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村松の庭訓を胸に散華した少年たち 大口光威

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/5/9 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに    スタッフより

 メロウ伝承館には「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」「村松の庭訓を胸に《増補版》」を掲載させていただいておりますが

 ここに掲載させていただきますご投稿は、この村松(新潟県五泉市)で、郷土の誇る文化遺産として、年一回発行されている「村松萬菓」誌に、大口光威様が毎年寄稿しておられるものです。
 なお、転載につきましては大口光威様のご許可を頂いております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これは、先の大戦も終盤に近づいた昭和十九年秋の出来事です。当時、私は十五歳、村松陸軍少年通信兵学校に十二期生として在籍していました。

 十月一日、折しも開校一周年を記念して仲秋の名月を愛でる 「月見の宴」 が催され、学校に隣接した練兵場の芝生の上に沢山の机が持ち込まれると共に、学校長以下全幹部出席のもと、課業を終え体操衣袴をまとった生徒千六百名が整然と居並びました。 
 やがて、宴が進み、軍歌も「山紫に水清き」 から 「月下の陣」に移るに至って、これを境に皆の頬が一様に濡れて行きました。
 「われ、父母や兄弟を思わざるにはあらねども、君に捧げし身にあれば‥」

 自ら志願した途ではありましたが、故郷の家族を思い、来年のこの月を何処の戦場で仰ぐかを想像したとき、誰もが、こみ上げる感情の高ぶりを抑えることが出来なかったのです。

 事実、翌月の五日、十一期生中の三百余名に対して繰上げ卒業が命じられました。しかし、当時、卒業は即出陣を意味していました。十日後、他の兵員と共に三隻の輸送船に分乗して南方に向け門司港を出港した彼等は、待ち構えていた敵潜水艦によって、うち二隻が五島列島沖或いは済州島沖で相次いで撃沈され、その多くが海の藻屑と消え去りました。生き残った者の証言によれば、夜の海中に投げ出された彼等は始めのうちこそ漂流する木片に槌り力一杯軍歌を唄うなど、必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また、ひとり、暗い波間に消えていき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、其処此処に「お母ーさん」の声も聞こえたと言われています。ーーでも、これらの事実は軍事機密として固く秘匿され、私達がこれを知ったのは戦後のことでした。彼等の年齢は十七、八歳、練磨を重ねた技を何一つ試すことなく、その無念さは如何許りだったでしょうか。

 また一方、辛うじて難を免れフィリピンに辿り着いた者もまた、其処に待っていたのは間断ない爆撃と深刻な飢餓やマラリア等の悪疫であり、悪戦苦闘、その多くが彼の地で玉砕し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。

 やがて終戦。これを機に、わが国は戦争の放棄を宣言し、平和国家への道を歩み出し、私達生き残った者による慰霊の行事も始まりました。ー-、学校跡が望める村松公園の小高い丘と遭難地点近くの平戸岬における慰霊碑の建立、春秋の参詣会と三年毎の慰霊祭の開催等々。しかし、これも、その後の関係者の高齢化には逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を最後に公式の行事は幕を閉じ、今では個人単位の慰霊に代わっています。

 ここにおいて、私は昨秋、同期の佐藤嘉道君と共にこれら戦没先輩に捧げる鎮魂の書として 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 を上梓しましたが、この中で私が真に訴えたかったのは、祖国存亡の危機に臨んでの彼等の一途さと純粋さです。彼等は此処・村松に於いて練武砕魂、教授一体の猛訓練を展開し、その庭訓を胸に敢然と巣立って行きました。また同書に海没した漂流物の中から拾い上げた手帖の一節を復元しましたが、そこには、戦友を乗せた僚船が炎に包まれるのを目の辺りにしながら綴った 「礼儀正しく」「向上心を持て」の自省の言葉が残っていました。しかし、こうした心情は現代の人々にどれだけ理解され共感頂けるでしょうか。青春とは無縁に、ひたすら祖国の勝利と繁栄を希って散華した紅顔の少年達……。

 因みに、高木元校長は、戦後慰霊の発端になった村松の 「戦後二十年の集い」に際し、彼等の死を悼み次の献詠を遺しておられます。

 異境に骨を晒す十有余年 鬼巽噺々誰か憐れまざらんや 勇躍かつて上る遠征の旅 無言いま還る故郷の天 靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に 戦争の末路何ぞ悲壮なる 涙は送り胸は迫る英霊の前


