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食糧難時代 (3) (不虻) その2

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通常 食糧難時代 (3) (不虻) その2

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2
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/4/4 7:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 終戦後の闇市のことなど 97/08/07 09:27

 昭和20年、終戦になってから日本の食糧難は一段と悪化したように思います。一つには昭和20年の米作が40年ぶりの大凶作で、米が前年より40%も少ない3290万石しか収穫できず、また外地にいた数百万の日本人が帰還し始めたことにあります。昭和21年2月には「一千万人餓死説」流れ始めました。食糧難にからんだ殺人事件や強盗事件が続発しました。米よこせ運動が起こり、遂に米よこせデモ隊が宮中にまで押し入ったりしました。

 私は、20年の12月から目黒の友人の家に転がり込んで、虎ノ門にある元の職場へ復帰しましたが、ともかく凄い時代でした。目黒から新橋までの省線電車(今のJRのこと)は窓ガラスなど殆《ほとん》どなく、ぎゅうぎゅう詰め。新橋駅前から虎ノ門にかけての闇市。配給ではそんな物は絶対にないのに、イカの姿煮などがいい匂いをさせて売っていました。特に夕方の帰りには思わず生唾が出る程でしたが、それが10円………当時の私の月給が150円の頃です。(日記には自嘲《じちょう》的にラッキーストライクわずか4箱分の月給と書いてありました)10円はまさに高根の花でした。 

 東京地方裁判所で食糧のヤミ売買関係を担当していた山口さんという裁判官がヤミを一切拒否して餓死したのは昭和22年10月のことで、この話は余りにも有名なので聞いたことはあると思いますが、もっと前、昭和20年10月に、東京高等学校のドイツ語教授、亀尾さん御夫妻がヤミ価格に追いつけずに相次いで、栄養失調で亡くなっています。配給のみでは必要最低カロリーの半分(1200カロリー)しか賄《まかな》えなかったとのことです。そんな状況ですから、1千万人とは言いませんが多くの方が栄養失調で倒れたと思います。

 当時の日本人を餓死から救ったのは、何処からともなく出てくるヤミ物資とララ物資《注1》というアジア救済連盟からの救援物資とガリオア資金《注2》による食糧援助だったのです。あの頃国民学校で給食を食べた人はララ物資を食べていたのです。

 なんだか嫌に堅い話になってしまい、ご免なさい。

 あの頃の想い出話としては、家に帰ってからの日課の一つが虱《しらみ=食われると激しいかゆみがあり、発疹チフス・回帰熱などの感染症を媒介する》取りの話もありますが、食糧問題とはかけ離れますので止めます。ともかく酷い時代でした。

注1 ララ物資=ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体の提供していた日本向けの援助物資のこと。

注2 ガリオア資金=アメリカによる占領地域救済政府資金のこと。

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編集者 (代理投稿)

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