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最後の海軍練習生 宮本 泰 その1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/11 8:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 昭和16年12月8日真珠湾攻撃に大勝利した日本は17年の6月5日に始まったミッドウェイ海戦は、空母「赤城、加賀、飛龍、蒼龍」4隻喪失、重巡「三熊」喪失、重巡「最上」大破、駆逐艦2隻中破、給油艦1隻小破、飛行機284喪失。ところが、大本営海軍部発表は、敵空母1隻撃沈1隻大破、巡洋艦1隻撃沈、潜水艦1隻撃沈。我が方の損害は空母1隻喪失同1隻大破、巡洋艦1隻大破、末帰還機35機となっている。この事は我々庶民には知る由もなかった。ミッドウェイ海戦を境に日本は圧倒的アメリカの物量の前に前線の戦闘は日増しに不利になっていった。

 昭和18年10月21日小雨降る明治神宮外苑競技場を大学、高等学校、高専の学生達が、三八の歩兵銃を肩にゲートルで行進する姿は、兵役延期を解除され、戦地に赴く姿であった。
 昭和19年秋、中学5年在学で、板橋の陸軍造兵廠に学徒動員されていた。徴兵検査があり、第二乙種合格で、平時では徴兵免除になるが、戦時においては翌年には徴兵が待っている。この時偶然、中央無線電信講習所生徒募集を目にし受験した。翌年3月に合格通知(写真)を受取り海軍を志願した。昭和20年4月20日に学校に出頭し入学手続きを行った。希望どおり海軍志願を許され、4月某日、鵠沼海岸の藤沢支所へ入校した。

 4分隊8班(記憶が薄れ不確か)だったと思う。学年は、一部高等科七期二組である。入校後、略帽、事業服及び靴を支給された。合格通知書にあった学生服は作らずに済んだ。帽子と記章は目黒入学時に買ったように記憶。帽章はコンパスマークに真ん中にRマークが入っていた。今の商船大学のコンパスマークと同じで、Rマークだけが異なっていた。その帽章も家の移転と共に無くしてしまった。

 藤沢支所入校と同時に海軍通信術甲種予備練習生となり、軍位は海軍水兵長である。町中では、海軍二等兵曹以上には、挙手の敬礼をしなければならない。一部高等科は席上課程2年、実習課程が1年であるが、戦況が逼迫し、2年が終了すると6ケ月海兵団に入団し、ここで海軍一般の教育が施される。海兵団を終了すると1ケ月自宅待機後、招集されて、海軍予備兵曹長(准尉)となり、1年間部隊に配属され、海軍予備少尉に任せられる。ここで、問題となったのは、陸軍志願の人達との待遇との差である。陸軍では、予備生徒で、伍長待遇であった。卒業後はただちに陸軍少尉となり、海軍志願者との差が海軍当局との問に終戦まで尾を引いた。

 予備練習生は教科書、衣服は官給品でただであり、月額十五円が支給された。
 練習生の朝は、スピーカからの総員起こし15分前役員起床に始まる。次に総員起こし5分前の号令。この時点で起きる用意をしておいて、「総員起こし」ですぐ起きて事業服に着替え、床を畳んで所定の置場へ仕舞わなくてはならない。

 我々1年生が入校した時は、寝室は満杯でねるところがなく、自習室の机と椅子を隅に片づけて、板の間に直にふとんを敷いて寝た。ふとんを片づけた後に机と椅子を配置しなければならない。それから甲板(廊下のことを指す)に整列。分隊長に各班人員の報告。「かかれ」の合図とともに、練兵場へ走り海軍体操。終わって洗面の後、各分隊に戻り、食器を机にならべ、食事当番は「めしあげ」と称してご飯とみそ汁を受取にゆく。

 班長が席に着くとともに、「いただきます」と食事がはじまる。この食事のマナーも海軍独特で、ご飯茶碗は手にせず食卓に置いたまま、みそ汁椀は左手に持ちたべる。これは軍艦内が狭いために、左隣の人に肘が邪魔にならないための配慮である。また、食事は全員が終わるまで席をたたない。終わった者は箸を置いたまま手を膝に待っている。必然と早飯にならざるを得ない。食事が終わると当番は食器類を烹炊所に戻す。その後、素早く厠に行かないと、混んで朝の整列に間に合わなくなる。

