関東大震災その2
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- 関東大震災その2 (タツマロ, 2006/3/27 10:39)
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投稿日時 2006/3/27 10:39
タツマロ
投稿数: 4
これは私の祖父の遺稿から見つけたもので震災当時祖父は東京市《=1943年東京都になる》の収入役をしていました。
当時東京市は丸の内(現国際フオ-ラムのある場所)にあって幸い火災からは逃れたそうである。
以下本文のまま記載させて頂きます。旧いかな遣いで読みにくい所もあるがご容赦下さい。
東京市が未曾有《みぞう=今まで経験した事がない》の大震災に見舞われ悲惨なる状況を現したる点を略記せんとす。
大正十四年九月一日の午前十一時五十九分なりと覚ゆ《おぼゆ=記憶する》、土曜日とて市役所は既に本務を終わり卓上の書類等を片づけし者多かれし時分なり、自分の事務所は1階なるるも当時偶々《たまたま》用事ありて二階の事務室に居りて用件の対談中大震動ありて歩行することも出来ざる有様にて室内の隅々《すみずみ》が破損し如何《いか》にせんか《=しようか》とのありしが動揺の僅《わず》か静まるをねらいて飛び出し自分の部屋に戻る。隣室には安田銀行員の詰所ありて金の計算に夢中なり、而して《しかして=そうして》自分は突差《とっさ》の場合如何なる事の発生するやも計られず僅かながらも自分の金を預けある中より取り敢《あ》えず壱千円《一千円》を引き出し受領したり、計らずもこの僅少《きんしょう=ごくわずか》なる現金も如何に役立ちしかその大体を記して参考に資せん《しせん=役立てよう》とす。
大動揺の後も尚暫く震動の止まず時々我々の心胆を寒からしむるので結局庁舎の外に出る外なしと構内の広き所に天幕《てんまく=テント》を張りて事務を執る事となり夜は椅子《いす》を並べてその上に臥《ふ》する外なし、其処《そこ》で第一に水道部より浄水池に破損の場所あり給水上差支えるとてこれが修復に労働者を集むるに現金を要するとて送金方申し出あり、僅《わず》か千円の金子にては如何《いかん》とも出来ず。然し打ち捨て置くべきにあらずとて右の中より七百円程を分けて渡せり、又一面には仮になり電燈等の不通となるを慮り《おもんばかり=考慮して》ロ-ソクの用意を急務とす。
即ち《すなわち=そこで》僅かの金の内より購入せんとす、但し人夫一人傭《やと》うにも現金ならざれば応ぜず故に吏員《りいん=職員》を派出して出来る限りその蒐集《しゅうしゅう=集めること》に努めたり。
夜に入りて市内各所に火災の起こるあり、水道の利用も不可となりて所謂《いわゆる=俗に言う》焼け次第と云う有様にて自分としては金の入用を思い先ず以て《=第一に》市金庫を為す安田銀行に交渉の必要ありとし一主事をして同銀行に出張せしむ其《そ》の報告に曰く《いわく=言うには》(銀行に行く道は何《いず》れも火事のため交通妨げられて行く難し)と、やむを得ず明朝行く様に命じたり。
その結果は銀行の地下金庫は開扉《かいひ=扉を開ける》は危険なり、約一週間の後にあらざれば開くこと出来ずとの事にやむを得ずとし更に自身、市役所前の三菱銀行に行き市の預金の一部を渡すように要求せし所三菱銀行頭取《とうどり=主席取締役》よりして今回の大震災に対して銀行としての善後策を明日協議する事になり居《お》れば明日午後に来られたしとの返事あり、よりて翌日更に銀行に行きし所特に金十五万円を渡されたり。
