亡母の女学生生活(1)
投稿ツリー
-
亡母の女学生生活(1) (マーチャン, 2005/5/8 15:50)
- 亡母の女学生生活(2) (マーチャン, 2005/5/10 20:33)
- 亡母の女学生生活(3) (マーチャン, 2005/5/25 8:23)
- 亡母の女学生生活(4) (マーチャン, 2005/5/25 8:52)
- depth:
- 0
前の投稿
-
次の投稿
|
親投稿
-
|
投稿日時 2005/5/8 15:50
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
さいわい、私の場合
・末っ子で両親と年齢が大きく離れていたこと
・長く同居していたこと
・写真や、日記、文集などの記録物が、よく保存されており ・しかも、2人とも話好きで、子供のころのことをよく話してくれたこと
もあり、両親の若いころのことについて、比較的詳細な伝聞を書くことができます。
-------------------------
そこで、まず「亡母の女学生生活」から書きます。
母は、兵庫県北部の寒村《かんそん=貧しい村》に、1905年3月に生まれました。
母の生家は、小作人《こさくにん=地主から土地を借りて農業を営む人》を持ち、戸主が村長を勤めていました。ですから比較的ゆとりのある暮らしをしていました。
また、大勢の兄弟の末っ子として可愛がられて育ちました。
村の小学校卒業時に、父親から県立の女学校へ進学するようにいわれたとき、女学校が何であるかさえも、よく知らなかったそうです。周囲に女学生や、女学校卒業生がいなかったので無理もないのです。
入学試験の口頭試問(面接試験)で、受験の動機を聞かれ「親が行けといいましたから」と答えたそうです。
当時は、各県とも中等教育機関は非常に少なく、兵庫県下にも、県立の旧制中学校(男子のみ)、女学校とも、数校しかなく、とくに県北部では、豊岡中学校と、豊岡高等女学校しかありませんでした。そのため同級生のなかには、鳥取県から来ている人もいました。
また、母の小学校から進学した人は、全校で、中学が1人、女学校が1人ーーーという状況でした。
生徒はすべて寄宿舎生活をしていました。
(通学圏が非常に広く、しかも、交通機関が発達していませんから、どっちみち、ほとんどの生徒が自宅通学はできなかったのです)
土曜日から日曜日にかけては、自宅に戻っていたようです。
下の写真は、母の入学時の写真です。
小柄で早生まれの母には、まだ幼さが残っています。
・末っ子で両親と年齢が大きく離れていたこと
・長く同居していたこと
・写真や、日記、文集などの記録物が、よく保存されており ・しかも、2人とも話好きで、子供のころのことをよく話してくれたこと
もあり、両親の若いころのことについて、比較的詳細な伝聞を書くことができます。
-------------------------
そこで、まず「亡母の女学生生活」から書きます。
母は、兵庫県北部の寒村《かんそん=貧しい村》に、1905年3月に生まれました。
母の生家は、小作人《こさくにん=地主から土地を借りて農業を営む人》を持ち、戸主が村長を勤めていました。ですから比較的ゆとりのある暮らしをしていました。
また、大勢の兄弟の末っ子として可愛がられて育ちました。
村の小学校卒業時に、父親から県立の女学校へ進学するようにいわれたとき、女学校が何であるかさえも、よく知らなかったそうです。周囲に女学生や、女学校卒業生がいなかったので無理もないのです。
入学試験の口頭試問(面接試験)で、受験の動機を聞かれ「親が行けといいましたから」と答えたそうです。
当時は、各県とも中等教育機関は非常に少なく、兵庫県下にも、県立の旧制中学校(男子のみ)、女学校とも、数校しかなく、とくに県北部では、豊岡中学校と、豊岡高等女学校しかありませんでした。そのため同級生のなかには、鳥取県から来ている人もいました。
また、母の小学校から進学した人は、全校で、中学が1人、女学校が1人ーーーという状況でした。
生徒はすべて寄宿舎生活をしていました。
(通学圏が非常に広く、しかも、交通機関が発達していませんから、どっちみち、ほとんどの生徒が自宅通学はできなかったのです)
土曜日から日曜日にかけては、自宅に戻っていたようです。
下の写真は、母の入学時の写真です。
小柄で早生まれの母には、まだ幼さが残っています。