Re: 関東大震災その2
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関東大震災その2 (タツマロ, 2006/3/27 10:39)
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タツマロ
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夜に入りて火災の拡がり甚だしきを見る、市役所の吏員は自宅方面に火災ありと見るや先ず以てその実否を調べて安全と見るや更に役所に戻るも、その災害を受けし者又は危険に至る者は役所へ戻るの余裕なくて命がけに家族と共に逃げ去る始末なり、これが為少数の吏員にて種々の事を為し善後策等についての相談もあり徹夜してこれを守るの他なしと心配す。
折から横浜市役所の吏員二名の上京して市役所を訪問するり、横浜市内の惨状極めて大なりと、何とか応援に尽力を得たくその依頼に来たりしが既に東京の震災の横浜に劣らざるを思うとて同情の見舞いをなしてそのまま引き取られたり、蓋《けだし=たしかに》東京市長始め関係者、右訪問者の話を聞きて横浜の罹災《りさい=被災》も亦《また》東京に劣らざるを知るを得たり。
即ちこれが為東京横浜間の交通に非常の困難ある事を知る。何《いず》れにしろ役所に居る者は食事の準備を要す、依って玄米の握飯を造りて配布するあり、又市役所の門前に来集する市民多数にて危険を感じ門扉を閉じてこれが取締りをなす。これが為に用事のあるものにも門内に入るを得ず。 (中略)
山の手を除きて下町は殆ど全部を焼かれしと云う、その最も惨なるは本所被服廠跡《ひふくしょうあと》の焼死人の多数なりし事なり、蓋し《けだし》此処《ここ》は家なく広場にてありし為多数の市民は荷物をもちて此処に避難せしため余計に被害をうけしものなり。
(中略)
曰く此処にて死せる人員は三万人に近しと或いは然《しか》らんも《=そうであろうが》その正確を知り難し、この外に浅草吉原の大池にて死せし人も相当多し、蓋し火のため水のある所に入りて逃れんとせしものの多くが水のため却《かえ》って逃げ場を失いしによるが、相当の水死人もあり実に悲惨の極みなりと云うべし。
被服廠跡その他にて被害の多かりし場所は写真に撮りて絵葉書等にしてその幾枚かを販売するものありしが余りに悲惨甚だしきものありて其の筋《関係ある警察や官庁》より販売の停止を命ぜられしを以てその実情を想像するを得べし。(中略)
震災に関し尚参考とすべき事あり、神田区和泉町の一部に於《お》いてその町の周囲の火災に罹《かか》りしに町の大部分無事なるを得たり、これは一に町内の人々の努力に因《よ》る所即ち各戸相団結して消火に全力を尽せし結果なりしと、而《しか》してこれが為神田川に沿うて米の倉庫あり、この倉庫内に貯蔵の米一万俵を下らざるもの無事に存するあり。神田区長のこれを聞知し直ちに市役所に出頭この事を訴えて曰く米の存在を他に知らせば皆これを奪い去らるる恐れあり先ず以てこれを守護するに兵士の幾干《いくばく=どれほど》かを遣わせられたしと云う。尚、曰く今まで差当り二名の兵士ありてこれが警衛を頼み置きたれども極めて危険なりと云《い》う、茲《ここ》に於て市より交渉して十数名の兵士を得て完全に守ることを得たるのみならず非常の助けとなりて暴動の起こらざりしは蓋しこれが為なりと思う。
又一つの話あり、小石川区長の曰く浅草観音寺の本堂は周囲の火災に罹りしに拘《かか》わらず無事なり只《ただ》その無事なるを利用して焼け出されて行き場のない数百名の市民は只食糧の欠乏に堪えずこれが為暴挙の無きを保せず《=暴挙が起らないと保障できない》とて幾干《いくばく》かの米を心配せられたしと浅草区長代理書記より小石川区長に申し出でたり。