これを手本と為し火災を受けざる興業銀行に行き三菱銀行の事を話し預金の引出しを求めしが三菱同様に十五万円を渡されたり、夫《そ》れより間もなく安田銀行より六万円を持参され大いに金の事についての不安なきを得たり。殊に尚一つの現金は市電気局に話して震災当日の乗車賃金を借りたしと局長に申込み其の承諾を得る。約二万円程を極めて小銭にて融通を受けたり、この小銭の計算には一方《ひとかた=ひと通り》ならざる面倒ありし為電気局にて記入したる金高に間違いなしと仮定したる状態なり、尚又自分は内務省に行きて時の会計課長に対して予め《あらかじめ》差支えある場合の援助等頼み万全を期し置きたる次第なり。
さて市役所内より市内の有様を見るに各方面に火の手挙がり居り防火の方法もなくその焼かるるにまかすより外なしと、一層市役所近傍《きんぼう=近辺》に対し警戒を厳にしたり、自分の課には大なる数個の金庫ありこれは先ず無事なるべしとするも簿記帳とか、その他大切を要する書類は、これを外部に引き出さざるを得ずと二・三の課と共同で一台の自動車を雇《やと》いその中に書類を多数積み込みてイザという場合に宮城前の広場に避難すべく準備し置きたり。
夜に入りて庁舎の前は京橋方面の避難民、家具その他を肩にし宮城前広場をさして避難する者にて殆ど《ほとんど》広い路面を埋むる有様なり。されば自分等の計画せし上記非常方法は不可能と相成りしも庁舎は火難を免れたるを以て其等《それら》も亦《また》安全なるを得たり。
この間自分は庁舎の裏面に廻《まわ》りて見るに省線《しょうせん=鉄道省の経営する汽車、電車》高架線の下部にある倉庫に火の入りて順次に延焼しつつありて数人の人々バケツを以てリレ-式に消火しつつあるもその効なく殆ど《ほとんど》その処置に苦しみつつありしが幸いにも兵卒の約二十名列をなして来るるあり、依《よ》って自分は下記の事情を話してこの鉄路の地下より暫時《ざんじ=少しの時で》火の移り来たりてこれを消火せざれば忽ち《たちまち》東京市庁舎の焼かるるの恐れありとて何とか消火の方法に助力ありたしと依頼せし所、兵士の人々これを諒《りょう》として持ち来たりし棒の如きものを打振り打ち振り 軌道下の倉庫の方を破壊しその内部の焼け材料を引き出して容易に火の道をたつことを得て庁舎の危難を免れたり。一面二重橋前の広場は京橋、日本橋、芝等の避難民に依って夫々《それぞれ》の荷物やら寝具等にて一面に満たされたり、中には飲料水に壕《ごう=堀》の水さえ飲むものありとの事なり。
つづく
当時東京市は丸の内(現国際フオ-ラムのある場所)にあって幸い火災からは逃れたそうである。
以下本文のまま記載させて頂きます。旧いかな遣いで読みにくい所もあるがご容赦下さい。
東京市が未曾有《みぞう=今まで経験した事がない》の大震災に見舞われ悲惨なる状況を現したる点を略記せんとす。
大正十四年九月一日の午前十一時五十九分なりと覚ゆ《おぼゆ=記憶する》、土曜日とて市役所は既に本務を終わり卓上の書類等を片づけし者多かれし時分なり、自分の事務所は1階なるるも当時偶々《たまたま》用事ありて二階の事務室に居りて用件の対談中大震動ありて歩行することも出来ざる有様にて室内の隅々《すみずみ》が破損し如何《いか》にせんか《=しようか》とのありしが動揺の僅《わず》か静まるをねらいて飛び出し自分の部屋に戻る。隣室には安田銀行員の詰所ありて金の計算に夢中なり、而して《しかして=そうして》自分は突差《とっさ》の場合如何なる事の発生するやも計られず僅かながらも自分の金を預けある中より取り敢《あ》えず壱千円《一千円》を引き出し受領したり、計らずもこの僅少《きんしょう=ごくわずか》なる現金も如何に役立ちしかその大体を記して参考に資せん《しせん=役立てよう》とす。
