食糧難時代 (3) (不虻) その2
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食糧難時代 (3) (不虻) その1 (編集者, 2007/4/2 8:03)
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食糧難時代 (3) (不虻) その2 (編集者, 2007/4/3 7:59)
- 食糧難時代 (3) (不虻) その2 (編集者, 2007/4/4 7:50)
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食糧難時代 (3) (不虻) その2 (編集者, 2007/4/3 7:59)
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終戦当時のM高校生の食事内容 97/07/23 15:28
今回は、最近届いた母校の同窓会報最近号に「終戦当時の高校生の食事内容」が発表されていたので、著者の御了解を得てその一部を紹介してみます。
昭和20年8月1日~14日までの某工場に動員されていた高校生(17~21才)の献立表です。
主食は1日330㌘(米240㌘,大豆90㌘)
8月1日 朝飯(みそ汁の内容) わかめ
昼食 みそづけ
夕食 ひじき飯、漬け菜
2日 朝飯(〃) キャベツ
昼食 みそづけ
夕食 乾燥野菜の煮付け
3日 朝飯 わかめ
昼食 みそづけ
夕食 キュウリもみ、薬(わかふらぴん)
以下は省略しますが大体こんなものです。他の多少の副食物を適宜に推定してエネルギーを計算すると3日は1300カロリー。動物性の食品は2週間のうち1回鰊《にしん》が登場しただけとのことでした。
当時の一般の労働者には飢餓と超国家主義的《=極端に国家をすべてに優先する》圧力とが日毎に募り、ほとんどの人が良心も勤労意欲も喪失し、気力なき生活に陥っていたとこの著者(某栄養短大教授)は書いています。
海軍時代のみっともない思い出 97/07/25 13:12
みなさん こんにちは。
食糧難の思い出と言えば、私たちの年配ではどうしても戦争と軍隊の想い出話になってしまいます。こんなお話をするのもどうかと思いましたが、もう仲間の生き残りもどんどん少なくなっていますので、………若い方には興味無いかも知れませんが、話して置きたくなりました。
昭和18年9月、私達は大学を2年半で無理矢理に追い出され、陸、海いずれかの軍役に就きましたが、私は海軍を選び、海軍経理学校に入りました。同期生が7百余名の大所帯ですから、築地の本校には入れず、品川に急遽《=あわたたしく急いで》新設したバラック《=粗末な家屋》作りの分校に居住していました。
ここでの話です。外出時に姉の家から貰ってきた蜜柑を下のベッドの戦友と分け合い、毛布の下でこっそり食べたのですが、蜜柑の皮が惜しくて捨てられず、丸かじりにして食べたことが強く印象に残っています。学校といえども軍隊ですから、多少は食料の量も多かったと思うのですが、それでも空腹感は酷《ひど》かったのですね。
またカッター《注1》の遠漕訓練の日、昭和19年1月19日のことでした。内火艇《注2》に指揮官や教官が乗り、我々は18隻のカッターに分乗して品川を出発、一路南へ南へと漕ぎ上げて行きました。隊列は水雷戦隊並列単縦陣、快晴に恵まれ、波もなく、満点のカッター気分でした。総指揮内火艇からは「陣形見事ナリ」の手旗信号も送られて来たりしました。
2時間後、羽田飛行場付近に上陸、穴守稲荷神社付近で烹炊《ほうすい=煮たきする》。鹿児島汁《注3》と飯盒《はんごう=注4》で炊き立ての飯に舌鼓を打ち、食後の休憩時間を利用して、みんなで町へ進出。
飲食店で更にカレーライスを食べ、満腹して戻ったのです。しかし、帰ってみてびっくり。留守中に「非常呼集」がかかり、各班とも点々と欠員をおいて整列していました。しまったと思った時はもう遅かったのでした。………それまでの品位と自負が一朝にして食欲に敗れ去ったのでした。勿論大目玉をくい、帰途は波も出て肉体的に苦しく、精神的には更に苦しく悩みながら戻りました。
食糧難というとこんな事も苦々しい、しかし懐かしくもある思い出の一つです。