小石川区長はこれに同情して何俵かの米を得て浅草区長代理書記に渡す、右代理者は(二名程にて)荷車を探し求めて帰途に着く、蓋しその途中神田区内を通過するに当たり神田区民のこれを強奪せんとする者ありて甚だ危険を感ぜしむ事由を話し漸く免るるを得たり、蓋し淺草寺の周囲の人々も助かり暴挙なきを得たるはこれが為なりと。
要するに一時食糧の不足は甚だしき困難を観ず、幸いにして大阪より特に軍艦を利用して多量の米を贈られこれが為最近略々《ほぼ》完成せし月島沖の港に着船し此処より各所に運送す、これが為早くも米の欠乏を免れて却って軍艦より陸上に運ぶの途中には米の山を為すとの評ありたり又その他の野菜類とか副食物の不足は農商務省に於て何かと心配せられてその品を得るや省の吏員をしてこれを安価売らしむるの策を取りたり。
この事は自分の次男の農商務省に勤務せるため一箇所の売り場係を命ぜられて十二.三日勤務せしを以てその事実を知る。
その他全国よりの同情者又は近村よりの救助手伝いを為すあり実に感謝の至りなり。震災の翌日なりしと思う、自分夜の十二時に市役所の庭内にて天幕の下に休み居りし時に近村より十数頭の牛をして荷車を連続的に引率し野菜と他の食料品缶詰等の品を全村挙《こぞ》って蒐集《しゅうしゅう》し見舞いに来たりしとてこれを各方面に分配されたしとの申し出あり、自分は非常にその好意を感じ深くこれを謝す、実にその品数の多きに感じ如何に隣村の人々の親切なる見舞いにてありしかを只々《ただただ》感泣するのみ、夜は深厚なりこれが受領の世話をなして掛員に引き継ぎたり。この所、日々玄米の握り飯を以て暮らすの余儀なきものとす。(中略)
最後に述ぶべきは東京の復興事業なり、罹災直後は一切の規定事業を一時停止し差し向き死の都となりたる焼土の片付け、負傷者の救助、食糧の供給等に全力を注ぎぬ、幸いにして山の手は大部分火災を免れし為親戚《しんせき》知己《ちき》を訪ねて一時の凌《しの》ぎを為す者多し、又市内に何等頼るべき者なき被害民は地方に行く汽車の混雑実に驚くべきものあり、危険を犯して客車貨車を問はずその屋上に乗る者満をなす。実に気の毒に堪えず、自分の家は小石川にあり幸いに火災の難を免れて親戚の人、数名の一時同居するあり、只食料の不充分なるも玄米の一般に廻《まわ》りしは以て飢えを凌《しの》ぐに足る、蓋し日本全国を通して同情の見舞いありまた援助金寄贈あり諸外国よりも夫々《それぞれ》寄付ありて被害者の救助に全きを得たるは以て天助と云うべきか。
殊に帝都《ていと=皇居がある都》の復興については国の補助あり又寄付金あり、既定事業中止の力を借りて道路の拡張、橋梁《きょうりょう=橋》の修復等に甚大《じんだい=極めて大きい》の費用を支出す。市民の被害者に対しては畏《おそ》れ多くも下賜金《かしきん=天皇が下し賜った金子》ありて救助の全き《まったき=なしとげる》を得政府の復興院を設けて夫々の補助をなすあり、数年後完全に復興の目的を達し実に驚くべき市都の状態を現はしたり。畏《かしこ》くもその完成の一般を天覧《てんらん=天皇がご覧になる》の途中日本橋区内の学校に於いて市の関係者は勿論《もちろん》夫々《それぞれ》の功労者に対し親しく拝謁《はいえつ=お目みえ》の栄を賜う、自分もその一人として無限の光栄に感泣す。
尚参考のため一言す。震災のためその被害を免れしもの又一部の助かりし建物等を見るに土蔵、煉瓦《れんが》等造り等は震動によりて破壊するもの多くこれが為に焼失す、鉄筋入りコンクリ-ト建てのものは殆ど無事なりと認めたり、又金庫についてはその大なるものの多くは無事なるを得たるも小なるは然《しか》らず《=そうではない》、些か《いささか》ながら夫々当事者の参考ともならむか《なるであろうか》。
