大戦末期の村松少通校 大口光威
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村松の庭訓を胸に散華した少年たち 大口光威 (編集者, 2012/5/9 8:27)
- 大戦末期の村松少通校 大口光威 (編集者, 2012/5/10 6:35)
- 村松公園に眠る少年兵の碑 大口光威 (編集者, 2012/5/11 8:31)
編集者
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軍都村松の長い歴史を語る中で、その挿尾を飾ったものに村松陸軍少年通信兵学校があります。
現在、その跡には正門と歩哨舎が復元されていますが、昭和十八年末に開校した同校には祖国の急に全国各地から馳せ参じた十一期から十三期までの延べ二四〇〇名の少年達の姿がありました。彼らの年齢は凡そ十四、五歳から十八歳。十五歳だった私も十二期生として、その一人でした。
私は、若し「人格を形成する上で最も影響を受けた時期は何時か」と問われたら、躊躇なく十九年六月から翌年の終戦までを過ごした村松での日々を挙げるだろうと思います。
同校の教育は、高木校長の 「少年兵は純真であれ」 の訓育方針のもと、厳格な中にも慈愛ある軍規が施され、世間知らずの少年達にとっては、まさに人生の修練道場そのものでした。都会育ちの私は、何時も体力面で苦しみましたが、生来の負けず嫌いの本領を発揮して様々のことを学び、やがて一人前の陸軍生徒へと成長していきました。
学校に隣接した練兵場は、愛宕山に向かい広大な草原になって広がっていました。好天の日には、青空をバックに菅名岳や白山がくっきりとした山肌を輝かせていていそんな光景が私にはとても好ましく感じられ、休日など独り練兵場に出て、名も知らぬ草の実を弄びながら、寝転んで空に浮かぶ雲を飽かず眺めて過ごしたりしました。
しかし、こうした思い出も、昭和二十年の中盤に入りますと、急速にその様相を変えていきました。
十一期生の卒業で後を任された私達十二期生は、何時でも卒業(出陣)出来るよう通信技術に最後の磨きをかけると共に、演習の中心を野外に切り替え、塑壕の構築、敵陣への切り込み、爆薬を背負った対戦車攻撃等々、実戦さながらの白兵戦の訓練に取り組みました。
夜を日に継いで愛宕山の中腹に横穴式地下壕の掘削作業が行われたのもこの頃です。聞けば、壕内に通信機材を格納し、来るべき本土決戦に備えるのだとか。また、練兵場の一角には軍用の航空機を発着させる滑走路の建設工事も始まりました。
勿論、私達生徒は厳重な報道管制の下で戦局の詳細など知る由もありませんでしたが、程なく営庭の各所に空襲に備えるタコツボが掘られ、各中隊の天井板の一斉撤去が行われるに至って、私はそのモウモウと舞い落ちる境の山に、歩兵三十連隊以来の軍都の歴史を垣間見た気がしました。
でも、そうこうするうち、野営を兼ねて通信網演習に出かけていた私達の許に、急ぎ帰校の命令が届きました。―――八月十五日。早朝に日枝神社の参拝を済ませ完全軍装で舎前に整列した私達は、正午、ギラギラ夏日が照らす下で、ラジオの玉音放送に、戦いの終わったことを知りました。
校内に衝撃の走るなか、中隊長は「退くも 進むも一つ 大君の 詔勅(みこと) の侭に 吾は揺るがじ」と「承勅必謹」の心境を詠み、やがて私達は、漸く立ち始めた村松の秋風を背に、万感の思いを胸に、夫々の家郷に向かって散って行きました。またその時、皆の懐中にあった区隊長から託された父兄宛ての手紙には、「臥薪嘗胆」「神州不滅」「七生報国」等の言葉に続いて、「今御子息殿の姿は、日夜皆様が想像致せるあの凛々しい軍服姿には無之、襟の星章も腰の剣もなき泡に哀れ淋しき姿には御座候へ共、その輝かしき眼は不屈の闘魂を湛え、その心中には烈々たる日本精神が充溢せられ居候。校門を志空しく去りゆく生徒の後姿を拝み、吾思ひは悲しみと共に涙は尽きず、今謹みて御子息をお返し申上候。然れども、別れに臨み益々忠良なる日本臣民たるべき事と親への孝道を訓へ候。之忠孝一本国家の将来を念じ、せめて生徒達に託する吾微衷に御座候。」と生徒の行く末を気遣う教官の、父親のような心情が切々と綴られており、多くの共感と感動を呼びました…
あれから六十五年、軍事機密とされた十一期生の痛ましい最期も明らかになって、学校跡が望める小高い丘に、八百十二柱を祀る慰霊碑が建立されました。 ―――しかし、昔の事など弊履の如く捨て去る現代の風潮の中で、これらの御霊はどんな思いで、今も村松を見守っているのでしょうか。
注 十一期生の最期の模様については前号に掲載させて頂きました。
(「村松萬菓」 二〇一〇年度版に寄稿)