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京城(ソウル)からの引き揚げ2

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Kiyo

通常 京城(ソウル)からの引き揚げ2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/22 16:38
Kiyo  新米   投稿数: 6
(代理投稿)
京城には本町、新堂町と借家に住み、引き揚げの時にはやっと手に入れたばかりの自宅に住んでいた(東大門の先でてんのうちょう(確か典農町と書いたと思う)という所、近くに京春鉄道の官舎があったと記憶するが確かではない)。最新のソウルの地図で場所を探したが本町は中心部のどこかであろう。当時、本町通りは内地の銀座通りだと言われていた。新堂町は東大門の近くの新堂洞ではないかと思うし、典農町は清涼里駅の近くの典農洞ではないかと思う。

引き揚げに必須《ひっす=なくてはならない》のものは、釜山までの汽車の切符と引き揚げ証明であった。父はなんらかの手づるで得た貴重な自分達の切符を私達に先に譲ってくれた。

当時、汽車は京城駅ではなく龍山駅から出た。朝鮮人が日本人が電車に乗ることを拒んだため、人力車で龍山に向かった。駅で長女が一時行方不明になるなどのトラブルもあった。汽車は、私達の乗る客車が下から煙を吐いたので屋根のない貨車に交換され、それに乗った。

釜山に着いて、親戚《しんせき》の鉄道の官舎に泊まることができた。しかし、引き揚げ証明がなかなか手に入らず次の日は釜山の埠頭《ふとう=船着場》に泊まった。埠頭には日本行きの行李《こうり=竹ややなぎで編んだ旅行用の荷物入れ》が山のように積まれていた。自分達の送った二つの行李は結局日本には届かなかった。夫の2個分も着かなかった。襟《えり》に密かに縫いこんだお金と手荷物が全てであった。言うまでもなく持ち帰りの荷物制限は厳しかった。

9月29日付けでついに待望の引き揚げ証明が手に入った。親戚の者が鉄道に勤めていたのでその家族として取得できた。釜山では私が身重で一人を負ぶっているという珍妙な格好だったので米兵もほとんどチェックしないで通してくれた。

釜山から船で仙崎(山口県)に着いた(普通は博多に着く)。仙崎から下関まで荷馬車で移動した。下関から門司までは船に乗り、門司からは汽車に乗って南へ向かった。引き揚げ後の無からの生活の第一歩が始まった。

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