大動揺の後も尚暫く震動の止まず時々我々の心胆を寒からしむるので結局庁舎の外に出る外なしと構内の広き所に天幕《てんまく=テント》を張りて事務を執る事となり夜は椅子《いす》を並べてその上に臥《ふ》する外なし、其処《そこ》で第一に水道部より浄水池に破損の場所あり給水上差支えるとてこれが修復に労働者を集むるに現金を要するとて送金方申し出あり、僅《わず》か千円の金子にては如何《いかん》とも出来ず。然し打ち捨て置くべきにあらずとて右の中より七百円程を分けて渡せり、又一面には仮になり電燈等の不通となるを慮り《おもんばかり=考慮して》ロ-ソクの用意を急務とす。
即ち《すなわち=そこで》僅かの金の内より購入せんとす、但し人夫一人傭《やと》うにも現金ならざれば応ぜず故に吏員《りいん=職員》を派出して出来る限りその蒐集《しゅうしゅう=集めること》に努めたり。
夜に入りて市内各所に火災の起こるあり、水道の利用も不可となりて所謂《いわゆる=俗に言う》焼け次第と云う有様にて自分としては金の入用を思い先ず以て《=第一に》市金庫を為す安田銀行に交渉の必要ありとし一主事をして同銀行に出張せしむ其《そ》の報告に曰く《いわく=言うには》(銀行に行く道は何《いず》れも火事のため交通妨げられて行く難し)と、やむを得ず明朝行く様に命じたり。
その結果は銀行の地下金庫は開扉《かいひ=扉を開ける》は危険なり、約一週間の後にあらざれば開くこと出来ずとの事にやむを得ずとし更に自身、市役所前の三菱銀行に行き市の預金の一部を渡すように要求せし所三菱銀行頭取《とうどり=主席取締役》よりして今回の大震災に対して銀行としての善後策を明日協議する事になり居《お》れば明日午後に来られたしとの返事あり、よりて翌日更に銀行に行きし所特に金十五万円を渡されたり。
これを手本と為し火災を受けざる興業銀行に行き三菱銀行の事を話し預金の引出しを求めしが三菱同様に十五万円を渡されたり、夫《そ》れより間もなく安田銀行より六万円を持参され大いに金の事についての不安なきを得たり。殊に尚一つの現金は市電気局に話して震災当日の乗車賃金を借りたしと局長に申込み其の承諾を得る。約二万円程を極めて小銭にて融通を受けたり、この小銭の計算には一方《ひとかた=ひと通り》ならざる面倒ありし為電気局にて記入したる金高に間違いなしと仮定したる状態なり、尚又自分は内務省に行きて時の会計課長に対して予め《あらかじめ》差支えある場合の援助等頼み万全を期し置きたる次第なり。
さて市役所内より市内の有様を見るに各方面に火の手挙がり居り防火の方法もなくその焼かるるにまかすより外なしと、一層市役所近傍《きんぼう=近辺》に対し警戒を厳にしたり、自分の課には大なる数個の金庫ありこれは先ず無事なるべしとするも簿記帳とか、その他大切を要する書類は、これを外部に引き出さざるを得ずと二・三の課と共同で一台の自動車を雇《やと》いその中に書類を多数積み込みてイザという場合に宮城前の広場に避難すべく準備し置きたり。
夜に入りて庁舎の前は京橋方面の避難民、家具その他を肩にし宮城前広場をさして避難する者にて殆ど《ほとんど》広い路面を埋むる有様なり。されば自分等の計画せし上記非常方法は不可能と相成りしも庁舎は火難を免れたるを以て其等《それら》も亦《また》安全なるを得たり。
この間自分は庁舎の裏面に廻《まわ》りて見るに省線《しょうせん=鉄道省の経営する汽車、電車》高架線の下部にある倉庫に火の入りて順次に延焼しつつありて数人の人々バケツを以てリレ-式に消火しつつあるもその効なく殆ど《ほとんど》その処置に苦しみつつありしが幸いにも兵卒の約二十名列をなして来るるあり、依《よ》って自分は下記の事情を話してこの鉄路の地下より暫時《ざんじ=少しの時で》火の移り来たりてこれを消火せざれば忽ち《たちまち》東京市庁舎の焼かるるの恐れありとて何とか消火の方法に助力ありたしと依頼せし所、兵士の人々これを諒《りょう》として持ち来たりし棒の如きものを打振り打ち振り 軌道下の倉庫の方を破壊しその内部の焼け材料を引き出して容易に火の道をたつことを得て庁舎の危難を免れたり。一面二重橋前の広場は京橋、日本橋、芝等の避難民に依って夫々《それぞれ》の荷物やら寝具等にて一面に満たされたり、中には飲料水に壕《ごう=堀》の水さえ飲むものありとの事なり。