 (「村松萬菓」 二〇〇九年度版に寄稿)


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/10 6:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 軍都村松の長い歴史を語る中で、その挿尾を飾ったものに村松陸軍少年通信兵学校があります。
 現在、その跡には正門と歩哨舎が復元されていますが、昭和十八年末に開校した同校には祖国の急に全国各地から馳せ参じた十一期から十三期までの延べ二四〇〇名の少年達の姿がありました。彼らの年齢は凡そ十四、五歳から十八歳。十五歳だった私も十二期生として、その一人でした。
 私は、若し「人格を形成する上で最も影響を受けた時期は何時か」と問われたら、躊躇なく十九年六月から翌年の終戦までを過ごした村松での日々を挙げるだろうと思います。

 同校の教育は、高木校長の 「少年兵は純真であれ」 の訓育方針のもと、厳格な中にも慈愛ある軍規が施され、世間知らずの少年達にとっては、まさに人生の修練道場そのものでした。都会育ちの私は、何時も体力面で苦しみましたが、生来の負けず嫌いの本領を発揮して様々のことを学び、やがて一人前の陸軍生徒へと成長していきました。

 学校に隣接した練兵場は、愛宕山に向かい広大な草原になって広がっていました。好天の日には、青空をバックに菅名岳や白山がくっきりとした山肌を輝かせていていそんな光景が私にはとても好ましく感じられ、休日など独り練兵場に出て、名も知らぬ草の実を弄びながら、寝転んで空に浮かぶ雲を飽かず眺めて過ごしたりしました。

 しかし、こうした思い出も、昭和二十年の中盤に入りますと、急速にその様相を変えていきました。
 十一期生の卒業で後を任された私達十二期生は、何時でも卒業(出陣)出来るよう通信技術に最後の磨きをかけると共に、演習の中心を野外に切り替え、塑壕の構築、敵陣への切り込み、爆薬を背負った対戦車攻撃等々、実戦さながらの白兵戦の訓練に取り組みました。

 夜を日に継いで愛宕山の中腹に横穴式地下壕の掘削作業が行われたのもこの頃です。聞けば、壕内に通信機材を格納し、来るべき本土決戦に備えるのだとか。また、練兵場の一角には軍用の航空機を発着させる滑走路の建設工事も始まりました。

 勿論、私達生徒は厳重な報道管制の下で戦局の詳細など知る由もありませんでしたが、程なく営庭の各所に空襲に備えるタコツボが掘られ、各中隊の天井板の一斉撤去が行われるに至って、私はそのモウモウと舞い落ちる境の山に、歩兵三十連隊以来の軍都の歴史を垣間見た気がしました。

 でも、そうこうするうち、野営を兼ねて通信網演習に出かけていた私達の許に、急ぎ帰校の命令が届きました。―――八月十五日。早朝に日枝神社の参拝を済ませ完全軍装で舎前に整列した私達は、正午、ギラギラ夏日が照らす下で、ラジオの玉音放送に、戦いの終わったことを知りました。

 校内に衝撃の走るなか、中隊長は「退くも 進むも一つ 大君の 詔勅(みこと) の侭に 吾は揺るがじ」と「承勅必謹」の心境を詠み、やがて私達は、漸く立ち始めた村松の秋風を背に、万感の思いを胸に、夫々の家郷に向かって散って行きました。またその時、皆の懐中にあった区隊長から託された父兄宛ての手紙には、「臥薪嘗胆」「神州不滅」「七生報国」等の言葉に続いて、「今御子息殿の姿は、日夜皆様が想像致せるあの凛々しい軍服姿には無之、襟の星章も腰の剣もなき泡に哀れ淋しき姿には御座候へ共、その輝かしき眼は不屈の闘魂を湛え、その心中には烈々たる日本精神が充溢せられ居候。校門を志空しく去りゆく生徒の後姿を拝み、吾思ひは悲しみと共に涙は尽きず、今謹みて御子息をお返し申上候。然れども、別れに臨み益々忠良なる日本臣民たるべき事と親への孝道を訓へ候。之忠孝一本国家の将来を念じ、せめて生徒達に託する吾微衷に御座候。」と生徒の行く末を気遣う教官の、父親のような心情が切々と綴られており、多くの共感と感動を呼びました…