注1 カッター=ヨットの一種。一本マストで船首の長い小帆船
注2 内火艇=内燃機関(ガソリン機関・ジーセ゜゛ル機関等)によって走る小艇
注3 鹿児島汁=さといも等根菜に鳥手羽肉、にんにく酒味噌で味付けした具たくさん汁
注4 飯盒=野外で煮炊(た)きするための炊飯具。もと日本の軍隊で開発され、今は登山・キャンプなどで使用される
今回は、最近届いた母校の同窓会報最近号に「終戦当時の高校生の食事内容」が発表されていたので、著者の御了解を得てその一部を紹介してみます。
昭和20年8月1日~14日までの某工場に動員されていた高校生(17~21才)の献立表です。
主食は1日330㌘(米240㌘,大豆90㌘)
8月1日 朝飯(みそ汁の内容) わかめ
昼食 みそづけ
夕食 ひじき飯、漬け菜
2日 朝飯(〃) キャベツ
昼食 みそづけ
夕食 乾燥野菜の煮付け
3日 朝飯 わかめ
昼食 みそづけ
夕食 キュウリもみ、薬(わかふらぴん)
以下は省略しますが大体こんなものです。他の多少の副食物を適宜に推定してエネルギーを計算すると3日は1300カロリー。動物性の食品は2週間のうち1回鰊《にしん》が登場しただけとのことでした。
当時の一般の労働者には飢餓と超国家主義的《=極端に国家をすべてに優先する》圧力とが日毎に募り、ほとんどの人が良心も勤労意欲も喪失し、気力なき生活に陥っていたとこの著者(某栄養短大教授)は書いています。
海軍時代のみっともない思い出 97/07/25 13:12
みなさん こんにちは。
食糧難の思い出と言えば、私たちの年配ではどうしても戦争と軍隊の想い出話になってしまいます。こんなお話をするのもどうかと思いましたが、もう仲間の生き残りもどんどん少なくなっていますので、………若い方には興味無いかも知れませんが、話して置きたくなりました。
昭和18年9月、私達は大学を2年半で無理矢理に追い出され、陸、海いずれかの軍役に就きましたが、私は海軍を選び、海軍経理学校に入りました。同期生が7百余名の大所帯ですから、築地の本校には入れず、品川に急遽《=あわたたしく急いで》新設したバラック《=粗末な家屋》作りの分校に居住していました。
ここでの話です。外出時に姉の家から貰ってきた蜜柑を下のベッドの戦友と分け合い、毛布の下でこっそり食べたのですが、蜜柑の皮が惜しくて捨てられず、丸かじりにして食べたことが強く印象に残っています。学校といえども軍隊ですから、多少は食料の量も多かったと思うのですが、それでも空腹感は酷《ひど》かったのですね。
またカッター《注1》の遠漕訓練の日、昭和19年1月19日のことでした。内火艇《注2》に指揮官や教官が乗り、我々は18隻のカッターに分乗して品川を出発、一路南へ南へと漕ぎ上げて行きました。隊列は水雷戦隊並列単縦陣、快晴に恵まれ、波もなく、満点のカッター気分でした。総指揮内火艇からは「陣形見事ナリ」の手旗信号も送られて来たりしました。
2時間後、羽田飛行場付近に上陸、穴守稲荷神社付近で烹炊《ほうすい=煮たきする》。鹿児島汁《注3》と飯盒《はんごう=注4》で炊き立ての飯に舌鼓を打ち、食後の休憩時間を利用して、みんなで町へ進出。
飲食店で更にカレーライスを食べ、満腹して戻ったのです。しかし、帰ってみてびっくり。留守中に「非常呼集」がかかり、各班とも点々と欠員をおいて整列していました。しまったと思った時はもう遅かったのでした。………それまでの品位と自負が一朝にして食欲に敗れ去ったのでした。勿論大目玉をくい、帰途は波も出て肉体的に苦しく、精神的には更に苦しく悩みながら戻りました。
食糧難というとこんな事も苦々しい、しかし懐かしくもある思い出の一つです。
注1 カッター=ヨットの一種。一本マストで船首の長い小帆船
注2 内火艇=内燃機関(ガソリン機関・ジーセ゜゛ル機関等)によって走る小艇
注3 鹿児島汁=さといも等根菜に鳥手羽肉、にんにく酒味噌で味付けした具たくさん汁
注4 飯盒=野外で煮炊(た)きするための炊飯具。もと日本の軍隊で開発され、今は登山・キャンプなどで使用される
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編集者 (代理投稿)