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終戦 そして激動の日々・その1

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エコー

通常 終戦 そして激動の日々・その1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/2 20:05
エコー  新米   投稿数: 0
我が家の終戦前後
私が女学校の入学試験に合格したのは太平洋戦争の終戦の年の春でした。
その頃は男女共学でなく私たち女生徒は小学3年より男子生徒と組が別々のクラスにわけられ今の中学校にあたる女学校へ入学したのです。

私たちが平穏無事だったのはそれまでで、まもなく日本の運命を変える敗戦を契機《けいき=きっかけ》として激動のるつぼのなかに投げ込まれたのでした。
福井市を焦土化した《しょうどか=焼けつくした》大空襲。引き続いて終戦。その頃は無論勉強どころでなく学校の校舎も焼けてなく、学校では焼け跡の整理で、しかも3度の食事すらも満足に得られない時代で現在ではとても想像することもできないでしょう。

寄宿舎《きしゅくしゃ=共同の宿舎》が焼け残った私たちの女学校では寺小屋のように畳《たたみ》の上で机なし。1畳《いちじょう=たたみ一枚》に6人も座りこんでの授業を受けながら一向に建ちそうもない校舎の建設を待っていたのです。そしてようやく建った校舎は教室以外は全部戸外。ところがガラスのない窓から雪が教室の中に舞い込み、冬の木枯らしの寒さの中に震えておりましたが6つの分校が解消して大喜びでした。
学校変遷《へんせん=移り変わり》の激動の日々であった高校時代、それ故にこそとても私たち同窓生は団結力が強いのです。受験校でしたので都会にいった人も多く、新嶺会(校歌の中に新嶺とある)から名づけて、関東新嶺会、関西新嶺会、北陸新嶺会、新嶺旅行会があります。クラスは何度も変わりましたので、その度のクラス会、小中学校あわせると 年に7..8回くらいあるのです。
皆、家族、知人、友人に笑われていると言いながら集まってくるのです。
全くマイナスがプラスに転じたといいましょうか・・・ 十三分に元がとれてこれからの生きてゆく大きな糧《かて=活動のみなもと》の一つになることでしょう。

一方、家では空襲から3年、焼け焦げの柱を焼け針金で縛《しば》ったバラックからようやく立ち直り、家をたてました。
しかしこの年、福井は震度8の直下型地震に見舞われ、我が家は倒壊、全焼と私を頭に6人の姉妹兄弟と父母が一晩で焼け跡に放り出されました。 何の保障もない時代、父は度重なる災害に若いときにわずらった結核が再発、またもやバラック作りの掘っ立て小屋で、しかも一間きりの部屋に病床に伏す父を含めて8人が生活する難民生活ですから、およそ見当がつこうというものです。母はよく私たち姉妹3人は高校を、男3人は大学を卒業させてくれたと思います。

エコー

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