つづく
タツマロ
投稿数: 4
夜に入りて火災の拡がり甚だしきを見る、市役所の吏員は自宅方面に火災ありと見るや先ず以てその実否を調べて安全と見るや更に役所に戻るも、その災害を受けし者又は危険に至る者は役所へ戻るの余裕なくて命がけに家族と共に逃げ去る始末なり、これが為少数の吏員にて種々の事を為し善後策等についての相談もあり徹夜してこれを守るの他なしと心配す。
折から横浜市役所の吏員二名の上京して市役所を訪問するり、横浜市内の惨状極めて大なりと、何とか応援に尽力を得たくその依頼に来たりしが既に東京の震災の横浜に劣らざるを思うとて同情の見舞いをなしてそのまま引き取られたり、蓋《けだし=たしかに》東京市長始め関係者、右訪問者の話を聞きて横浜の罹災《りさい=被災》も亦《また》東京に劣らざるを知るを得たり。
即ちこれが為東京横浜間の交通に非常の困難ある事を知る。何《いず》れにしろ役所に居る者は食事の準備を要す、依って玄米の握飯を造りて配布するあり、又市役所の門前に来集する市民多数にて危険を感じ門扉を閉じてこれが取締りをなす。これが為に用事のあるものにも門内に入るを得ず。 (中略)
山の手を除きて下町は殆ど全部を焼かれしと云う、その最も惨なるは本所被服廠跡《ひふくしょうあと》の焼死人の多数なりし事なり、蓋し《けだし》此処《ここ》は家なく広場にてありし為多数の市民は荷物をもちて此処に避難せしため余計に被害をうけしものなり。
(中略)
曰く此処にて死せる人員は三万人に近しと或いは然《しか》らんも《=そうであろうが》その正確を知り難し、この外に浅草吉原の大池にて死せし人も相当多し、蓋し火のため水のある所に入りて逃れんとせしものの多くが水のため却《かえ》って逃げ場を失いしによるが、相当の水死人もあり実に悲惨の極みなりと云うべし。
被服廠跡その他にて被害の多かりし場所は写真に撮りて絵葉書等にしてその幾枚かを販売するものありしが余りに悲惨甚だしきものありて其の筋《関係ある警察や官庁》より販売の停止を命ぜられしを以てその実情を想像するを得べし。(中略)
震災に関し尚参考とすべき事あり、神田区和泉町の一部に於《お》いてその町の周囲の火災に罹《かか》りしに町の大部分無事なるを得たり、これは一に町内の人々の努力に因《よ》る所即ち各戸相団結して消火に全力を尽せし結果なりしと、而《しか》してこれが為神田川に沿うて米の倉庫あり、この倉庫内に貯蔵の米一万俵を下らざるもの無事に存するあり。神田区長のこれを聞知し直ちに市役所に出頭この事を訴えて曰く米の存在を他に知らせば皆これを奪い去らるる恐れあり先ず以てこれを守護するに兵士の幾干《いくばく=どれほど》かを遣わせられたしと云う。尚、曰く今まで差当り二名の兵士ありてこれが警衛を頼み置きたれども極めて危険なりと云《い》う、茲《ここ》に於て市より交渉して十数名の兵士を得て完全に守ることを得たるのみならず非常の助けとなりて暴動の起こらざりしは蓋しこれが為なりと思う。
又一つの話あり、小石川区長の曰く浅草観音寺の本堂は周囲の火災に罹りしに拘《かか》わらず無事なり只《ただ》その無事なるを利用して焼け出されて行き場のない数百名の市民は只食糧の欠乏に堪えずこれが為暴挙の無きを保せず《=暴挙が起らないと保障できない》とて幾干《いくばく》かの米を心配せられたしと浅草区長代理書記より小石川区長に申し出でたり。
