓮《はす》の花を咲かせて、それは絵にも見事な風景でした。
何《いず》れにしても満州大陸《中国東北部に日本が作った仮の国家》への発展拡大が野望であったのかどうか、開拓団《かいたくだん=荒野を切り開いて耕地にする集団》の募集結成が盛んになり、軍事色が日に日に濃くなって行く様な昭和初期の趨勢《すうせい=なりゆき》であったのです。
その昔残った城門が兵営の正門で日清、日露の戦役にも幾多《いくた=あまた》の兵士が此処《ここ》から戦地に向けて出陣出征をした歴史を繰り返していたのです。日の丸の旗を翳《かざ》して児童が送り、悲しみの戦死者遺骨の声無き帰還にも頭を下げ涙して迎えに出たものです。
当時の校長先生は立派な髭《ひげ》を蓄《たくわ》え校長閣下《かっか=高位の人の尊称》と呼ばれていたから、恐らく勅任官《高等官の一》ででもあったのか、担任教師は1、2年生では別々な女性教師で生徒は男女一緒の3クラス、3年生になって男性教師が6年生まで4年間訓導《くんどう=小学校教員の正式免許》でした。
普段《ふだん》の遊びは独楽回し《こままわし》や面子《めんこ=厚紙で作った遊び道具、地面に打ち当てて相手の物をひっくり返す》での勝負が日常普通で、それに玩具《がんぐ=おもちゃ》の類《たぐ》いは鉄砲、刀を振り回してのチャンバラ《=切り合い》で斬《き》り付けるやらの騒ぎで育ったのです。
5年6年では男子、女子別々の進学組2クラスと、男女混《こ》みでの一般1クラスとなったのは時代の進歩要請なのか、差別と思えるような複雑な気持を抱いたこともあります。教育熱心な土地柄でもあったような反面、軍人家族の多い差別の結果とも考えたのは私独りでは無かったようです。
上毛三山《じょうもうさんざん=榛名(はるな山・妙義山・赤城山》のうち榛名山と妙義山の裾野《すその》が市街地であったから、清いせせらぎの碓氷川《うすいがわ》と烏川《からすがわ》の流れに近く、運動や写生など室外での教育も小高い山並みの観音山周辺は春秋の遠足に、未だ白衣観音《びゃくえかんのん》の建立《こんりゅう》の話も無かったのでしょう、裾に広がる錬兵場《れんぺいじょう=兵営の訓練用広場》の脇を通って出掛けたものです。そのせせらぎも昭和10年だったか時に大洪水《こうずい=水害》があって、教室の机椅子《いす》が浮かぶ程の水害で休校になったこともありました。
又その頃秋季陸軍大演習が高崎を中心に行われ、校庭に臨時厩舎《きゅうしゃ=馬小屋》が多数設けられ、その中に昭和天皇(時の大元帥陛下《だいげんすいへいか=天皇は軍隊の最高位大元帥であった》)の真っ白な御乗馬白雪号も僅《わず》か1,2日ですが拝むばかりの扱いであったなど記憶に残っています。
毎日のように裏門から練兵場へ向けて背嚢《はいのう=四角の背負いかばん》を背負い、銃を担ぎ進軍ラッパを先頭に出掛ける兵卒の集団は毎日のように見受けていたが、果してあの広い兵舎に居た総数がどれ位だったか、全て秘密の世の中だったから解りませんが、日曜日や祭日には一斉《いっせい》に街に溢《あふ》れるほどの盛況さでした。
6年生での修学旅行は往復200KM汽車に乗っての東京日帰りで、握り飯に煎餅《せんべい》、飴《あめ》玉などを持って今の皇居、当時の宮城参拝やら上野動物園への立ち寄りぐらい、唯《ただ》帰りに当時下谷に住む祖母が上野駅まで出向き、してくれる見送りが従兄妹《いとこ》を含めた姉妹達がその都度愉《たの》しみに待ち望んだことでもあったのです。
さて学校の通信簿《つうしんぼ=通知表》は教育勅語《ちょくご》と校歌が冒頭《ぼうとう=文章のはじめ》に載《の》り、学業及び操行《そうこう=日ごろの行い》の欄と出欠席状況が示され、内訳《うちわけ》として学期別に修身《しゅうしん=徳育》、国語は読み方、書き方、綴り方《つづりかた=作文》、算術《さんじゅつ=算数》は筆算《ひっさん》と、唱歌《しょうか=音楽》、體操《=体操》、手工《しゅこう=工作》低学年には無い国史《=歴史》、地理、理科、圖畫《ずが=図工》、など他に女子だけの裁縫《さいほう》、高等科でやる珠算《しゅざん》などがありました。
学業成績は各課目、それに平均点が10点満点の点数で示され、他に操行と言う平素の素行態度を甲乙丙、時代が進んで優良可になり家庭に知らされたのです。身体検査票も1年入学から6年卒業まで書き込まれていました。
