Re: 佐賀-撫順-哈爾浜シベリヤー佐賀-関西
投稿ツリー
-
佐賀-撫順-哈爾浜シベリヤー佐賀-関西 (あんみつ姫, 2008/2/3 19:40)
- Re: 佐賀-撫順-哈爾浜シベリヤー佐賀-関西 (あんみつ姫, 2008/2/3 19:44)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
八、徴兵検査《注1》で、憲兵にポカリ!
昭和十人年十一月の繰り上げ卒業を前に、十月には哈爾浜陸軍病院で徴兵検査を受けた。徴兵猶予《注2》 が打ち切られて十二月一日の学徒出陣《注3》への前奏だった。
検査も終わり、検査官から「甲種合格!」《注4》 を申し渡されたのはいいが、寝不足と予想どおりの甲種合格にホッとしたせいか、廊下で他の連中を待つ間に、ついウトウト。それを目にした下士官の憲兵《注5》の一人に「ちょっと来い」と連れて行かれ「貴様、神聖な場所で居眠りするとは何ごとか⊥と怒鳴られたあげく、ビンタを数発くらったのには腹が立つこと。「この野郎」と思った。
そのお返しといえば大仰になるが、昭和二十年二月、見習士官で黒河の部隊に勤務中、雪中行軍で初年兵を引率して黒河の街に行き、一時間余り外出許可を出して解放してやった。
すると二、三十分もしたところで「憲兵の軍曹がえらい権幕でやって来て、部隊の責任者は誰だと言ってます」と下士官が報告してきた。行くと、その憲兵が強い口調で「国境の街で兵隊を外出させては困る」と決めつけてきたので、徴兵検査の際の怨念?をかき立てて「俺が全責任を取る。何を言うか」と怒鳴りつけたら、その憲兵は恐れ入った風情で帰って行った。
九、終戦ー欧霹の収容所-引揚げ
あと先になるが、学徒出陣での入隊は遼陽《中国東北部遼寧省の都市》 の歩兵三一人部隊。早速、特別操縦見習士官《航空機の操縦選科の士官》に応募したが、満洲の学生は駄目とのことでガツカリ。
延吉《中国吉林省延辺朝鮮自治区の都市》の予備士官学校《予備役士官を養成する機関》を昭和十九年十二月に出た時の卒業式に撫順からはるばる母と長兄が来賓として来てくれた。何とも嬉しかった。
南方転出で原隊がなく、孫呉で隣りの部隊に立石(川野)が幹部候補生《将来士官採用予定試験合格者》でいると聞いて面会、煙草をもらって帰る。そのごも国境の部隊を転々として春先から強行軍と野営を繰り返しつつチチハルへ後退。ここでラグビー部長の小谷(玉置)保上等兵と会う。
そして八月九日未明のソ連参戦。ハイラル《中国内モンゴル自治区東北部にある都市》救援とのことで夜半、列車に乗せられ翌朝、着いてビックリ、何と哈爾浜駅だった。ミルエル兵舎に入ったところで終戦。九月に郊外で武装解除。将校は帯刀だけは許される。やがて貨車輸送と行軍とで牡丹江の収容所に。ここで上等兵の幹候の記章をつけた作間に会い、食い物をもらった。将校の体面もあって、あくせく食糧あさりも出来ぬとあって、食べ物に苦労していただけに、とても有難かったことを覚えている。
作業大隊に編成され、ハバロフスク《ロシア沿海州の中枢の都市》から一ケ月後にウラル山脈を越えて欧露の地へ入り、ラーダー収容所に着く。ドイツ人がいた。
一年足らずで、こんどは古都カザンの近くのエラブカに移る。A、Bに分かれ、Aラーゲリには炊事に宇野、浴場に宮田、診療所に城所(水野)、本部に鹿井義輝先輩(8期)と私がいた。ここは四階建ての白亜の立派な建物で、独ソ戦では一時モスクワ大学が避難していたとか。
昭和二十二年に入った頃から輸送が始まり、ナホトカ《ロシア沿海州南端の港湾都市》では、何度か呼び出しを受けて残留を求められたが、断った。十二月に入ってやっと乗船して、日本へ帰れる喜びに震えたが、船中でソ連カブレの若い将校と二、三トラブルになったものの、大事に至らず舞鶴に上陸した。
復員手続は済んだのに、米軍に呼び出されてソ連の事情を聴取されて、佐賀駅に着いたのは師走も押し迫った二十二日だった。その夜は、一足先に引き揚げていた母と兄と焼酎で乾杯したことだった。
