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京城(ソウル)からの引き揚げ

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/21 12:05
Kiyo  新米   投稿数: 6
 
口述を聞き取り編集してもらったものを息子が代理投稿するものです。

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終戦(1945)前、夫は京城(=けいじょう、今のソウル)で京城女子師範学校(今のソウル大学教育学部の前身と思う)の付属小学校で教鞭《きょうべん》をとっていました。その夫にもついに昭和20年(1945年)5月7日に召集令状が来ました。龍山の駐屯地《ちゅうとんち=軍隊が留まっている場所》に入ったと記憶しています。何度か面会に行きました。

間もなく平壌に行けという命令が暗号で来て、隣の部隊は正直にすぐに移動したが、夫のいた部隊長は暗号が読めないとして(読めない振りをした?)、結局移動しませんでした。軍内部でも既に戦局の趨勢《すうせい=なりゆき》は明らかだったということでしょう。もし平壌に行っていれば生きて帰れたかはわからなかったでしょう。もしシベリア送りにでもなれば、体の弱い自分はもたなかっただろうと夫が言っていました(後から聞いた話です。)

既に3人の子供と1人をお腹に抱えた私は、父母と夫の郷土の友人の助けで引き揚げの準備をしていました。8月15日終戦となり、その直後、思いもかけずに夫が帰ってきました。上官が塀《へい》を乗り越えて帰れと言ったとのことでした。

朝鮮人(韓国人)が「独立万歳」「独立万歳」と叫びながら町中を歩き回っていました。日本人はひっそりと家に篭《こも》っていました。一人がモーニングを譲ってくれとやってきたことが記憶に残っています。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/22 16:38
Kiyo  新米   投稿数: 6
(代理投稿)
京城には本町、新堂町と借家に住み、引き揚げの時にはやっと手に入れたばかりの自宅に住んでいた(東大門の先でてんのうちょう(確か典農町と書いたと思う)という所、近くに京春鉄道の官舎があったと記憶するが確かではない)。最新のソウルの地図で場所を探したが本町は中心部のどこかであろう。当時、本町通りは内地の銀座通りだと言われていた。新堂町は東大門の近くの新堂洞ではないかと思うし、典農町は清涼里駅の近くの典農洞ではないかと思う。

引き揚げに必須《ひっす=なくてはならない》のものは、釜山までの汽車の切符と引き揚げ証明であった。父はなんらかの手づるで得た貴重な自分達の切符を私達に先に譲ってくれた。

当時、汽車は京城駅ではなく龍山駅から出た。朝鮮人が日本人が電車に乗ることを拒んだため、人力車で龍山に向かった。駅で長女が一時行方不明になるなどのトラブルもあった。汽車は、私達の乗る客車が下から煙を吐いたので屋根のない貨車に交換され、それに乗った。

釜山に着いて、親戚《しんせき》の鉄道の官舎に泊まることができた。しかし、引き揚げ証明がなかなか手に入らず次の日は釜山の埠頭《ふとう=船着場》に泊まった。埠頭には日本行きの行李《こうり=竹ややなぎで編んだ旅行用の荷物入れ》が山のように積まれていた。自分達の送った二つの行李は結局日本には届かなかった。夫の2個分も着かなかった。襟《えり》に密かに縫いこんだお金と手荷物が全てであった。言うまでもなく持ち帰りの荷物制限は厳しかった。

9月29日付けでついに待望の引き揚げ証明が手に入った。親戚の者が鉄道に勤めていたのでその家族として取得できた。釜山では私が身重で一人を負ぶっているという珍妙な格好だったので米兵もほとんどチェックしないで通してくれた。

釜山から船で仙崎(山口県)に着いた(普通は博多に着く)。仙崎から下関まで荷馬車で移動した。下関から門司までは船に乗り、門司からは汽車に乗って南へ向かった。引き揚げ後の無からの生活の第一歩が始まった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/27 11:13
らごら  常連 居住地: 横須賀市  投稿数: 46
引用:
京城には本町、新堂町と借家に住み、引き揚げの時にはやっと手に入れたばかりの自宅に住んでいた(東大門の先でてんのうちょう(確か典農町と書いたと思う)という所、近くに京春鉄道の官舎があったと記憶するが確かではない)。最新のソウルの地図で場所を探したが本町は中心部のどこかであろう。
 本町は現在の明洞(Myondong)から忠武路(Chungmuro)付近だと思います。
昭和9年製の地図を添付しましたので、ソウルの地図と見比べてみて下さい。
本町通りには、現在地下鉄4号線が走っています。
なお、私は添付の地図の右端にある桜井小学校に通っていました。
 釜山では港へ行くとき、重い荷物を担いで行列を作って行きましたが、大勢の朝鮮人から「そーれみろ ばかやろう ざまーみろ」などと罵声《ばせい=ののしり声》を浴びせられました。
みんな下を向いて黙々とその中を歩いた屈辱感は忘れられません。
当時私は小学校6年生でした。
                                                    粟野 勝

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/9/27 18:34
Kiyo  新米   投稿数: 6
  
らごら(粟野 勝)様、

返事が大幅に遅れてすみません。

引用:
 本町は現在の明洞(Myondong)から忠武路(Chungmuro)付近だと思います。
昭和9年製の地図を添付しましたので、ソウルの地図と見比べてみて下さい。
本町通りには、現在地下鉄4号線が走っています。
なお、私は添付の地図の右端にある桜井小学校に通っていました。

当時の地図を持っておられるとはと、驚きました。貴重な地図を添付していただき感謝に堪えません。京城を再び訪問することはもはや叶《かな》わないでしょう。結局引き揚げ後訪れることができなかったことになります。地図を見比べながら当時のことを思い出しています。南大門に近く、それをずっと西に向かえば京城駅に突き当たったのを覚えています。郵便局の位置も60年以上前と変わりませんね。又、隣町かに桜井町があったことは記憶にあります。近くにお住まいだったんですね。

ありがとうございました。多分子供達が代わりに訪問してくれるでしょう。

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