以上
読みにくい所が多いと思いますが祖父が日記などから想い出しながら書きとどめたもので、身内に残したものであるため一部省略させて頂きました。祖父は明治6《1873》年生、昭和25《1950》年郷里の愛媛県松山市にて没す。(享年79才)
(タツマロ 記)
折から横浜市役所の吏員二名の上京して市役所を訪問するり、横浜市内の惨状極めて大なりと、何とか応援に尽力を得たくその依頼に来たりしが既に東京の震災の横浜に劣らざるを思うとて同情の見舞いをなしてそのまま引き取られたり、蓋《けだし=たしかに》東京市長始め関係者、右訪問者の話を聞きて横浜の罹災《りさい=被災》も亦《また》東京に劣らざるを知るを得たり。
即ちこれが為東京横浜間の交通に非常の困難ある事を知る。何《いず》れにしろ役所に居る者は食事の準備を要す、依って玄米の握飯を造りて配布するあり、又市役所の門前に来集する市民多数にて危険を感じ門扉を閉じてこれが取締りをなす。これが為に用事のあるものにも門内に入るを得ず。 (中略)
山の手を除きて下町は殆ど全部を焼かれしと云う、その最も惨なるは本所被服廠跡《ひふくしょうあと》の焼死人の多数なりし事なり、蓋し《けだし》此処《ここ》は家なく広場にてありし為多数の市民は荷物をもちて此処に避難せしため余計に被害をうけしものなり。
(中略)
曰く此処にて死せる人員は三万人に近しと或いは然《しか》らんも《=そうであろうが》その正確を知り難し、この外に浅草吉原の大池にて死せし人も相当多し、蓋し火のため水のある所に入りて逃れんとせしものの多くが水のため却《かえ》って逃げ場を失いしによるが、相当の水死人もあり実に悲惨の極みなりと云うべし。
被服廠跡その他にて被害の多かりし場所は写真に撮りて絵葉書等にしてその幾枚かを販売するものありしが余りに悲惨甚だしきものありて其の筋《関係ある警察や官庁》より販売の停止を命ぜられしを以てその実情を想像するを得べし。(中略)
震災に関し尚参考とすべき事あり、神田区和泉町の一部に於《お》いてその町の周囲の火災に罹《かか》りしに町の大部分無事なるを得たり、これは一に町内の人々の努力に因《よ》る所即ち各戸相団結して消火に全力を尽せし結果なりしと、而《しか》してこれが為神田川に沿うて米の倉庫あり、この倉庫内に貯蔵の米一万俵を下らざるもの無事に存するあり。神田区長のこれを聞知し直ちに市役所に出頭この事を訴えて曰く米の存在を他に知らせば皆これを奪い去らるる恐れあり先ず以てこれを守護するに兵士の幾干《いくばく=どれほど》かを遣わせられたしと云う。尚、曰く今まで差当り二名の兵士ありてこれが警衛を頼み置きたれども極めて危険なりと云《い》う、茲《ここ》に於て市より交渉して十数名の兵士を得て完全に守ることを得たるのみならず非常の助けとなりて暴動の起こらざりしは蓋しこれが為なりと思う。
又一つの話あり、小石川区長の曰く浅草観音寺の本堂は周囲の火災に罹りしに拘《かか》わらず無事なり只《ただ》その無事なるを利用して焼け出されて行き場のない数百名の市民は只食糧の欠乏に堪えずこれが為暴挙の無きを保せず《=暴挙が起らないと保障できない》とて幾干《いくばく》かの米を心配せられたしと浅草区長代理書記より小石川区長に申し出でたり。
小石川区長はこれに同情して何俵かの米を得て浅草区長代理書記に渡す、右代理者は(二名程にて)荷車を探し求めて帰途に着く、蓋しその途中神田区内を通過するに当たり神田区民のこれを強奪せんとする者ありて甚だ危険を感ぜしむ事由を話し漸く免るるを得たり、蓋し淺草寺の周囲の人々も助かり暴挙なきを得たるはこれが為なりと。
