昭和20年頃の思い出(1)
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投稿日時 2005/8/25 22:58
大舘一夫
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昭和19年(1944年)の秋、私は新宿の映画館でニュース映画を見ていた。その時、すすきのような草がなびいているフィリッピンの飛行場から、飛行機が出撃してゆく画面があり、それが神風特別攻撃隊《かみかぜ(またはシンプウ)とくべつこうげきたい=戦争末期に海軍で編成され、敵の航空母艦などに体当たりする飛行機隊》の始めての出撃と知らされ、なんとも言えない厳粛な気持ちになったのを覚えている。
その後暫くして、真っ青な晩秋の空を大きな飛行機が只《ただ》1機、遥《はる》か上空を西から東、東京方面に向かって悠々《ゆうゆう》と飛行していた。当時私は立川市郊外の日立航空機に勤務していた。空襲警報が鳴って慌《あわ》てて外に飛び出してみたら、この光景であった。わが軍の戦闘機は1機も見えない。あまりの高空で日本の戦闘機は簡単には上昇して行く事が出来なかったのかもしれない。
数日後B-29《アメリカボーイング社製の爆撃機》による東京方面の空襲が開始された。サイパン島を攻略《こうりゃく=攻め取る》して其処《そこ》に飛行場を建設したアメリカ軍は、B-29の大編隊を送り連日東京付近の重要施設を爆撃した。彼らは富士山を目標に飛来し、そこから機首を東に向けて東京上空に侵入した。
日立航空機は彼らの航路上にあったが、全く問題にされていないようで、連日我々の頭上を飛び去っていった。因みに《ちなみに=それに関連して》日立航空機では、その頃は星型空冷9気筒480馬力《ばりき》と14気筒950馬力の航空機用エンジンを生産して、陸軍に納入していた。これらは主として練習機や偵察《ていさつ》機などに使われていたと言われている。
我々の頭上を飛び越えていった米空軍は真っ先に三鷹《みたか》周辺の中島飛行機を徹底的に爆撃したといわれている。その後目標を名古屋方面に変えて、三菱重工業を叩いたようである。こうして真っ先に日本の航空機の生産能力に壊滅《かいめつ》的な打撃を与えたのであった。
当時の日本の高射砲は《・・敵機が・・》高空の為届かず、迎撃《げいげき》に上がったわが戦闘機も充分に戦闘能力を発揮できないで撃墜されるものが多かった。まれにわが戦闘機の体当たり攻撃の為墜落したB-29もあった。そのエンジンを回収して調査の結果、彼我《ひが=彼と我》のエンジンの性能には大きな違いがあることも判明した。当時既に日米の航空戦力には大きな開きが出来て、制空権《=空を支配する権力》は完全に米軍のものだった。
B-29の爆撃が日本の各地に続けられていた翌1945年の2月17日朝、会社に出勤したら空襲警報が発令された。例によって当社は狙《ねら》われていないものと勝手に決め込んで、誰も防空壕《空襲の被害を避けるため地下や屋外に作られた避難所》には入らずに上空を眺めていた。
突如低空を侵入してきたグラマン《=アメリカグラマン社製の戦闘爆撃機》の姿が見えたと思ったら、黒いものがすっと胴体をはなれて、一瞬物凄い《ものすごい》轟音《ごうおん》と地響きに包まれた。漸く自分たちが狙われていると知り、無我夢中で近くの壕に飛び込んだ。それからはひっきりなしに轟音と地響きが続き、私達は為すすべも無く、ひたすら早くこの状況が過ぎ去る事を念じていた。
随分と長い時間が経過したように感じられたが、後から聞いてみたら僅《わず》か数分のことだったそうだ。空襲警報が解除されて防空壕の外に出たら、周辺の松林は掘り散らかされたように赤土が露出していた。爆弾が炸裂《さくれつ=はれつ》した跡《あと》だと判った。その時の記憶は漠然《ばくぜん》として思い出せないが、飛来したグラマン戦闘爆撃機の数は15機前後であったそうで、その内の1機は工場に所属した高射機銃隊により撃墜されたそうである
