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昭和20年頃の思い出(2)

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大舘一夫

通常 昭和20年頃の思い出(2)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/25 23:00
大舘一夫  新米   投稿数: 0


船舶兵といえば聞こえは良いが、物資不足で私達は軍靴《ぐんか》も履《は》かず、帯剣《たいけん=剣を身に着ける》もなく、冷や飯草履《=粗末なわらぞうり》をひっかけてダイハツに乗った。港に入ることが出きない本船が海岸から離れて停泊しているので、ダイハツを本船まで走らせて積荷をダイハツに移し、陸地まで運び荷卸《におろし》をする、現在でいえば沖仲仕《おきなかし=荷の上げ下ろしをする人》の仕事をしていた。戦況は日に日に不利となり、今や国をあげて本土決戦《=国内を戦場とする最後の戦い》に備える為の準備が着々と進められていた。其《そ》の為に満州から続々と米,玉蜀黍《とうもろこし》などの食料物資が送られてきた。またある時には関東軍《=満州駐屯の部隊》の将校ばかりが何百人も氷川丸で帰国した事もあった。

私達の部隊は臨時編成の部隊で、私達新兵が半分と召集兵が半分で編成されていた。私達新兵は勿論20歳だったが、召集兵は日支事変《=日中戦争・1937-》の時に支那戦線(現在の中国)に派遣されており、その後一時除隊していたが、大東亜戦争《=第2次世界大戦1939-1945》で再度召集されたという、多分25~30歳位の人たちだった。新兵を教育している余裕がないので、召集兵と一緒に行動させて教育も兼ねるという方針だったと思う。

私達の任務は、仙崎沖に本船が到着すると、ダイハツに乗って直ちに荷物の引き取りに本船に向かう。ダイハツは本来ならば兵隊30~40人を乗せる空間に、本船から降ろされた食料物資などをいっぱいに積み込み、今度は陸地に向かう。普通なら陸揚げ用のクレーンがある港に降ろすのだが、港に入れないためにダイハツを砂浜に乗り上げる。歩板《あゆみいた》という幅30センチぐらい、長さが5~6メートル位の板を、船から砂浜に渡して通路を作る。「南京《なんきん》袋」と呼ばれている麻袋に入った約60キログラム位の食料物資を、数人で持ち上げてその下に兵隊一人が入り、背中に受けてから背負って、ゆらゆら揺れる歩板の上を調子をとりながら砂浜まで運んだ。時に海に落ちる者もいた。

私達はダイハツに乗らない時は、兵舎の警備に就いたり、ダイハツのジーゼルエンジンに使う重油を保管してある郊外の林にある燃料庫の警備にも出かけた。燃料庫は寂しい所にあるので、特に夜間の警備は辛かった。

警備には召集兵と新兵の二人が組んで出かけた。ある夜この燃料庫監視兵が、昼間の疲れで民家の軒先で寝込んでいる所を巡察《じゅんさつ=巡回する監視人》の週番仕官《将校》に見つけられ、重営倉《じゅうえいそう=陸軍懲罰令による罰のひとつ》に処せられた。営倉《=兵営内にあって規則を犯した者を拘置した施設》に入れられた二人の食事を運んでゆくたびに、散々殴られて変形してしまった二人の顔は見るに耐えられなかった。

ある日兵舎の歩哨《ほしょう=みはり》にたって、海の方を見るともなく眺めていた。丁度仙崎沖には「秋月」という新鋭の一等駆逐艦《くちくかん=戦闘を目的とする小型艦》が停泊していた。その少し手前側を小さな漁船が航行していたが、突然爆発が起こり、大きく立ち上った山のような波の為に「秋月」の姿も見えなくなった。暫くして波は収まり「秋月」の姿は残っていた、漁船の姿は全くなかった.米軍の投下した機雷に触れたのである。この海も戦場なのだと思った。

数日後私達は任務の為に、夜間仙崎から萩に向かってダイハツを走らせていた。先日機雷が爆発した海域で、機雷原《きらいげん=機雷を敷設した地域》を航行しているという緊張に包まれていた。機雷に触れても、ダイハツのような小船は全体が吹き上げられて、意外に死なないものだとも聞かされた。真っ暗な闇《やみ》の中をダイハツはエンジン音を撒《ま》き散らしながら進んだ。後ろの海に広がる闇の海にきらめく夜光虫の波が美しかった。夜光虫の美しさを手紙に書いて両親に送ろうとしたら検閲《けんえつ=不適当な文言が無いか検査すること》にひっかかった。作戦地の秘密がもれるという理由からだった。

8月15日の終戦の詔勅《しょうちょく=天皇のお言葉》を私は直接には聞いていなかったように思う。「戦争に負けた。これからどうなるのだろうか。何時頃除隊できるのか。或いは船舶兵は海外の兵隊の復員作業に派遣されるので、復員は一番後になるとも聞かされていた。」こんなことを歩哨に立ちながら漠然《ばくぜん》と考えていた。

私達新兵より3ヶ月ほど早く、朝鮮の若者たちが入隊していた。私達にとっては古兵である。彼らは2週間ほど前から、終戦の事は知っていたと言う。やはり彼らには私達の知らない情報のルートがあったのだと改めて思った。

終戦の知らせを聞いた翌日のことだったと記憶しているが、仙崎に駐屯していた私達暁部隊の約半数(大部分が召集兵)が夜中に脱走した。かって彼らが支那戦線で行った悪行に対し、進駐してくる米軍が報復をするというデマが飛んだ為と言われた。しかし彼らは朝までには全員戻ってきた。最終列車に間に合わなかった為だった。翌朝中隊長は部隊全員を集めて、軍刀を引き抜いて前夜の失態を非難し、統制ある行動をとるように厳命した。

今おぼろげな記憶をたどってみると、私達の部隊は1個中隊であったと思う。中隊は3~4の小隊からなり、小隊は3~4の分隊で構成されていた。中隊長は職業軍人であったと思うが、小隊長は短期現役の見習士官《少尉に任官する直前の官名》であった。彼らは皆大学を卒業か中退して入隊し、仕官教育をうけて任官した人たちだと思う。終戦以前は物凄《すご》く張り切った小隊長もいて、召集兵たちの態度が悪いと言って散々殴ったりしていた。終戦で階級の差別がなくなると、これらの張り切った小隊長達は召集兵達に川原に呼び出されて殴られた事も有った。

終戦から除隊までの約2ヶ月間をどのように過ごしたかは、今記憶にはない。軍隊にいる間に、私のような要領の悪い者は、余りにも多く殴られて、記憶が喪失してしまったのかもしれない。10月に入って漸く毛布1枚を貰って解放された。どのようなルートを通って帰郷したかは覚いていないが、無蓋《むがい=屋根などの覆いの無い》貨車に乗って横浜付近を通過した時、周囲が完全に焼け野が原になっていたのを見て呆然とした事だけは今でも覚えている。終わり。

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