幸い当時の仲間3クラスの全体で「一五会」と名付けた同窓会が64年を経た今でも毎年高崎周辺の温泉1泊で、2~30名が杖《つえ》を突きながらも集まり、歌い飲み往時《おうじ=むかし》を語り合っています。
長文になりましたが何故《なぜ》か育った頃の環境に終始してしまったようで、切りも無いのでこの当りで攪筆《かくひつ=筆を置くこと》することとしますが、今でも脳裡《のうり=頭の中》に残る母校の校歌を書き留めて置きます。
「高崎中央尋常高等小学校校歌」 文学博士 本 居 豊 頴 作歌
1、月日ひまなくめぐるてふ
くるまあがたのこのさとは
たてんいさほの高崎ぞ
学びのつとめおこたらず
2、うごかで高きはるな山
よどまで清きとねの川
心うつせばおのづから
進むまなびのます鏡
以上
04.03.19PM:としつる
処《ところ》は上州《じょうしゅう=群馬県》高崎市、明治の初期に開校した「高崎学校」の後輩で当時の名称は高崎中央尋常高等小学校です。当時軍都として日清《=1894年日本と清国(中国)》日露《=1904年日本とロシア(ソビエト連邦)》の戦いに勇名を馳《は》せた歩兵第15聯《れん》隊の広大な兵舎と膨大《ぼうだい》な営庭《えいてい=兵営内の広場》を持つ、その近くに学校が在《あ》りました。
どのくらいの将兵が居たのか全て秘密のような時代であって判《わか》りかねますが、その周りを取り巻く食堂や商店、勝利の都度に幹部将校の使う料理屋をはじめ聯隊兵卒《へいそつ=階級の低い兵》へ面会差し入れに訪れる家族のためにも数知れぬ食堂や商店で市街地を形成していた云《い》わば聯隊中心に栄えた市であります。
それだけでなく立派な旅館やら花柳街《かりゅうがい=いろ里》と言うか近くに歓楽街《かんらくがい=娯楽施設が集まった所》も繁盛し、芸者や達磨(ダルマ)と呼ぶ女性《=売春婦》も数多く住み、一般庶民や下級兵卒を相手にした嬌声《きょうせい=なまめかしい声》賑《にぎ》やかな軒並みを形作っていました。狭い通りに乱雑に並ぶ木造家屋は火災も度々で、半鐘《はんしょう=小型の釣鐘、火災報知に用いた》の早や鐘《=火元が近いほど鐘を早く打つ》で起こされ“高崎田町のダンゴ屋が焼けた”などと言う歌にまで読まれた人口6万前後の商業と軍都の街でした。
馬卆《ばそつ=馬の世話をする兵》の牽《ひ》く乗馬で朝に晩に兵営に通う幹部将校の家族も屋敷町にある借り上げの官宅に住んでいましたから、当然その子弟も我が学校に通学していました。
その子供達は概ね《おおむね》育ちに余裕も見え成績も良く、その身なりは我々商人や一般庶民とは格段な違いを見せていました。庶民の子供は大方《おおかた》衣服も教科書やランドセル、靴や履物《はきもの》も粗末で、まだまだ普段着《ふだんぎ》の着物を三尺紐《さんじゃくひも=90センチほどの紐》で結《ゆ》わえている時代でもあったのです。
街の通りには未だ大型のリンゴ箱やらで作ったゴミ箱が置かれていたから、そこを漁《あさ》る物乞い《ものごい=こじき》なども多く、悪戯《いたずら》坊主は彼らに罵声《ばせい=ののしりの声》を浴びせ、苛《いじ》めるような悪餓鬼《わるがき》も居た時代なのです。
広大な聯隊周囲は昔の高崎城でしたから、桜と松の大木を数多く土塁《どるい=土を盛り上げて作ったとりで》で廻《めぐ》らせ外堀には時季《じき=時節》に蓮《はす》の花を咲かせて、それは絵にも見事な風景でした。
何《いず》れにしても満州大陸《中国東北部に日本が作った仮の国家》への発展拡大が野望であったのかどうか、開拓団《かいたくだん=荒野を切り開いて耕地にする集団》の募集結成が盛んになり、軍事色が日に日に濃くなって行く様な昭和初期の趨勢《すうせい=なりゆき》であったのです。
その昔残った城門が兵営の正門で日清、日露の戦役にも幾多《いくた=あまた》の兵士が此処《ここ》から戦地に向けて出陣出征をした歴史を繰り返していたのです。日の丸の旗を翳《かざ》して児童が送り、悲しみの戦死者遺骨の声無き帰還にも頭を下げ涙して迎えに出たものです。
当時の校長先生は立派な髭《ひげ》を蓄《たくわ》え校長閣下《かっか=高位の人の尊称》と呼ばれていたから、恐らく勅任官《高等官の一》ででもあったのか、担任教師は1、2年生では別々な女性教師で生徒は男女一緒の3クラス、3年生になって男性教師が6年生まで4年間訓導《くんどう=小学校教員の正式免許》でした。