小石川区長はこれに同情して何俵かの米を得て浅草区長代理書記に渡す、右代理者は(二名程にて)荷車を探し求めて帰途に着く、蓋しその途中神田区内を通過するに当たり神田区民のこれを強奪せんとする者ありて甚だ危険を感ぜしむ事由を話し漸く免るるを得たり、蓋し淺草寺の周囲の人々も助かり暴挙なきを得たるはこれが為なりと。
要するに一時食糧の不足は甚だしき困難を観ず、幸いにして大阪より特に軍艦を利用して多量の米を贈られこれが為最近略々《ほぼ》完成せし月島沖の港に着船し此処より各所に運送す、これが為早くも米の欠乏を免れて却って軍艦より陸上に運ぶの途中には米の山を為すとの評ありたり又その他の野菜類とか副食物の不足は農商務省に於て何かと心配せられてその品を得るや省の吏員をしてこれを安価売らしむるの策を取りたり。
この事は自分の次男の農商務省に勤務せるため一箇所の売り場係を命ぜられて十二.三日勤務せしを以てその事実を知る。
その他全国よりの同情者又は近村よりの救助手伝いを為すあり実に感謝の至りなり。震災の翌日なりしと思う、自分夜の十二時に市役所の庭内にて天幕の下に休み居りし時に近村より十数頭の牛をして荷車を連続的に引率し野菜と他の食料品缶詰等の品を全村挙《こぞ》って蒐集《しゅうしゅう》し見舞いに来たりしとてこれを各方面に分配されたしとの申し出あり、自分は非常にその好意を感じ深くこれを謝す、実にその品数の多きに感じ如何に隣村の人々の親切なる見舞いにてありしかを只々《ただただ》感泣するのみ、夜は深厚なりこれが受領の世話をなして掛員に引き継ぎたり。この所、日々玄米の握り飯を以て暮らすの余儀なきものとす。(中略)
最後に述ぶべきは東京の復興事業なり、罹災直後は一切の規定事業を一時停止し差し向き死の都となりたる焼土の片付け、負傷者の救助、食糧の供給等に全力を注ぎぬ、幸いにして山の手は大部分火災を免れし為親戚《しんせき》知己《ちき》を訪ねて一時の凌《しの》ぎを為す者多し、又市内に何等頼るべき者なき被害民は地方に行く汽車の混雑実に驚くべきものあり、危険を犯して客車貨車を問はずその屋上に乗る者満をなす。実に気の毒に堪えず、自分の家は小石川にあり幸いに火災の難を免れて親戚の人、数名の一時同居するあり、只食料の不充分なるも玄米の一般に廻《まわ》りしは以て飢えを凌《しの》ぐに足る、蓋し日本全国を通して同情の見舞いありまた援助金寄贈あり諸外国よりも夫々《それぞれ》寄付ありて被害者の救助に全きを得たるは以て天助と云うべきか。
殊に帝都《ていと=皇居がある都》の復興については国の補助あり又寄付金あり、既定事業中止の力を借りて道路の拡張、橋梁《きょうりょう=橋》の修復等に甚大《じんだい=極めて大きい》の費用を支出す。市民の被害者に対しては畏《おそ》れ多くも下賜金《かしきん=天皇が下し賜った金子》ありて救助の全き《まったき=なしとげる》を得政府の復興院を設けて夫々の補助をなすあり、数年後完全に復興の目的を達し実に驚くべき市都の状態を現はしたり。畏《かしこ》くもその完成の一般を天覧《てんらん=天皇がご覧になる》の途中日本橋区内の学校に於いて市の関係者は勿論《もちろん》夫々《それぞれ》の功労者に対し親しく拝謁《はいえつ=お目みえ》の栄を賜う、自分もその一人として無限の光栄に感泣す。
尚参考のため一言す。震災のためその被害を免れしもの又一部の助かりし建物等を見るに土蔵、煉瓦《れんが》等造り等は震動によりて破壊するもの多くこれが為に焼失す、鉄筋入りコンクリ-ト建てのものは殆ど無事なりと認めたり、又金庫についてはその大なるものの多くは無事なるを得たるも小なるは然《しか》らず《=そうではない》、些か《いささか》ながら夫々当事者の参考ともならむか《なるであろうか》。