この爆撃で工場の約30%が破壊されたと言われている。又当日は日曜日で、工場には通常の半数の数千人が出勤していたが、死者の数は70人に達した。大部分の方は防空壕が爆弾の炸裂の為押しつぶされて、圧死したそうである。中には炸裂で工場の屋根の上に吹き飛ばされた方もいたという。防空壕が如何《いか》に無力であるかが判《わか》ったので、この日以降空襲警報が発令されると、人々は工場の外に逃げ出すようになった。
暫くして3月10日の東京大空襲があり、東京方面の夜空が真っ赤に燃えているのが望見《ぼうけん=遠くから望み見る》された。4月初めに私は第2乙種合格の現役兵として和歌山に入隊した。その後の4月24日には、日立航空機立川工場は約80機のB-29の編隊爆撃により、ほぼ完全に破壊されたが、この時は死傷者は極めて少なかったようである。
現役兵として和歌山に入隊を命ぜられた私は東海道線に乗って現地に向かった。途中名古屋を通過する時、名古屋駅の周辺が空襲を受けた後で、炎々と燃えていた。これから入隊して、この先どのような展開になるのかと考えると、なんとなく悲壮な気持ちになった。
和歌山に着いたが私達には兵舎は無く、小学校を臨時の兵舎として使用していた。ここで暫く陸軍の船舶工兵としての訓練を受ける事になった。主たる任務は「ダイハツ」(大型発動機艇の略か)と呼ばれていた敵前上陸に歩兵部隊を乗せて海岸に突っ込む上陸用舟艇《しゅうてい=小型の舟》の運転をすることである。和歌山における訓練期間は僅《わず》かで、程なく裏日本《=日本海側》の萩に近い仙崎と言う港町に移動した。ここでも兵舎は同じく小学校を借りていた。
船舶工兵といえば暁《あかつき》部隊と呼ばれて、敵前上陸を担当する花形部隊のように思われたいたが、既にわが国の制空権は完全に米軍ににぎられていて、わが国の主要な港湾はすべてB-29により投下された機雷《=水面下や海底に敷設する爆発物》で封鎖されて使用できなかった。機雷に触れずに港外に出たとしても、直ぐに米潜水艦の餌食《えじき》となるばかりであった。このために私達も国外に出ることは出来なかったが、そのおかげで今日の命があると言っても過言ではない。(続く)
大舘一夫
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船舶兵といえば聞こえは良いが、物資不足で私達は軍靴《ぐんか》も履《は》かず、帯剣《たいけん=剣を身に着ける》もなく、冷や飯草履《=粗末なわらぞうり》をひっかけてダイハツに乗った。港に入ることが出きない本船が海岸から離れて停泊しているので、ダイハツを本船まで走らせて積荷をダイハツに移し、陸地まで運び荷卸《におろし》をする、現在でいえば沖仲仕《おきなかし=荷の上げ下ろしをする人》の仕事をしていた。戦況は日に日に不利となり、今や国をあげて本土決戦《=国内を戦場とする最後の戦い》に備える為の準備が着々と進められていた。其《そ》の為に満州から続々と米,玉蜀黍《とうもろこし》などの食料物資が送られてきた。またある時には関東軍《=満州駐屯の部隊》の将校ばかりが何百人も氷川丸で帰国した事もあった。
私達の部隊は臨時編成の部隊で、私達新兵が半分と召集兵が半分で編成されていた。私達新兵は勿論20歳だったが、召集兵は日支事変《=日中戦争・1937-》の時に支那戦線(現在の中国)に派遣されており、その後一時除隊していたが、大東亜戦争《=第2次世界大戦1939-1945》で再度召集されたという、多分25~30歳位の人たちだった。新兵を教育している余裕がないので、召集兵と一緒に行動させて教育も兼ねるという方針だったと思う。
私達の任務は、仙崎沖に本船が到着すると、ダイハツに乗って直ちに荷物の引き取りに本船に向かう。ダイハツは本来ならば兵隊30~40人を乗せる空間に、本船から降ろされた食料物資などをいっぱいに積み込み、今度は陸地に向かう。普通なら陸揚げ用のクレーンがある港に降ろすのだが、港に入れないためにダイハツを砂浜に乗り上げる。歩板《あゆみいた》という幅30センチぐらい、長さが5~6メートル位の板を、船から砂浜に渡して通路を作る。「南京《なんきん》袋」と呼ばれている麻袋に入った約60キログラム位の食料物資を、数人で持ち上げてその下に兵隊一人が入り、背中に受けてから背負って、ゆらゆら揺れる歩板の上を調子をとりながら砂浜まで運んだ。時に海に落ちる者もいた。
