佐賀-撫順-哈爾浜シベリヤー佐賀-関西
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佐賀-撫順-哈爾浜シベリヤー佐賀-関西 (あんみつ姫, 2008/2/3 19:40)
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投稿日時 2008/2/3 19:40
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された高取 保夫氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
七十代も後半というところで、記憶をたどって越し方《過ぎ去った日々》をふり返ってみた。
一、誕生
私は佐賀平野の一角の小集落の、五男一女の末っ子に生まれた。
生後四ケ月で、父が亡くなる。長姉が十四歳だった。母の苦労を思うと、今も胸が痛む。片親のせいか、負けず嫌いの餓鬼大将で通した。
昭和五年に久留米の聯隊から除隊した長兄は、その足で従姉妹を頼って渡満、高等科を出た四兄も後を追った。母親が家、屋敷を処分して撫順《ぶじゅん=中国東北部遼寧省南部の街》に来たのは昭和十二年だった。
二、渡満《満州に渡る》して撫順中学へ入る
私は、母親より一足先の昭和九年に、長兄に引き取られる形で、撫順に落ち着いた。鴨緑江を渡った安東駅に長兄が出迎えてくれたのを思い出す。そこで長兄に「お前、来春、撫順中学を受けろ!」と申し渡されたのには仰天した。
私は、中学ヘやってもらえるなど、つゆ思ってもいなかつたのだから。それでも、勉強の甲斐があってか、無事に翌昭和十年に撫中に合格できた。本人の私はもちろんだが、長兄が喜んでくれた。そのごも、この兄には、言葉にも筆にも尽くせぬ世話をかけたし、恩義を感ずることは測り知れない。
三、ラグビーとの出合い
中学生活は、生易しくなかつた。毎日の昼休みと放課後の二回、応援歌の練習で、どつかれ、叩かれどおしだつた。学校へ行くのも嫌になつた。
何とか逃げる法はないかと思案の最中に、体育担当の鳥取先生がラグビー部顧問になつて、全国制覇五ケ年計画をたてられた。そこで一年生から部員募集とあって、応援歌の練習逃れに入ったのが、ラグビーとの半生にわたるかかわりの始まりとなつた。
四、撫中ラグビー部全国連覇
創部四年目の昭和十四一月四日、浜風の強い甲子園南運動場での全国中学校ラグビー大会の決勝戦で、名門秋田工業と対戦して一トライ差で勝利を手にした。このチームの三人が私をはじめ四年生だつたのが、十五年新春の連覇につながる。
そして最終学年の五年に進級して、私がキャプテンに推された。
それこそ汗と脂の丸一年の研鑽の未、昨年と同じ秋田工業との決勝戦のあげく、十一対三で圧勝して連覇の偉業を手にした。
一月十一日、撫順駅頭に優勝旗を飾ると、撫順市長が祝福の辞を述べ、その夜は、市民挙げての提灯行列となつた。私個人としても感激の極みだった。
五、哈爾浜学院へ
昭和十四年十二月、全国大会出場のため大連《中国遼東半島突端の港町》発の日満航路定期船にチーム一行が乗ったところで、同じ神戸へ向かう哈爾浜学院のラグビーチームと一緒になった。大阪・花園ラグビー場での全国高専大会に出る学院チームとのこの出合いこそ、私が学院に入るきっかけとなった″(運)命なりけり″の一日、正確には一夜だったのである。
学院チームは、関谷(泉)忠義さんをキャプテンに田村博孝さんの18期をトップに、19期の清水敏万、庭瀬宗一、布村政雄さんら、20期が細田慶、但野義男、伊藤新太郎、中山正麿、不破守次郎、村上満敏、吉村俊一さんら錚々《そおそお=良く鍛えた鉄の音》たるメンバーがズラリ。壮観だった。
門司に寄港した際、三時間の上陸許可が出たので最寄りの小学校の校庭で学院チームと練習試合をしたのが、学院へ入る機縁となった。
六、盲腸手術
昭和十五年六月のこと。ラグビーの練習を終えて北寮に帰ると寒気で全身が震えだした。同室の作間らから布団二、三枚を借りて重ねても駄目。一睡もできぬまま、赤十字病院に担ぎ込まれた。盲腸と診断されたが、手遅れで腹膜炎の恐れありと直ちに手術。それでも一ヶ月で退院。おかげで、孫呉《中国黒龍江省北東の街》での勤労奉仕《公共の目的の為の労働を無償で行なう》には参加せず仕舞い。
九月には大連で都市対抗戦が開かれ、哈爾浜は大連と対戦となって、メンバーの一人として腹にタオルを何枚も巻いて出るには出たが、試合後に腹の縫い目から手術に使った縫い糸が出てきたのにはギョッ!
若さの故の無茶ぶり、かくの如し!!