以上
読みにくい所が多いと思いますが祖父が日記などから想い出しながら書きとどめたもので、身内に残したものであるため一部省略させて頂きました。祖父は明治6《1873》年生、昭和25《1950》年郷里の愛媛県松山市にて没す。(享年79才)
(タツマロ 記)
折から横浜市役所の吏員二名の上京して市役所を訪問するり、横浜市内の惨状極めて大なりと、何とか応援に尽力を得たくその依頼に来たりしが既に東京の震災の横浜に劣らざるを思うとて同情の見舞いをなしてそのまま引き取られたり、蓋《けだし=たしかに》東京市長始め関係者、右訪問者の話を聞きて横浜の罹災《りさい=被災》も亦《また》東京に劣らざるを知るを得たり。
即ちこれが為東京横浜間の交通に非常の困難ある事を知る。何《いず》れにしろ役所に居る者は食事の準備を要す、依って玄米の握飯を造りて配布するあり、又市役所の門前に来集する市民多数にて危険を感じ門扉を閉じてこれが取締りをなす。これが為に用事のあるものにも門内に入るを得ず。 (中略)
山の手を除きて下町は殆ど全部を焼かれしと云う、その最も惨なるは本所被服廠跡《ひふくしょうあと》の焼死人の多数なりし事なり、蓋し《けだし》此処《ここ》は家なく広場にてありし為多数の市民は荷物をもちて此処に避難せしため余計に被害をうけしものなり。
(中略)
曰く此処にて死せる人員は三万人に近しと或いは然《しか》らんも《=そうであろうが》その正確を知り難し、この外に浅草吉原の大池にて死せし人も相当多し、蓋し火のため水のある所に入りて逃れんとせしものの多くが水のため却《かえ》って逃げ場を失いしによるが、相当の水死人もあり実に悲惨の極みなりと云うべし。
被服廠跡その他にて被害の多かりし場所は写真に撮りて絵葉書等にしてその幾枚かを販売するものありしが余りに悲惨甚だしきものありて其の筋《関係ある警察や官庁》より販売の停止を命ぜられしを以てその実情を想像するを得べし。(中略)
震災に関し尚参考とすべき事あり、神田区和泉町の一部に於《お》いてその町の周囲の火災に罹《かか》りしに町の大部分無事なるを得たり、これは一に町内の人々の努力に因《よ》る所即ち各戸相団結して消火に全力を尽せし結果なりしと、而《しか》してこれが為神田川に沿うて米の倉庫あり、この倉庫内に貯蔵の米一万俵を下らざるもの無事に存するあり。神田区長のこれを聞知し直ちに市役所に出頭この事を訴えて曰く米の存在を他に知らせば皆これを奪い去らるる恐れあり先ず以てこれを守護するに兵士の幾干《いくばく=どれほど》かを遣わせられたしと云う。尚、曰く今まで差当り二名の兵士ありてこれが警衛を頼み置きたれども極めて危険なりと云《い》う、茲《ここ》に於て市より交渉して十数名の兵士を得て完全に守ることを得たるのみならず非常の助けとなりて暴動の起こらざりしは蓋しこれが為なりと思う。
又一つの話あり、小石川区長の曰く浅草観音寺の本堂は周囲の火災に罹りしに拘《かか》わらず無事なり只《ただ》その無事なるを利用して焼け出されて行き場のない数百名の市民は只食糧の欠乏に堪えずこれが為暴挙の無きを保せず《=暴挙が起らないと保障できない》とて幾干《いくばく》かの米を心配せられたしと浅草区長代理書記より小石川区長に申し出でたり。
小石川区長はこれに同情して何俵かの米を得て浅草区長代理書記に渡す、右代理者は(二名程にて)荷車を探し求めて帰途に着く、蓋しその途中神田区内を通過するに当たり神田区民のこれを強奪せんとする者ありて甚だ危険を感ぜしむ事由を話し漸く免るるを得たり、蓋し淺草寺の周囲の人々も助かり暴挙なきを得たるはこれが為なりと。