普段《ふだん》の遊びは独楽回し《こままわし》や面子《めんこ=厚紙で作った遊び道具、地面に打ち当てて相手の物をひっくり返す》での勝負が日常普通で、それに玩具《がんぐ=おもちゃ》の類《たぐ》いは鉄砲、刀を振り回してのチャンバラ《=切り合い》で斬《き》り付けるやらの騒ぎで育ったのです。
5年6年では男子、女子別々の進学組2クラスと、男女混《こ》みでの一般1クラスとなったのは時代の進歩要請なのか、差別と思えるような複雑な気持を抱いたこともあります。教育熱心な土地柄でもあったような反面、軍人家族の多い差別の結果とも考えたのは私独りでは無かったようです。
上毛三山《じょうもうさんざん=榛名(はるな山・妙義山・赤城山》のうち榛名山と妙義山の裾野《すその》が市街地であったから、清いせせらぎの碓氷川《うすいがわ》と烏川《からすがわ》の流れに近く、運動や写生など室外での教育も小高い山並みの観音山周辺は春秋の遠足に、未だ白衣観音《びゃくえかんのん》の建立《こんりゅう》の話も無かったのでしょう、裾に広がる錬兵場《れんぺいじょう=兵営の訓練用広場》の脇を通って出掛けたものです。そのせせらぎも昭和10年だったか時に大洪水《こうずい=水害》があって、教室の机椅子《いす》が浮かぶ程の水害で休校になったこともありました。
又その頃秋季陸軍大演習が高崎を中心に行われ、校庭に臨時厩舎《きゅうしゃ=馬小屋》が多数設けられ、その中に昭和天皇(時の大元帥陛下《だいげんすいへいか=天皇は軍隊の最高位大元帥であった》)の真っ白な御乗馬白雪号も僅《わず》か1,2日ですが拝むばかりの扱いであったなど記憶に残っています。
毎日のように裏門から練兵場へ向けて背嚢《はいのう=四角の背負いかばん》を背負い、銃を担ぎ進軍ラッパを先頭に出掛ける兵卒の集団は毎日のように見受けていたが、果してあの広い兵舎に居た総数がどれ位だったか、全て秘密の世の中だったから解りませんが、日曜日や祭日には一斉《いっせい》に街に溢《あふ》れるほどの盛況さでした。
6年生での修学旅行は往復200KM汽車に乗っての東京日帰りで、握り飯に煎餅《せんべい》、飴《あめ》玉などを持って今の皇居、当時の宮城参拝やら上野動物園への立ち寄りぐらい、唯《ただ》帰りに当時下谷に住む祖母が上野駅まで出向き、してくれる見送りが従兄妹《いとこ》を含めた姉妹達がその都度愉《たの》しみに待ち望んだことでもあったのです。
さて学校の通信簿《つうしんぼ=通知表》は教育勅語《ちょくご》と校歌が冒頭《ぼうとう=文章のはじめ》に載《の》り、学業及び操行《そうこう=日ごろの行い》の欄と出欠席状況が示され、内訳《うちわけ》として学期別に修身《しゅうしん=徳育》、国語は読み方、書き方、綴り方《つづりかた=作文》、算術《さんじゅつ=算数》は筆算《ひっさん》と、唱歌《しょうか=音楽》、體操《=体操》、手工《しゅこう=工作》低学年には無い国史《=歴史》、地理、理科、圖畫《ずが=図工》、など他に女子だけの裁縫《さいほう》、高等科でやる珠算《しゅざん》などがありました。
学業成績は各課目、それに平均点が10点満点の点数で示され、他に操行と言う平素の素行態度を甲乙丙、時代が進んで優良可になり家庭に知らされたのです。身体検査票も1年入学から6年卒業まで書き込まれていました。
幸い当時の仲間3クラスの全体で「一五会」と名付けた同窓会が64年を経た今でも毎年高崎周辺の温泉1泊で、2~30名が杖《つえ》を突きながらも集まり、歌い飲み往時《おうじ=むかし》を語り合っています。
長文になりましたが何故《なぜ》か育った頃の環境に終始してしまったようで、切りも無いのでこの当りで攪筆《かくひつ=筆を置くこと》することとしますが、今でも脳裡《のうり=頭の中》に残る母校の校歌を書き留めて置きます。
「高崎中央尋常高等小学校校歌」 文学博士 本 居 豊 頴 作歌
1、月日ひまなくめぐるてふ
くるまあがたのこのさとは
たてんいさほの高崎ぞ
学びのつとめおこたらず
2、うごかで高きはるな山
よどまで清きとねの川
心うつせばおのづから
進むまなびのます鏡
以上
04.03.19PM:としつる