すぐに職があるわけでもなく、兄がやっていた八百屋を手伝ったり、薩摩芋の闇売りでやっと食べる始末。思い起こすと、二十三年初め、直方にいた河面を訪ねて歓待を受けた。当時、福岡県で実施していた自転車の反射鏡取り付けの話になり、佐賀の方でもやってみることにした。博多でダイハツの販売会社におられた15期の杉目昇先輩(現同窓会九州支部長、別府在住)を作間に紹介してもらい、現品の佐賀への発送をお願いする。
この反射鏡商売は、兄の八百屋仲間も加わることになり、町村の農協とも組んで日程を決めて取り付けに県下を回った。短期間だったが、かなりの儲けも生んで、兄をはじめ八百屋の人たちに大変喜ばれた。杉目先輩ご夫妻には終始お世話になり、ただ今も深く感謝している。
十、ラグビーが身を助けてくれた
そうこうするうち、毎日新聞記者の紹介で佐賀ラグビー協会に入った。自衛隊や実業団のチームと対戦しながら、佐賀県下の高校のラグビー部の指導をして回って感謝され、佐賀県年鑑に搭載されることになった。
このラグビー部が縁で二十三年五月に杵島炭鉱労務課に入社、ニ十四年三月に結婚した。河面や作間、それに佐賀市内にいた23期の白石栄一君も駆けつけてくれた。三十年には杵島炭鉱にラグビー部を誕生させ、全国の都市対抗にも出場した。
石炭も朝鮮戦争をピークに斜陽産業に転じ、杵島炭鉱も百日ストで荒れ、作間が西日本新聞記者として取材に来たことを思い出す。
やがて経営は住友石炭に代わって合理化が進み、三十五年十一月に住友電工へ移り、同社伊丹製作所人事課勤務となって、初めて関西に転居する。五十六年に住友電工を停年退職、系列会社などを回って六十三年に一切の勤めを終わった。
二男一女を設け、内孫三人、外孫五人。長男夫婦と同居、妻は若干、体が弱い方だが、二人で余生を楽しんでいると云えることを静かに喜んでいるしだいである。
(平成八年師走記)
注1
戦前は兵役が義務であり 入隊する為の身体検査
注2
旧制大学 高等専門学校学生には 卒業までの間徴兵を延期できる法律が あった
注3
昭和18年10月 徴兵猶予の制度が撤廃され 文科系の学生を軍隊に徴兵した
注4
徴兵検査結果を 甲 乙 丙と区分 丙種は兵役不適格者として兵役を免除された
注5
平時では軍隊内部の秩序 規則の維持 戦時は交通整理 捕虜取り扱いの業務を行なう 兵科
昭和十人年十一月の繰り上げ卒業を前に、十月には哈爾浜陸軍病院で徴兵検査を受けた。徴兵猶予《注2》 が打ち切られて十二月一日の学徒出陣《注3》への前奏だった。
検査も終わり、検査官から「甲種合格!」《注4》 を申し渡されたのはいいが、寝不足と予想どおりの甲種合格にホッとしたせいか、廊下で他の連中を待つ間に、ついウトウト。それを目にした下士官の憲兵《注5》の一人に「ちょっと来い」と連れて行かれ「貴様、神聖な場所で居眠りするとは何ごとか⊥と怒鳴られたあげく、ビンタを数発くらったのには腹が立つこと。「この野郎」と思った。
そのお返しといえば大仰になるが、昭和二十年二月、見習士官で黒河の部隊に勤務中、雪中行軍で初年兵を引率して黒河の街に行き、一時間余り外出許可を出して解放してやった。
すると二、三十分もしたところで「憲兵の軍曹がえらい権幕でやって来て、部隊の責任者は誰だと言ってます」と下士官が報告してきた。行くと、その憲兵が強い口調で「国境の街で兵隊を外出させては困る」と決めつけてきたので、徴兵検査の際の怨念?をかき立てて「俺が全責任を取る。何を言うか」と怒鳴りつけたら、その憲兵は恐れ入った風情で帰って行った。
九、終戦ー欧霹の収容所-引揚げ
あと先になるが、学徒出陣での入隊は遼陽《中国東北部遼寧省の都市》 の歩兵三一人部隊。早速、特別操縦見習士官《航空機の操縦選科の士官》に応募したが、満洲の学生は駄目とのことでガツカリ。
延吉《中国吉林省延辺朝鮮自治区の都市》の予備士官学校《予備役士官を養成する機関》を昭和十九年十二月に出た時の卒業式に撫順からはるばる母と長兄が来賓として来てくれた。何とも嬉しかった。