 あれから六十五年、軍事機密とされた十一期生の痛ましい最期も明らかになって、学校跡が望める小高い丘に、八百十二柱を祀る慰霊碑が建立されました。 ―――しかし、昔の事など弊履の如く捨て去る現代の風潮の中で、これらの御霊はどんな思いで、今も村松を見守っているのでしょうか。

 注 十一期生の最期の模様については前号に掲載させて頂きました。

 (「村松萬菓」 二〇一〇年度版に寄稿)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/11 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 村松にお住いの皆様、皆様は村松公園の一隅、小高い丘上に建っている「慰霊碑」と白く墨書された石碑と、その由来をご存知でしょうか。Iこれは、先の太平洋戦争で散華した少年通信兵八百十二柱を祀った慰霊の碑です。其処には、大戦末期当地に招致された村松陸軍少年通信兵学校に学び、その庭訓を胸に勇躍出陣して逝った十一期生の霊も多数含まれています。特に、戦局の緊迫により繰上げ卒業した彼らは、出陣直後、門司から三隻の輸送船に分乗して南方に向かう途中、うち二隻が敵潜水艦の魚雷攻撃によって、相次いで五島列島沖と済州島沖で海没、辛うじて比島に辿り着いた一隻もまた、其処に待っていたのは「生き地獄」にも等しい餓えとマラリアであり、悪戦苦闘、その大半が玉砕し、再びこの村松の地を踏むことはありませんでした。

 純粋に祖国を信じ祖国存亡の危機に臨んで進んで「昭和の白虎隊」 の気概持って国を護ろうとした彼ら---その年齢は十六、七歳から十九歳でした。

 戦後、それまで固く秘匿されてきたこうした事実が明らかにされるにつれ、彼らを悼む声が全国各地から澎湃として湧き上がり、昭和四十五年十月、我々生き残った者の手によってこの慰霊碑が建立されました。以後、慰霊祭は全国から多数のご遺族を迎え三十年間に亘って定期的に続けられましたが、やがて、関係者の高齢化の波に逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を以て幕を閉じ、あとは自主慰霊に切り替わりました。

 しかし一方、戦後六十五年、現在では戦争のことなど、総て忘却の彼方に押しやられ、此処村松でも、秋の季節などに、慰霊碑の背後に映える紅葉の見事さに魅せられて、立ち寄られる姿はあっても、碑の由来を訊ねる方は殆んど見当たらなくなりました。

 また、私自身、これらの戦記や史実を調べていくうち、純粋な少年兵と現実の軍隊との落差の大きさと、更にそれを丸呑みにしてしまう「戦争」という怪物の不気味さを知り、総てに優れていた彼らのこと、果たしてどんな思いを抱いて逝ったのだろうかと、その心中を色々推測するようになっていきました。

 そこで、当時十二期生として在学中だった私は、彼ら先輩の辿った史実を明らかにする「語り部」としての責任を果たすべく、著述を中心に、あらゆる機会を捉えて戦争の残虐さと平和の貴重さを訴えてきました。そして先頃、その一環として鎮魂の気持ちを込めて小冊子 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 を公にしましたところ、大方のご理解と村松在住の皆様のご共感を得ることが出来、昨年秋には有志による「慰霊の集い」が碑前に於いて厳粛に営まれました。―――これは真に有難いことで、私は地元の方々のご厚意によるこの法灯を絶やすことなく、我らが願う「未来永劫に亘る慰霊」 に繋げて頂きたいと強く希っています。

 また、此の碑が村松公園に建てられたのは、本当に幸せだったと思います。何故なら、この公園は、日露戦役を記念して造られた公園であり、其処には昔から忠霊塔や忠魂碑が建てられており、これに我が碑が加わったことによって、村松公園全体が時代を超えて殉国の志士を祀る「聖域」と呼ばれるに相応しい歴史と環境が整えられたと思うからです。

 思えば、身を挺して今日の平和の礎を築いてくれた彼ら--- 私もまた、生ある限り彼らの遺志を生かすことをライフワークに日々微力を続けて参ります。

 因みに、かつて慰霊祭にご列席下さったご遺族からの短歌を数首掲げます。

  早う卒え 壮途の船に沈みたる 無念を惜しむ 戦友の辞に泣く

  生きおらば 白髪しるき年ならむ 遺影の弟は 今も少通兵

  軍帽を 目深にかむり童顔の 兄は志願し 十九で逝けり

  村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて

  何時訪ふも 香華絶えぬと村松に 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

   合掌

 (「村松萬菓」二〇一一版に寄稿)
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