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昭和8年生まれの福井での戦争体験

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団子

通常 昭和8年生まれの福井での戦争体験

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/9 19:47
団子  半人前   投稿数: 22
(二)
そして広島の原子爆弾があり、長崎の原子爆弾があり、私達はその凄さをその当時はあまり知らなかった。本当の事を知ったのは、言論が自由になってからのように思う。終戦の日の15日は夏休みで家に居た。今日は昼天皇陛下のお話があるからみんなラジオを聞くように回覧板が廻《まわ》って、ラジオの前に集まった。私は子供で何も判らなかった。天皇の高い声が聞こえた。終わるまで直立不動でラジオを聴き、戦争に負けたとか終わっとか、大人たちは話していた。そんな中まだ幼い私は、友達が「水浴びに行こう!」と呼びに来て、何時もどおりタオルと水着を持って足羽川へ水浴びに行った。途中みんなと、アメリカが来たら石油かけられて火を付けられる。皆殺しにされる、と言いながら楽しくいつもどおりに泳いで帰ってきた。その夜から灯火管制の黒い幕ははずされ家中明るくなった。アメリカ兵は私達の村にも1,2度やってきたが、噂《うわさ》されたような事はなかった。

世の中の考え方がひっくり返った。不思議な気がした。今まで威張っていた人達が威張らなくなり、みんな急に今までと反対の事を言うようになったり、農地改革で、毎年家の玄関の間に積み揚げられていた米俵はなくなり、今まで小作の人に作ってもらっていた田んぼは小作の人のものになった。我が家は、村長だったり、郵便局だった事、持山があったことなどで、何とか乗りきれたみたいだったけれど、祖父母や父母にとっては大変な変化だったかもしれない。

私と姉は父と、福井市内にあった貸家のやけ後始末に行く事になった。リヤカーを引いて、姉と私は16K(4里)の道を、父と三人分のお弁当を持って福井へと向かい、。父は後から自転車で来る事になっていた。姉と私は、お腹が空いたので、堤防の土手に座って弁当を食べていたら、お腹を空かせた親子が、「昨日から何も食べていないので、少し分けて欲しい」といって近づいてきた。可哀想になり、私たちは父のお弁当を全部、親子に上げてしまった。とても喜ばれたので、姉と私はイイことをした!と得意だった。父が後から追いついて、そのことを告げたら、父にひどく叱《しか》られた。父の分の昼飯はなかったのである。でもイイことをしたのに、何故叱られるか私たちにはガッテンがいかなかった。このことは、何故?なぜ?と何時までも、何時までも私の中で納得がいかず、やっと理解できたのは随分大きくなってからだった。父に、せっかく来たのにこれでは仕事が出来ないので、私の寮の寮監さんに、訳を話してお弁当を貰《もら》ってくるように言われ、私は泣く泣く、恥ずかしい気持ちでお願いに行った。寮監さんの荷物は私の家に疎開《そかい=戦禍を避けて都会から田舎へ人や物を移す》していた事もあって、大きなお弁当箱に、おかずは梅干だったけれど調達する事が出来た。このことは、私の将来の生き方に大きな教えとなった。可哀想な親子も助け、父の弁当も残し、予定の仕事も済ませられる、、と言う解決があったはずである。私達のした事は共倒れの、危険性がある。チョット幼かった私たちには、その知恵はまだなかったのである。父もまだ無理と思ったのか深くは叱らなかった。

終戦前か後が忘れたが、長姉は母のタンスの汚れを落として、嫁入り道具とし、荷車に乗せて、同じ村の人に嫁いで行った。姉の主人は兄2人が出征し戦死していた。そのせいか出征せず残っていた。確かもんぺ姿だったと思う。現在80歳。ずーっと後になって、親たちは文金高島田の花嫁衣裳を着せて、写真をとったのを覚えている。私たちは、終戦後しばらく、焼け残った寮や、バラックで授業を受け、そのうちマッカーサの命令とかで、633制となり、女学校と男子校が一緒になり男女共学となった。今まで男女交際は罪悪のように言われてきたのに、女生徒の左右前後は男生徒と言う絣柄《かすりがら》のような席決めで、男女が早く仲良くなるよう工夫された。その後学校差をなくす為とかで学区制になり、せっかく入った学校を去らねばならない人もあり、可哀想だった。昭和27年の春高校を卒業した。制度に翻弄《ほんろう=もてあそぶ》され、時代の変化に翻弄された、青春時代だった。

                                    2005年9月 記

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