要するに一時食糧の不足は甚だしき困難を観ず、幸いにして大阪より特に軍艦を利用して多量の米を贈られこれが為最近略々《ほぼ》完成せし月島沖の港に着船し此処より各所に運送す、これが為早くも米の欠乏を免れて却って軍艦より陸上に運ぶの途中には米の山を為すとの評ありたり又その他の野菜類とか副食物の不足は農商務省に於て何かと心配せられてその品を得るや省の吏員をしてこれを安価売らしむるの策を取りたり。
この事は自分の次男の農商務省に勤務せるため一箇所の売り場係を命ぜられて十二.三日勤務せしを以てその事実を知る。
その他全国よりの同情者又は近村よりの救助手伝いを為すあり実に感謝の至りなり。震災の翌日なりしと思う、自分夜の十二時に市役所の庭内にて天幕の下に休み居りし時に近村より十数頭の牛をして荷車を連続的に引率し野菜と他の食料品缶詰等の品を全村挙《こぞ》って蒐集《しゅうしゅう》し見舞いに来たりしとてこれを各方面に分配されたしとの申し出あり、自分は非常にその好意を感じ深くこれを謝す、実にその品数の多きに感じ如何に隣村の人々の親切なる見舞いにてありしかを只々《ただただ》感泣するのみ、夜は深厚なりこれが受領の世話をなして掛員に引き継ぎたり。この所、日々玄米の握り飯を以て暮らすの余儀なきものとす。(中略)
最後に述ぶべきは東京の復興事業なり、罹災直後は一切の規定事業を一時停止し差し向き死の都となりたる焼土の片付け、負傷者の救助、食糧の供給等に全力を注ぎぬ、幸いにして山の手は大部分火災を免れし為親戚《しんせき》知己《ちき》を訪ねて一時の凌《しの》ぎを為す者多し、又市内に何等頼るべき者なき被害民は地方に行く汽車の混雑実に驚くべきものあり、危険を犯して客車貨車を問はずその屋上に乗る者満をなす。実に気の毒に堪えず、自分の家は小石川にあり幸いに火災の難を免れて親戚の人、数名の一時同居するあり、只食料の不充分なるも玄米の一般に廻《まわ》りしは以て飢えを凌《しの》ぐに足る、蓋し日本全国を通して同情の見舞いありまた援助金寄贈あり諸外国よりも夫々《それぞれ》寄付ありて被害者の救助に全きを得たるは以て天助と云うべきか。
殊に帝都《ていと=皇居がある都》の復興については国の補助あり又寄付金あり、既定事業中止の力を借りて道路の拡張、橋梁《きょうりょう=橋》の修復等に甚大《じんだい=極めて大きい》の費用を支出す。市民の被害者に対しては畏《おそ》れ多くも下賜金《かしきん=天皇が下し賜った金子》ありて救助の全き《まったき=なしとげる》を得政府の復興院を設けて夫々の補助をなすあり、数年後完全に復興の目的を達し実に驚くべき市都の状態を現はしたり。畏《かしこ》くもその完成の一般を天覧《てんらん=天皇がご覧になる》の途中日本橋区内の学校に於いて市の関係者は勿論《もちろん》夫々《それぞれ》の功労者に対し親しく拝謁《はいえつ=お目みえ》の栄を賜う、自分もその一人として無限の光栄に感泣す。
尚参考のため一言す。震災のためその被害を免れしもの又一部の助かりし建物等を見るに土蔵、煉瓦《れんが》等造り等は震動によりて破壊するもの多くこれが為に焼失す、鉄筋入りコンクリ-ト建てのものは殆ど無事なりと認めたり、又金庫についてはその大なるものの多くは無事なるを得たるも小なるは然《しか》らず《=そうではない》、些か《いささか》ながら夫々当事者の参考ともならむか《なるであろうか》。
以上
読みにくい所が多いと思いますが祖父が日記などから想い出しながら書きとどめたもので、身内に残したものであるため一部省略させて頂きました。祖父は明治6《1873》年生、昭和25《1950》年郷里の愛媛県松山市にて没す。(享年79才)
(タツマロ 記)