終戦60年を迎えた大正世代の吾れ
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終戦60年を迎えた大正世代の吾れ (自然, 2005/8/14 14:50)
- Re: 終戦60年を迎えた大正世代の吾れ(その2) (自然, 2005/10/11 11:29)
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投稿日時 2005/8/14 14:50
自然
居住地: 横浜(福井)
投稿数: 22
日本陸海軍76年の歴史が終焉《しゅうえん=おわり、臨終》して60年を迎えるその日は 兵役に服して2年半経った昭和20年《1945年》8月15日午後の営庭《=兵営の庭》に在った。
「耐え難きに耐え・・・・」との玉音《ぎょくおん=天皇のお声》を恐懼《きょうく=おそれかしこまる》謹聴した興奮が覚め
止まず 脳裏を過ぎったのは 「負けたのか!」に併せ 「今夜
から灯火管制が・・・」との腑《ふ》抜けた寂寥《せきりょう=物寂しい》感とも溜息《ためいき》ともつかぬ
呟き《つぶやき》の交叉《こうさ=互い違いの組み合わせ》であった。
ここ平壌は 幼児から小・中学を終え 一時期 寺院継承資格履修《りしゅう=習い修める》の1年を空けた他は 兵役義務までも同地駐屯の聯隊《れんたい=連隊》に入営した地縁に結ばれ 終戦からソ聯邦《それんぽう=ソビエト社会主義共和国連邦》強制抑留《きょうせいよくりゅう=強制的に留め置く》移動の10月までの23年間と 国外収容2年を加えた25年の外地居住を終えて 内地に帰ったのである。
戦後60年を迎えて兵役に服した4年8ヶ月を回顧すると戦陣訓《=陸軍の「戦時下における将兵の心得」》の死生観に説く「従容《しょうよう=落ち着いたさま》として悠久《ゆうきゅう=長く久しい事》の大義に生くることを悦びとすべし」との諭しは 生死に関わるだけに 未だに重く脳裏を離れない。
「陸軍二等兵」を初任に初年兵初期訓練6ヶ月を終え 兵科幹部候補生《=将校または下士官となる事を希望しテストに合格したもの》に採用から乙幹《おつかん=乙種幹部候補生》に属し 下士官勤務にも馴《な》れた3ヶ月めに 聯隊は南方戦線動員が下達され 満州事変《1931年》以後続いた現役3年次編成の聯隊は 一挙に戦時体制に転換 戦闘隊に配置されて頭髪・爪の遺留《=戦死に備えて遺品の準備》等万端を済ませていたところへ「幹部候補生全員は補充隊に残留」命令により 第二の岐路《きろ=別れ道》へ分けられた。
爾後《じご=その後》 8ヶ月後に「陸軍軍曹」任官 併せて「将校勤務適任証」を授与され「現役満期」即日「臨時召集」 兵役延期 「除隊」は夢と遠のき
入営2年経った昭和20年4月「兵科見習士官」に任官 士官勤務に就いていた8月14日 ソ聯軍侵入迎撃《げいげき=迎え撃つ》出動体制に入っていた14日 翌15日正午の本部集合が指示され先の終戦の詔勅発布《しょうちょくはっぷ》に接したのである。
軍隊にある限り 母隊は南方戦線の戦闘で壊滅する 片や補充隊はソ聯軍迎撃の出動に備えるといった岐路は 死生観の大義から遁《のが》れることがなく 何れも生死の岩頭に立っていたとも言えようか。
先の大戦での148万の戦死を数えた壮丁《そうてい=若者》への垂訓《すいくん=教訓》「死生観」の大義は 生き残った吾等《われら》の脳裏から消し去ることのできない命題《めいだい》となっていまもある。