七、花園での全国高専大会出場を断念
昭和十七年十一月、大連運動場での旅順《中国遼東半島最南端の港街》高校との全国高専大会全満決勝戦は忘れられない。
十六年夏の関特演《関東軍特別演習》で、20期が出て行ったあとのキャプテンとして部をまとめること一年半。成果が実って優勝旗を手に哈爾浜駅頭に立った時の感激。立石(現川野)、河面、日下(長原)、作間との五人の団結を誇りたい。
なのに結局、花園ラグビー場へ出場できぬまま、未だに痛恨の思いは深いが、昨秋の京都でのラグビーOB会の席上、尾上正男先生の回顧談の中で「満洲国文教部が内地遠征を差し止めたということにしたが、本当は、当時の厳しい戦局から海没《乗船が沈没》など万一の場合を考えて不出場を決断した」と披露された。止むを得ない。
尾上先生の選択に異存はないが、返す返すも無念至極の一事だった。
(つづく)
七十代も後半というところで、記憶をたどって越し方《過ぎ去った日々》をふり返ってみた。
一、誕生
私は佐賀平野の一角の小集落の、五男一女の末っ子に生まれた。
生後四ケ月で、父が亡くなる。長姉が十四歳だった。母の苦労を思うと、今も胸が痛む。片親のせいか、負けず嫌いの餓鬼大将で通した。
昭和五年に久留米の聯隊から除隊した長兄は、その足で従姉妹を頼って渡満、高等科を出た四兄も後を追った。母親が家、屋敷を処分して撫順《ぶじゅん=中国東北部遼寧省南部の街》に来たのは昭和十二年だった。
二、渡満《満州に渡る》して撫順中学へ入る
私は、母親より一足先の昭和九年に、長兄に引き取られる形で、撫順に落ち着いた。鴨緑江を渡った安東駅に長兄が出迎えてくれたのを思い出す。そこで長兄に「お前、来春、撫順中学を受けろ!」と申し渡されたのには仰天した。
私は、中学ヘやってもらえるなど、つゆ思ってもいなかつたのだから。それでも、勉強の甲斐があってか、無事に翌昭和十年に撫中に合格できた。本人の私はもちろんだが、長兄が喜んでくれた。そのごも、この兄には、言葉にも筆にも尽くせぬ世話をかけたし、恩義を感ずることは測り知れない。
三、ラグビーとの出合い
中学生活は、生易しくなかつた。毎日の昼休みと放課後の二回、応援歌の練習で、どつかれ、叩かれどおしだつた。学校へ行くのも嫌になつた。
何とか逃げる法はないかと思案の最中に、体育担当の鳥取先生がラグビー部顧問になつて、全国制覇五ケ年計画をたてられた。そこで一年生から部員募集とあって、応援歌の練習逃れに入ったのが、ラグビーとの半生にわたるかかわりの始まりとなつた。
四、撫中ラグビー部全国連覇
創部四年目の昭和十四一月四日、浜風の強い甲子園南運動場での全国中学校ラグビー大会の決勝戦で、名門秋田工業と対戦して一トライ差で勝利を手にした。このチームの三人が私をはじめ四年生だつたのが、十五年新春の連覇につながる。
そして最終学年の五年に進級して、私がキャプテンに推された。
それこそ汗と脂の丸一年の研鑽の未、昨年と同じ秋田工業との決勝戦のあげく、十一対三で圧勝して連覇の偉業を手にした。
一月十一日、撫順駅頭に優勝旗を飾ると、撫順市長が祝福の辞を述べ、その夜は、市民挙げての提灯行列となつた。私個人としても感激の極みだった。
五、哈爾浜学院へ
昭和十四年十二月、全国大会出場のため大連《中国遼東半島突端の港町》発の日満航路定期船にチーム一行が乗ったところで、同じ神戸へ向かう哈爾浜学院のラグビーチームと一緒になった。大阪・花園ラグビー場での全国高専大会に出る学院チームとのこの出合いこそ、私が学院に入るきっかけとなった″(運)命なりけり″の一日、正確には一夜だったのである。
学院チームは、関谷(泉)忠義さんをキャプテンに田村博孝さんの18期をトップに、19期の清水敏万、庭瀬宗一、布村政雄さんら、20期が細田慶、但野義男、伊藤新太郎、中山正麿、不破守次郎、村上満敏、吉村俊一さんら錚々《そおそお=良く鍛えた鉄の音》たるメンバーがズラリ。壮観だった。
門司に寄港した際、三時間の上陸許可が出たので最寄りの小学校の校庭で学院チームと練習試合をしたのが、学院へ入る機縁となった。
六、盲腸手術
昭和十五年六月のこと。ラグビーの練習を終えて北寮に帰ると寒気で全身が震えだした。同室の作間らから布団二、三枚を借りて重ねても駄目。一睡もできぬまま、赤十字病院に担ぎ込まれた。盲腸と診断されたが、手遅れで腹膜炎の恐れありと直ちに手術。それでも一ヶ月で退院。おかげで、孫呉《中国黒龍江省北東の街》での勤労奉仕《公共の目的の為の労働を無償で行なう》には参加せず仕舞い。
九月には大連で都市対抗戦が開かれ、哈爾浜は大連と対戦となって、メンバーの一人として腹にタオルを何枚も巻いて出るには出たが、試合後に腹の縫い目から手術に使った縫い糸が出てきたのにはギョッ!
若さの故の無茶ぶり、かくの如し!!
七、花園での全国高専大会出場を断念
昭和十七年十一月、大連運動場での旅順《中国遼東半島最南端の港街》高校との全国高専大会全満決勝戦は忘れられない。
十六年夏の関特演《関東軍特別演習》で、20期が出て行ったあとのキャプテンとして部をまとめること一年半。成果が実って優勝旗を手に哈爾浜駅頭に立った時の感激。立石(現川野)、河面、日下(長原)、作間との五人の団結を誇りたい。
なのに結局、花園ラグビー場へ出場できぬまま、未だに痛恨の思いは深いが、昨秋の京都でのラグビーOB会の席上、尾上正男先生の回顧談の中で「満洲国文教部が内地遠征を差し止めたということにしたが、本当は、当時の厳しい戦局から海没《乗船が沈没》など万一の場合を考えて不出場を決断した」と披露された。止むを得ない。
尾上先生の選択に異存はないが、返す返すも無念至極の一事だった。
(つづく)
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あんみつ姫