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昭和8年生まれの福井での戦争体験 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/10/1 9:31
団子  半人前   投稿数: 22
 
(一)

昭和16年《1941年》12月8日、朝私は学校へ行くため母に服を着る手伝いをしてもらっていた。ラジオから大本営《だいほんえい=戦時中設置された天皇直属の最高統帥機関》発表!大本営発表!と大きく聞こえてきた。母がこれから大変というような事を言ったように思う。身が引き締まったのを覚えている。その頃の学校では朝礼で校長先生が奉安殿《ほうあんでん=天皇、皇后のお写真や勅語を置くために学校に設けられた設備》から教育勅語を恭《うやうや》しく運ばれ読み上げられ、「いやさか」と合唱したように思う。子供だった為、飛び飛びの記憶しかない。私はからだが弱かったため、朝礼となると決まって貧血で倒れ、保健室行きだった。勅語を読み上げる朝礼がとても辛かった。国民学校の教練の時間は、鎌《かま=草刈の道具》を持って敵をやっつける練習をしたり、竹槍《たけやり》で、わら人形をやっつける練習もやったように思う。夏休みには麻の木を取り皮をむいて、干して学校に持っていった。兵隊さんの服を作ると言う事だった。どくだみを取り陰干しして持っても行った。鉄鍋《てつなべ》、金属類、お寺の梵鐘《ぼんしょう》など、兵器を作るために挙出した。戦争に勝つためと、みんな一生懸命だった。

田舎で田んぼも持っていた我が家にもお米がなかたのだろうか、戦争のために拠出させられ、自分の食べる分を多く残せなかったのだろうか、私たちも、野菜を入れた「おじや」や「すいとん」を食べた。サツマイモやジャガイモをふかしたり、かぼちゃをふかして食べ、サツマイモのつるを炊いたり「タニシ」や「イナゴ」をとって食べた。女学校の寮では、順番の炊事当番だったが、食事は「トーモロコシ」のお粥《かゆ》が丼《どんぶり》に1杯だけて、おかずも何もなかった。それでも、ご飯ですよ!と知らせがあると、一早く食堂に走り少しでも多い丼を見つけたものである。

赤紙《=召集令状》が来て召集された出征兵士が毎日のように、日の丸を掲げ行列し出征していかれた、それはただただめでたい事とバンザーイと私たちも送ったものである。我が家は祖父は村長だったから、父が郵便局長で、体が弱かったからか、誰も戦争に行かなかった。だから出征する事がどんなに辛い事か判らず、出征兵士を送る日は半紙に赤い丸を書き、手作りの日の丸の小旗を振ったものである。打ちてしやまん!欲しがりません勝つまでは!がその頃の標語だった。国民全体が戦争一色だったけれど、生まれたときから戦争だった私たちはそれが普通という感じで受け止めていた。

それでも、田舎の戦争時代は結構平和で、女学校受験のため受け持ちの先生が課外授業を毎日して下さり、当時の女学校入学、今の中学一年生で、学校は福井市内にあった。上級生だった私の姉たち2人は軍需工場に従事《=戦時中の労働力不足で中等学校以上の学生、生徒は全員が軍需工場などに動員された》していた。私たち新入生だけ一応授業があったが、警戒警報で早帰りしたりの毎日だった。私は体が弱かった事もあり、その頃のバスは木炭バス《=燃料不足で木炭を炊いた》で時々エンコしたり、ぶらさっがって《(注)超満員で》乗ったりで、私には無理と両親は私だけを女学校の寮に入れた。母は5センチぐらいの厚さの、頭も顔もすっぽり入り、腰ぐらいまである綿入れの防空頭巾《ぼうくうずきん》と、救急袋を持たせてくれた。寮は学校の校庭内にあり学校までは1分と言う近さだった。その頃日本のあちこちで空襲があり、福井も危ないと言うことで、福井の中心部の私の親戚《しんせき》は空襲の時、類焼をとめるため、国からの通達で、住んでいる家を壊す事になり、私たちも引越しの手伝いに行ったりした。戦争に勝つためには仕方のない事と思っていたように思う。