南方転出で原隊がなく、孫呉で隣りの部隊に立石(川野)が幹部候補生《将来士官採用予定試験合格者》でいると聞いて面会、煙草をもらって帰る。そのごも国境の部隊を転々として春先から強行軍と野営を繰り返しつつチチハルへ後退。ここでラグビー部長の小谷(玉置)保上等兵と会う。
そして八月九日未明のソ連参戦。ハイラル《中国内モンゴル自治区東北部にある都市》救援とのことで夜半、列車に乗せられ翌朝、着いてビックリ、何と哈爾浜駅だった。ミルエル兵舎に入ったところで終戦。九月に郊外で武装解除。将校は帯刀だけは許される。やがて貨車輸送と行軍とで牡丹江の収容所に。ここで上等兵の幹候の記章をつけた作間に会い、食い物をもらった。将校の体面もあって、あくせく食糧あさりも出来ぬとあって、食べ物に苦労していただけに、とても有難かったことを覚えている。
作業大隊に編成され、ハバロフスク《ロシア沿海州の中枢の都市》から一ケ月後にウラル山脈を越えて欧露の地へ入り、ラーダー収容所に着く。ドイツ人がいた。
一年足らずで、こんどは古都カザンの近くのエラブカに移る。A、Bに分かれ、Aラーゲリには炊事に宇野、浴場に宮田、診療所に城所(水野)、本部に鹿井義輝先輩(8期)と私がいた。ここは四階建ての白亜の立派な建物で、独ソ戦では一時モスクワ大学が避難していたとか。
昭和二十二年に入った頃から輸送が始まり、ナホトカ《ロシア沿海州南端の港湾都市》では、何度か呼び出しを受けて残留を求められたが、断った。十二月に入ってやっと乗船して、日本へ帰れる喜びに震えたが、船中でソ連カブレの若い将校と二、三トラブルになったものの、大事に至らず舞鶴に上陸した。
復員手続は済んだのに、米軍に呼び出されてソ連の事情を聴取されて、佐賀駅に着いたのは師走も押し迫った二十二日だった。その夜は、一足先に引き揚げていた母と兄と焼酎で乾杯したことだった。
すぐに職があるわけでもなく、兄がやっていた八百屋を手伝ったり、薩摩芋の闇売りでやっと食べる始末。思い起こすと、二十三年初め、直方にいた河面を訪ねて歓待を受けた。当時、福岡県で実施していた自転車の反射鏡取り付けの話になり、佐賀の方でもやってみることにした。博多でダイハツの販売会社におられた15期の杉目昇先輩(現同窓会九州支部長、別府在住)を作間に紹介してもらい、現品の佐賀への発送をお願いする。
この反射鏡商売は、兄の八百屋仲間も加わることになり、町村の農協とも組んで日程を決めて取り付けに県下を回った。短期間だったが、かなりの儲けも生んで、兄をはじめ八百屋の人たちに大変喜ばれた。杉目先輩ご夫妻には終始お世話になり、ただ今も深く感謝している。
十、ラグビーが身を助けてくれた
そうこうするうち、毎日新聞記者の紹介で佐賀ラグビー協会に入った。自衛隊や実業団のチームと対戦しながら、佐賀県下の高校のラグビー部の指導をして回って感謝され、佐賀県年鑑に搭載されることになった。
このラグビー部が縁で二十三年五月に杵島炭鉱労務課に入社、ニ十四年三月に結婚した。河面や作間、それに佐賀市内にいた23期の白石栄一君も駆けつけてくれた。三十年には杵島炭鉱にラグビー部を誕生させ、全国の都市対抗にも出場した。
石炭も朝鮮戦争をピークに斜陽産業に転じ、杵島炭鉱も百日ストで荒れ、作間が西日本新聞記者として取材に来たことを思い出す。
やがて経営は住友石炭に代わって合理化が進み、三十五年十一月に住友電工へ移り、同社伊丹製作所人事課勤務となって、初めて関西に転居する。五十六年に住友電工を停年退職、系列会社などを回って六十三年に一切の勤めを終わった。
二男一女を設け、内孫三人、外孫五人。長男夫婦と同居、妻は若干、体が弱い方だが、二人で余生を楽しんでいると云えることを静かに喜んでいるしだいである。
(平成八年師走記)
注1
戦前は兵役が義務であり 入隊する為の身体検査
注2
旧制大学 高等専門学校学生には 卒業までの間徴兵を延期できる法律が あった
注3
昭和18年10月 徴兵猶予の制度が撤廃され 文科系の学生を軍隊に徴兵した
注4
徴兵検査結果を 甲 乙 丙と区分 丙種は兵役不適格者として兵役を免除された
注5
平時では軍隊内部の秩序 規則の維持 戦時は交通整理 捕虜取り扱いの業務を行なう 兵科
--
あんみつ姫