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Re: 終戦60年を迎えた大正世代の吾れ(その2)

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自然

通常 Re: 終戦60年を迎えた大正世代の吾れ(その2)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/11 11:29
自然  半人前 居住地: 横浜(福井)  投稿数: 22

 終戦で 「防人《さきもり=辺土を守る人》」が「虜《とりこ=捕虜》」に一転した平壌の2ヶ月間は柵《さく》外の様子を知ることが出来ず この地に住む家族をはじめ知人 縁者の消息を案じながらソ連抑留の2年が加わり 復員後の再会で実情を知った有様であった

 まして軍関係は45年も確かめられずに経過し 1990年にインターネットからレイテ戦線での母隊歩77聯隊の戦記やネットブログで識ったのだが 自分の所属した部隊の実態は身近かのことしか知らずに終戦 60年のこの年を迎え 奇しくも記録がサーチできて長年の悲願が叶《かな》ったのであって それが「三合里戦友会」の記録である
 
 終戦時の平壌は関東軍《=満州に駐屯した日本陸軍》の南下や難民の流入と 師管区自隊の収拾で混乱し 兵力は6千名程度であったが北方からの流入が7万人ほと゛あっ て 迎える寒期には死をもって對処する以外に手段がない有様であったと言う

 思い返すと 終戦から26日の武装解除までは治安警備に就いて28日の武装解除の翌29日には師管区部隊に合流 9月3日将校は美勒洞(2千人)下士官兵(3万人)は三合里の廠舎《しょうしゃ=軍隊が演習などで宿泊する家屋》に分割収容されての虜予備群生活が2ヶ月続いたのであるが 将校集団は2千名に膨《ふく》れあがり 只管《ひたすら》本土帰還を待ち侘《わ》びていた

 十月に入ると 元山港から船で日本へ帰還するとのことで移動準備に入り 支給された防寒衣服は内地では不用と身軽に纏《まと》め 下旬に一集団(1千名)が夜間遅くに人通りの無い街筋を通り抜け 平壌駅に向い夜明けとともに貨車 輸送で 北鮮の興南港ソ連邦ポセット港---シベリヤ 鉄道---エラブ カ (カザン地区)と2ヶ月かけた12月末に先住のドイツ・オランダ兵のいる収容所に入り 2年間の抑留となった

 平壌からのシベリアへの輸送内訳は

 年月  作業大隊  人員   収容所  経由地  上陸地  備考
昭和二十年 五   五千    三合里  興南   ナホトカ
        五   五千     〃     〃    ポセツト
        ニ   ニ千百十  美勒洞   〃    〃    将校団
        一    千     三合里   〃    ウラジオ 
        一     千      〃     〃   ポセツト
 十一月   五   五千      〃   延吉
        二  千百二十五 秋乙病院  〃          病院
        一    千      秋乙   興南
 十二月   一    千     三合里   延吉
翌年一月  二   二千      〃    興南   ポセツト
  計  二十五 二万四千二百三十五名

とあり 「三合里の歴史が、時間の経過の中に埋没して忘れ去られることである。こうなっては亡くなった戦友達に相済まぬ。この書がその歯止めになって子々孫々まで語り継がれることを願う」と結んでいるが 既に有縁の吾が戦友は身内の3名を数えるのみで 年をおうて記憶も薄れて ゆくことを想えば断片たりとも記録をと 筆を染めた次第である

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