そして女学校に入学して4ヶ月目の7月19日「福井大空襲」に逢う事となる。私達は寮で、いつでも逃げられる格好で床に就《つ》き、防空頭巾と救急袋を枕元に置いて寝た。、10時半ごろ、警戒警報の発令、10時55分空襲警報。その頃、毎晩、毎晩だったので、「又防空壕《ぼうくうごう》へ行くだけね」とか言いながら母の作ってくれた、大きな防空頭巾をかぶって手探りで学校の塀《へい》の近くの防空壕と言っても唯穴を掘っただけの豪に入って飛行機が去るのを待った。ところがこの日の空襲は違っていた。私達の学校に一番早く爆弾が落とされたのである。学校の工場で重要なものを作っていたから、とか聞いた。校庭に居ては危ないと私たちは助け合って、塀を乗り越えた。子供の私たちにしては、高い高い塀で、後で眺めてみんなびっくりしたものである。

B29《ボーイング社製の大型長距離爆撃機》、127機、2時間、(夜10時55分~翌1時ごろまで)死者1576人、重傷者、481人(その後死んだ人108人)軽傷者、1086人(警察発表)だったそうである。

真っ暗の中、空からひっきりなしに焼夷爆弾《しょういばくだん=油脂類に炸薬を入れた爆弾》が落ちてくるし、空襲になれた人達が「伏せ!」とか「川に入れ!」とか叫び私たちも、言われるままに川に入ったり、田んぼの泥の中に入ったり、靴《くつ》は脱げるし、体は泥だらけになるし、防空頭巾も救急袋も捨て、「一緒に死のうね!」「一緒に死のうね!と一緒に逃げていた友達とははずれ、一人ぼっちの私は、あっちのグループに入ったり、こっちのグループに入ったりしていた。勿論あたりは真っ暗、深夜である。何人かが白い布団をかぶって逃げているグループがあった。私もその中にもぐりこませてもらっていた。誰かが鋭い声で、白い物は目立つから危ない!と叫んだ。

一塊《ひとかたまり》に落ちてくる焼夷爆弾は途中から、花火のように広がり、空は真っ赤だった。しかし、私達の学校は町外れにあり、塀を越えれば、田んぼだったお蔭で火の海の中に閉ざされる事はなかった。私は母恋し、父恋しだったのだろうか!自分の家のほうへと歩いていた。まだ真っ暗闇《まっくらやみ》のうちに、足羽川沿いのバス道路に出て、その頃、まだ舗装《ほそう》されていなかった砂利道の堤防を、堤防から落ちないよう、1歩1歩確かめながら歩いて福井から実家まで16Kの道を、3分の2ぐらい進んだところのバス停留所で一休みのつもりで横になり、眠ってしまった。私の実家の方からは、ひっきりなしに「○○いませんかぁ!」「△△いませんかぁ!」と家族を探しながら空襲のあった福井市に向かっていた。私が停留所の小屋に寝込んでいる間に、父は私の名を呼びながら福井市の方へ走り、私と行き違いになってしまったらしい。明るくなって私は目が覚め、もんぺは、もものあたりまで裂け、防空頭巾も、救急袋も捨てて、一人とぼとぼと裸足《はだし》で実家へと向かった。もう実家まで後30分と言う頃、村の人に会った。その人は「可哀想に!」といいながら、「私はモンぺを2枚はいているから1枚揚げましょう」と私にはかせてくれた。おにぎりも1個もらったかもしれない。家に着き囲炉裏端でおにぎりを食べた記憶はあるが、、どうだったか後は、あまり覚えていない。
多分凄《すご》く安心したのでしょう。