要するに一時食糧の不足は甚だしき困難を観ず、幸いにして大阪より特に軍艦を利用して多量の米を贈られこれが為最近略々《ほぼ》完成せし月島沖の港に着船し此処より各所に運送す、これが為早くも米の欠乏を免れて却って軍艦より陸上に運ぶの途中には米の山を為すとの評ありたり又その他の野菜類とか副食物の不足は農商務省に於て何かと心配せられてその品を得るや省の吏員をしてこれを安価売らしむるの策を取りたり。
この事は自分の次男の農商務省に勤務せるため一箇所の売り場係を命ぜられて十二.三日勤務せしを以てその事実を知る。
その他全国よりの同情者又は近村よりの救助手伝いを為すあり実に感謝の至りなり。震災の翌日なりしと思う、自分夜の十二時に市役所の庭内にて天幕の下に休み居りし時に近村より十数頭の牛をして荷車を連続的に引率し野菜と他の食料品缶詰等の品を全村挙《こぞ》って蒐集《しゅうしゅう》し見舞いに来たりしとてこれを各方面に分配されたしとの申し出あり、自分は非常にその好意を感じ深くこれを謝す、実にその品数の多きに感じ如何に隣村の人々の親切なる見舞いにてありしかを只々《ただただ》感泣するのみ、夜は深厚なりこれが受領の世話をなして掛員に引き継ぎたり。この所、日々玄米の握り飯を以て暮らすの余儀なきものとす。(中略)
最後に述ぶべきは東京の復興事業なり、罹災直後は一切の規定事業を一時停止し差し向き死の都となりたる焼土の片付け、負傷者の救助、食糧の供給等に全力を注ぎぬ、幸いにして山の手は大部分火災を免れし為親戚《しんせき》知己《ちき》を訪ねて一時の凌《しの》ぎを為す者多し、又市内に何等頼るべき者なき被害民は地方に行く汽車の混雑実に驚くべきものあり、危険を犯して客車貨車を問はずその屋上に乗る者満をなす。実に気の毒に堪えず、自分の家は小石川にあり幸いに火災の難を免れて親戚の人、数名の一時同居するあり、只食料の不充分なるも玄米の一般に廻《まわ》りしは以て飢えを凌《しの》ぐに足る、蓋し日本全国を通して同情の見舞いありまた援助金寄贈あり諸外国よりも夫々《それぞれ》寄付ありて被害者の救助に全きを得たるは以て天助と云うべきか。
殊に帝都《ていと=皇居がある都》の復興については国の補助あり又寄付金あり、既定事業中止の力を借りて道路の拡張、橋梁《きょうりょう=橋》の修復等に甚大《じんだい=極めて大きい》の費用を支出す。市民の被害者に対しては畏《おそ》れ多くも下賜金《かしきん=天皇が下し賜った金子》ありて救助の全き《まったき=なしとげる》を得政府の復興院を設けて夫々の補助をなすあり、数年後完全に復興の目的を達し実に驚くべき市都の状態を現はしたり。畏《かしこ》くもその完成の一般を天覧《てんらん=天皇がご覧になる》の途中日本橋区内の学校に於いて市の関係者は勿論《もちろん》夫々《それぞれ》の功労者に対し親しく拝謁《はいえつ=お目みえ》の栄を賜う、自分もその一人として無限の光栄に感泣す。
尚参考のため一言す。震災のためその被害を免れしもの又一部の助かりし建物等を見るに土蔵、煉瓦《れんが》等造り等は震動によりて破壊するもの多くこれが為に焼失す、鉄筋入りコンクリ-ト建てのものは殆ど無事なりと認めたり、又金庫についてはその大なるものの多くは無事なるを得たるも小なるは然《しか》らず《=そうではない》、些か《いささか》ながら夫々当事者の参考ともならむか《なるであろうか》。
以上
読みにくい所が多いと思いますが祖父が日記などから想い出しながら書きとどめたもので、身内に残したものであるため一部省略させて頂きました。祖父は明治6《1873》年生、昭和25《1950》年郷里の愛媛県松山市にて没す。(享年79才)
(タツマロ 記)