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村松公園に眠る少年兵の碑 大口光威

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通常 村松公園に眠る少年兵の碑 大口光威

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/11 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 村松にお住いの皆様、皆様は村松公園の一隅、小高い丘上に建っている「慰霊碑」と白く墨書された石碑と、その由来をご存知でしょうか。Iこれは、先の太平洋戦争で散華した少年通信兵八百十二柱を祀った慰霊の碑です。其処には、大戦末期当地に招致された村松陸軍少年通信兵学校に学び、その庭訓を胸に勇躍出陣して逝った十一期生の霊も多数含まれています。特に、戦局の緊迫により繰上げ卒業した彼らは、出陣直後、門司から三隻の輸送船に分乗して南方に向かう途中、うち二隻が敵潜水艦の魚雷攻撃によって、相次いで五島列島沖と済州島沖で海没、辛うじて比島に辿り着いた一隻もまた、其処に待っていたのは「生き地獄」にも等しい餓えとマラリアであり、悪戦苦闘、その大半が玉砕し、再びこの村松の地を踏むことはありませんでした。

 純粋に祖国を信じ祖国存亡の危機に臨んで進んで「昭和の白虎隊」 の気概持って国を護ろうとした彼ら---その年齢は十六、七歳から十九歳でした。

 戦後、それまで固く秘匿されてきたこうした事実が明らかにされるにつれ、彼らを悼む声が全国各地から澎湃として湧き上がり、昭和四十五年十月、我々生き残った者の手によってこの慰霊碑が建立されました。以後、慰霊祭は全国から多数のご遺族を迎え三十年間に亘って定期的に続けられましたが、やがて、関係者の高齢化の波に逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を以て幕を閉じ、あとは自主慰霊に切り替わりました。

 しかし一方、戦後六十五年、現在では戦争のことなど、総て忘却の彼方に押しやられ、此処村松でも、秋の季節などに、慰霊碑の背後に映える紅葉の見事さに魅せられて、立ち寄られる姿はあっても、碑の由来を訊ねる方は殆んど見当たらなくなりました。

 また、私自身、これらの戦記や史実を調べていくうち、純粋な少年兵と現実の軍隊との落差の大きさと、更にそれを丸呑みにしてしまう「戦争」という怪物の不気味さを知り、総てに優れていた彼らのこと、果たしてどんな思いを抱いて逝ったのだろうかと、その心中を色々推測するようになっていきました。

 そこで、当時十二期生として在学中だった私は、彼ら先輩の辿った史実を明らかにする「語り部」としての責任を果たすべく、著述を中心に、あらゆる機会を捉えて戦争の残虐さと平和の貴重さを訴えてきました。そして先頃、その一環として鎮魂の気持ちを込めて小冊子 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 を公にしましたところ、大方のご理解と村松在住の皆様のご共感を得ることが出来、昨年秋には有志による「慰霊の集い」が碑前に於いて厳粛に営まれました。―――これは真に有難いことで、私は地元の方々のご厚意によるこの法灯を絶やすことなく、我らが願う「未来永劫に亘る慰霊」 に繋げて頂きたいと強く希っています。

 また、此の碑が村松公園に建てられたのは、本当に幸せだったと思います。何故なら、この公園は、日露戦役を記念して造られた公園であり、其処には昔から忠霊塔や忠魂碑が建てられており、これに我が碑が加わったことによって、村松公園全体が時代を超えて殉国の志士を祀る「聖域」と呼ばれるに相応しい歴史と環境が整えられたと思うからです。

 思えば、身を挺して今日の平和の礎を築いてくれた彼ら--- 私もまた、生ある限り彼らの遺志を生かすことをライフワークに日々微力を続けて参ります。

 因みに、かつて慰霊祭にご列席下さったご遺族からの短歌を数首掲げます。

  早う卒え 壮途の船に沈みたる 無念を惜しむ 戦友の辞に泣く

  生きおらば 白髪しるき年ならむ 遺影の弟は 今も少通兵

  軍帽を 目深にかむり童顔の 兄は志願し 十九で逝けり

  村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて

  何時訪ふも 香華絶えぬと村松に 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

   合掌

 (「村松萬菓」二〇一一版に寄稿)

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