私達はダイハツに乗らない時は、兵舎の警備に就いたり、ダイハツのジーゼルエンジンに使う重油を保管してある郊外の林にある燃料庫の警備にも出かけた。燃料庫は寂しい所にあるので、特に夜間の警備は辛かった。
警備には召集兵と新兵の二人が組んで出かけた。ある夜この燃料庫監視兵が、昼間の疲れで民家の軒先で寝込んでいる所を巡察《じゅんさつ=巡回する監視人》の週番仕官《将校》に見つけられ、重営倉《じゅうえいそう=陸軍懲罰令による罰のひとつ》に処せられた。営倉《=兵営内にあって規則を犯した者を拘置した施設》に入れられた二人の食事を運んでゆくたびに、散々殴られて変形してしまった二人の顔は見るに耐えられなかった。
ある日兵舎の歩哨《ほしょう=みはり》にたって、海の方を見るともなく眺めていた。丁度仙崎沖には「秋月」という新鋭の一等駆逐艦《くちくかん=戦闘を目的とする小型艦》が停泊していた。その少し手前側を小さな漁船が航行していたが、突然爆発が起こり、大きく立ち上った山のような波の為に「秋月」の姿も見えなくなった。暫くして波は収まり「秋月」の姿は残っていた、漁船の姿は全くなかった.米軍の投下した機雷に触れたのである。この海も戦場なのだと思った。
数日後私達は任務の為に、夜間仙崎から萩に向かってダイハツを走らせていた。先日機雷が爆発した海域で、機雷原《きらいげん=機雷を敷設した地域》を航行しているという緊張に包まれていた。機雷に触れても、ダイハツのような小船は全体が吹き上げられて、意外に死なないものだとも聞かされた。真っ暗な闇《やみ》の中をダイハツはエンジン音を撒《ま》き散らしながら進んだ。後ろの海に広がる闇の海にきらめく夜光虫の波が美しかった。夜光虫の美しさを手紙に書いて両親に送ろうとしたら検閲《けんえつ=不適当な文言が無いか検査すること》にひっかかった。作戦地の秘密がもれるという理由からだった。
8月15日の終戦の詔勅《しょうちょく=天皇のお言葉》を私は直接には聞いていなかったように思う。「戦争に負けた。これからどうなるのだろうか。何時頃除隊できるのか。或いは船舶兵は海外の兵隊の復員作業に派遣されるので、復員は一番後になるとも聞かされていた。」こんなことを歩哨に立ちながら漠然《ばくぜん》と考えていた。
私達新兵より3ヶ月ほど早く、朝鮮の若者たちが入隊していた。私達にとっては古兵である。彼らは2週間ほど前から、終戦の事は知っていたと言う。やはり彼らには私達の知らない情報のルートがあったのだと改めて思った。
終戦の知らせを聞いた翌日のことだったと記憶しているが、仙崎に駐屯していた私達暁部隊の約半数(大部分が召集兵)が夜中に脱走した。かって彼らが支那戦線で行った悪行に対し、進駐してくる米軍が報復をするというデマが飛んだ為と言われた。しかし彼らは朝までには全員戻ってきた。最終列車に間に合わなかった為だった。翌朝中隊長は部隊全員を集めて、軍刀を引き抜いて前夜の失態を非難し、統制ある行動をとるように厳命した。
今おぼろげな記憶をたどってみると、私達の部隊は1個中隊であったと思う。中隊は3~4の小隊からなり、小隊は3~4の分隊で構成されていた。中隊長は職業軍人であったと思うが、小隊長は短期現役の見習士官《少尉に任官する直前の官名》であった。彼らは皆大学を卒業か中退して入隊し、仕官教育をうけて任官した人たちだと思う。終戦以前は物凄《すご》く張り切った小隊長もいて、召集兵たちの態度が悪いと言って散々殴ったりしていた。終戦で階級の差別がなくなると、これらの張り切った小隊長達は召集兵達に川原に呼び出されて殴られた事も有った。
終戦から除隊までの約2ヶ月間をどのように過ごしたかは、今記憶にはない。軍隊にいる間に、私のような要領の悪い者は、余りにも多く殴られて、記憶が喪失してしまったのかもしれない。10月に入って漸く毛布1枚を貰って解放された。どのようなルートを通って帰郷したかは覚いていないが、無蓋《むがい=屋根などの覆いの無い》貨車に乗って横浜付近を通過した時、周囲が完全に焼け野が原になっていたのを見て呆然とした事だけは今でも覚えている。終わり。