後で聴いた話だが、寮の人達60人くらいだったろうか、空襲解除の後みんな寮に戻ったらしい。学校は全焼、寮は3つあったが1つはやけて、私の寮は焼け残っていた。父は勿論私の寮に行き私一人が「行へ不明}と言うことで、もう死んだと諦めて、死人にかけてあるムシロをめくって、死体を捜し歩いたという。そのうち堤防で私とすれ違った知人に「○○ちゃんは家に帰ったよ」と知され、安心したらしい。そのへんのことは、あまり記憶にない。今はなき父母。こんな話も、もっと詳しくしておくべきだった。と今節に思う。、、、つづく。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/9 19:47
団子  半人前   投稿数: 22
(二)
そして広島の原子爆弾があり、長崎の原子爆弾があり、私達はその凄さをその当時はあまり知らなかった。本当の事を知ったのは、言論が自由になってからのように思う。終戦の日の15日は夏休みで家に居た。今日は昼天皇陛下のお話があるからみんなラジオを聞くように回覧板が廻《まわ》って、ラジオの前に集まった。私は子供で何も判らなかった。天皇の高い声が聞こえた。終わるまで直立不動でラジオを聴き、戦争に負けたとか終わっとか、大人たちは話していた。そんな中まだ幼い私は、友達が「水浴びに行こう!」と呼びに来て、何時もどおりタオルと水着を持って足羽川へ水浴びに行った。途中みんなと、アメリカが来たら石油かけられて火を付けられる。皆殺しにされる、と言いながら楽しくいつもどおりに泳いで帰ってきた。その夜から灯火管制の黒い幕ははずされ家中明るくなった。アメリカ兵は私達の村にも1,2度やってきたが、噂《うわさ》されたような事はなかった。

世の中の考え方がひっくり返った。不思議な気がした。今まで威張っていた人達が威張らなくなり、みんな急に今までと反対の事を言うようになったり、農地改革で、毎年家の玄関の間に積み揚げられていた米俵はなくなり、今まで小作の人に作ってもらっていた田んぼは小作の人のものになった。我が家は、村長だったり、郵便局だった事、持山があったことなどで、何とか乗りきれたみたいだったけれど、祖父母や父母にとっては大変な変化だったかもしれない。

私と姉は父と、福井市内にあった貸家のやけ後始末に行く事になった。リヤカーを引いて、姉と私は16K(4里)の道を、父と三人分のお弁当を持って福井へと向かい、。父は後から自転車で来る事になっていた。姉と私は、お腹が空いたので、堤防の土手に座って弁当を食べていたら、お腹を空かせた親子が、「昨日から何も食べていないので、少し分けて欲しい」といって近づいてきた。可哀想になり、私たちは父のお弁当を全部、親子に上げてしまった。とても喜ばれたので、姉と私はイイことをした!と得意だった。父が後から追いついて、そのことを告げたら、父にひどく叱《しか》られた。父の分の昼飯はなかったのである。でもイイことをしたのに、何故叱られるか私たちにはガッテンがいかなかった。このことは、何故?なぜ?と何時までも、何時までも私の中で納得がいかず、やっと理解できたのは随分大きくなってからだった。父に、せっかく来たのにこれでは仕事が出来ないので、私の寮の寮監さんに、訳を話してお弁当を貰《もら》ってくるように言われ、私は泣く泣く、恥ずかしい気持ちでお願いに行った。寮監さんの荷物は私の家に疎開《そかい=戦禍を避けて都会から田舎へ人や物を移す》していた事もあって、大きなお弁当箱に、おかずは梅干だったけれど調達する事が出来た。このことは、私の将来の生き方に大きな教えとなった。可哀想な親子も助け、父の弁当も残し、予定の仕事も済ませられる、、と言う解決があったはずである。私達のした事は共倒れの、危険性がある。チョット幼かった私たちには、その知恵はまだなかったのである。父もまだ無理と思ったのか深くは叱らなかった。

終戦前か後が忘れたが、長姉は母のタンスの汚れを落として、嫁入り道具とし、荷車に乗せて、同じ村の人に嫁いで行った。姉の主人は兄2人が出征し戦死していた。そのせいか出征せず残っていた。確かもんぺ姿だったと思う。現在80歳。ずーっと後になって、親たちは文金高島田の花嫁衣裳を着せて、写真をとったのを覚えている。私たちは、終戦後しばらく、焼け残った寮や、バラックで授業を受け、そのうちマッカーサの命令とかで、633制となり、女学校と男子校が一緒になり男女共学となった。今まで男女交際は罪悪のように言われてきたのに、女生徒の左右前後は男生徒と言う絣柄《かすりがら》のような席決めで、男女が早く仲良くなるよう工夫された。その後学校差をなくす為とかで学区制になり、せっかく入った学校を去らねばならない人もあり、可哀想だった。昭和27年の春高校を卒業した。制度に翻弄《ほんろう=もてあそぶ》され、時代の変化に翻弄された、青春時代だった。

                                    2005年9月 記

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