最後の海軍練習生 宮本 泰 その2
投稿ツリー
-
最後の海軍練習生 宮本 泰 その1 (編集者, 2012/12/11 8:49)
- 最後の海軍練習生 宮本 泰 その2 (編集者, 2012/12/12 6:38)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
ここで、当時の時間割を下記に示す。
ここで、軍攻というのは軍事教練のことである。又この時間に手旗信号の訓練もあったように思う。海軍の教練は2列横隊の行進が多く、当時のわれわれは、中学校の教練の方が、陸軍の中国での実戦に鑑み、4列縦隊での行進で、各分隊が軽機関銃を中心に傘型散開し匍匐前進する。実戦さながらの教練だったので、海軍の訓練はどこかのどかな感じがした。しかし、たまには、辻堂海岸から江ノ島までの駆け足はきつかった。
4時限が終わると分隊に帰り昼食となる。しかし、課業の方が生活の息抜きができた。校内の動作は全て駆け足。2人では横並びで右の者が号令を掛ける。複数人では、4列縦隊で、最前列の右に位置する者が号令を掛ける。建物内の階段は、上りは2段飛び、下りは1段だが、早足で降りる。
6時限が終わると、何か訓練をしたような気もするが何をしていたかは失念した。その後は夕食までに、風呂がある日は風呂に入った。上級生の目を気にしながら、素早く入って素早く出る。手拭いは湯に浸けてはいけない。頭の上に載せて入る。ここで思い出したが、無線講節というのがある。これも今となっては一番は思い出せないが、二番にこんな文句がある。「マスト折られてよ-、帆網は切れてよ-、流れ流れてよ-、エトロ島そ-かよ-」。どなたかご存じの人は教えて下さい。
夕食が終わると、やがて、自習時間である。食卓テーブルが机である。「自習止め。用具収め」で自習をやめ、今日一日の反省にはいる。スピーカーからの軍人勅諭が流れる。
「-、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」
「-、軍人は礼儀を重んずべし」
「-、軍人は武勇を尚ぶべし」
「-、軍人は信義を重んずべし」
「-、軍人は質素を旨とすべし」
続いて、五省。
「至誠にもとるなかりしか」
「言行に恥ずるなかりしか」
「気力に欠くるなかりしか」
「努力にうらみなかりしか」
「不精にわたるなかりしか」
この五省は数秒おいてから次の文句が唱えられる。この沈黙の間にその日の反省をする。
その後、掃除をしたような気がする。しかしこれは或いは朝だったかも知れない。縄を結んだもので、廊下或いは自習室を「回れ、擦れ、回れ、擦れ」を何回もくりかえす。やがて、「巡検15分前」の号令で寝具を敷く。「巡検5分前」ここで全て床に付いていなければならない。「巡検」で週番当直が各分隊を見回り「巡検終わり」で一日が終わる。これでやっと開放されるのであるが、ときたま1年生は甲板に整列がかかると、上級生からのお達しがある。ビンタが飛ぶのである。
土曜日の午後には、軍歌練習があった。円陣を組んで二回り、三回りになり、互いに逆方向に行進しながら、「勇敢なる水兵、日本海軍、敵は幾万、日本海海戦、広瀬中佐、若鷲の歌、月月火水木金金」など。
入校してから、警戒警報、空襲警報が多くなり、東京空襲では辻堂の上空をB29が通過して行く。我々が入校する前にグラマンの銃撃で校合にその跡があった。夜寝ていても警報が鳴り響くと「総員退避防空壕」がかかると、嫌がおうでも眠い目を擦りながら、海岸の防空壕に退避した。
海軍には3Sというのがある。Smart、Steady、Silence.つまり、スマートで迅速で沈黙を尊ぶ。確かに士官は短剣を腰に、夏は第二種軍装の白がスマートである。因みに第一軍装が紺で、第三種軍装がカーキ色の開襟の背広型であった。軍人には選挙権も被選挙権もなかった。つまり政治に関与せずであった。それが何故戦争に突入したのかは歴史で知るところである。
昭和20年8月になると、広島、長崎に特殊爆弾、所謂原子爆弾が投下され、一般には短波放送を聞くことを禁止されていたが、学校には短波受信機があり、我々はポツダム宣言などはしるよしも無かったが、なんとなく上級生から漏れたのかもしかしたら何か重大なことがあるのでは、という話がうわさされた。
8月15日に重大放送があると知らされ、正午12時校庭に並ばされ、天皇陛下の玉音放送を聞くこととなる。戦争は終わった。今夜から灯火管制をしなくてもよくなる、と安堵した。それから課業は自習となった。8月25日熊谷支所長から休講となり、私は当時家が仙台だったので、藤沢経由で帰った。藤沢駅では、厚木海軍航空隊の海軍士官が、我々海軍はあくまでも、徹底抗戦する。海軍軍人は帰るな、と檄を飛ばしていた。私は制帽に夏の白い日覆いをしていたので、叫ばれたかと思う。
私の家は仙台にあったので、上野まで行き列車に乗ろうにも、客車は満杯で乗車できず、仕方なく蒸気機関車の炭水車の石炭の上に乗った。走行と共に次第に石炭が減って、姿勢が次第に低くなってゆく。トンネルに入ると煙に苦しめられた。福島で機関車交替で切り離されたため、炭水車を降り、ようやく、一両目車両に乗車でき、仙台まで帰れた。
昭和20年9月20頃であったか、授業再開のため、学校に戻るようにとの通達がきたが、戦争のためかなりの船は沈没し、このまま学校を卒業しても乗る船がなく、私は将来のことを考えて学校へ戻らなかった。その後、仙台工業専門学校を出て逓信省電気通信研究所に就職した。そして通勤場所がまた偶然、辻堂分室になる。昭和24年のある土曜日に(役所は土曜日は半ドンであった)小田急電鉄の鵠沼海岸駅で降りて、4年前の記憶をたよりに海岸の昔の分隊のあった場所を尋ねた。そこには建物のコンクリートの基礎だけが風雨に曝されて、強者共の夢の跡を残していた。
後から判ったことだが火事で焼失したようだ。私の藤沢支所は海軍に始まり海軍で終わった。
齢は喜寿を迎え、ふと昔のことを考える時、私の青春時代に風穴がポッカリとあき、せめて1高7期の人並びに4分隊の同じ班の人達の消息を知りたいと思い、平成15年の調布祭で目黒会を訪ね、つたない文章を書く気になった。戦後、7期は各部が組替えとなったらしいと聞いている。事実、同窓会名簿をみると、一部高等科は4期までが卒業し、5期以後は3部高等科が昭和21年6月が最後で、本科甲類、乙類、通信専攻科、技術専攻科などとなっている。
私は戦争中の海軍にもかかわらず、アコーデオンを持ち込み4分隊の甲板士官の要求に応じて軍歌を奏でていたのであるいはご記憶のかたがあるのではないかと思う。
また最近までいろいろ出版された書籍をみても、予備学生、予備生徒、予科練習生のものを調べても、我々海軍通信術予備練習生の記事はみあたらない。高等商船学校や水産講習所のことは出版されても、我等先輩の話は残念ながら無い。いまの後輩達はその前身の無線講習所や目黒会の意味も知らない人達が多いのではないかと思い、是非ともこのことを残しておく必要があるのではと思っている。