 此処で分隊に着いて説明すると、6分隊あり(或いは4分隊か記憶が曖昧)、各分隊には8乃至9班あったのではないかと思う。各班には1年生と2年生の混成で、しかも、4月入所と10月入所とでは、期が異なる。1部高等科1期生は昭和17年4月、2期生は10月、3期生は18年4月、4期生は10月、19年4月が5期生、10月6期生、20年4月が7期生である。従って同じ班に4期生が混在した。勿論班長は最上級生である。また各分隊には甲板士官がいた。甲板士官は無線講の先輩で4分隊は名前は失念したが兵曹長だったように思う。1期生は7クラスで約480人という。我々7期は何クラスだが今となっては思いだせない。しかし募集要綱では500人とあるから、かなり、通信士宮が不足していたのであろう。「課業始め」で練兵場に各組別に整列。組長が分隊士に「1高7期2組、総員57名、事故者無し。現在員57名」と報告し、各教室に駆け足で向かう。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/12 6:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ここで、当時の時間割を下記に示す。

 ここで、軍攻というのは軍事教練のことである。又この時間に手旗信号の訓練もあったように思う。海軍の教練は2列横隊の行進が多く、当時のわれわれは、中学校の教練の方が、陸軍の中国での実戦に鑑み、4列縦隊での行進で、各分隊が軽機関銃を中心に傘型散開し匍匐前進する。実戦さながらの教練だったので、海軍の訓練はどこかのどかな感じがした。しかし、たまには、辻堂海岸から江ノ島までの駆け足はきつかった。

 4時限が終わると分隊に帰り昼食となる。しかし、課業の方が生活の息抜きができた。校内の動作は全て駆け足。2人では横並びで右の者が号令を掛ける。複数人では、4列縦隊で、最前列の右に位置する者が号令を掛ける。建物内の階段は、上りは2段飛び、下りは1段だが、早足で降りる。

 6時限が終わると、何か訓練をしたような気もするが何をしていたかは失念した。その後は夕食までに、風呂がある日は風呂に入った。上級生の目を気にしながら、素早く入って素早く出る。手拭いは湯に浸けてはいけない。頭の上に載せて入る。ここで思い出したが、無線講節というのがある。これも今となっては一番は思い出せないが、二番にこんな文句がある。「マスト折られてよ-、帆網は切れてよ-、流れ流れてよ-、エトロ島そ-かよ-」。どなたかご存じの人は教えて下さい。

 夕食が終わると、やがて、自習時間である。食卓テーブルが机である。「自習止め。用具収め」で自習をやめ、今日一日の反省にはいる。スピーカーからの軍人勅諭が流れる。

  「-、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」
  「-、軍人は礼儀を重んずべし」
  「-、軍人は武勇を尚ぶべし」
  「-、軍人は信義を重んずべし」
  「-、軍人は質素を旨とすべし」
続いて、五省。
  「至誠にもとるなかりしか」
  「言行に恥ずるなかりしか」
  「気力に欠くるなかりしか」
  「努力にうらみなかりしか」
  「不精にわたるなかりしか」

 この五省は数秒おいてから次の文句が唱えられる。この沈黙の間にその日の反省をする。

 その後、掃除をしたような気がする。しかしこれは或いは朝だったかも知れない。縄を結んだもので、廊下或いは自習室を「回れ、擦れ、回れ、擦れ」を何回もくりかえす。やがて、「巡検15分前」の号令で寝具を敷く。「巡検5分前」ここで全て床に付いていなければならない。「巡検」で週番当直が各分隊を見回り「巡検終わり」で一日が終わる。これでやっと開放されるのであるが、ときたま1年生は甲板に整列がかかると、上級生からのお達しがある。ビンタが飛ぶのである。

 土曜日の午後には、軍歌練習があった。円陣を組んで二回り、三回りになり、互いに逆方向に行進しながら、「勇敢なる水兵、日本海軍、敵は幾万、日本海海戦、広瀬中佐、若鷲の歌、月月火水木金金」など。

 入校してから、警戒警報、空襲警報が多くなり、東京空襲では辻堂の上空をB29が通過して行く。我々が入校する前にグラマンの銃撃で校合にその跡があった。夜寝ていても警報が鳴り響くと「総員退避防空壕」がかかると、嫌がおうでも眠い目を擦りながら、海岸の防空壕に退避した。

 海軍には3Sというのがある。Smart、Steady、Silence.つまり、スマートで迅速で沈黙を尊ぶ。確かに士官は短剣を腰に、夏は第二種軍装の白がスマートである。因みに第一軍装が紺で、第三種軍装がカーキ色の開襟の背広型であった。軍人には選挙権も被選挙権もなかった。つまり政治に関与せずであった。それが何故戦争に突入したのかは歴史で知るところである。

 昭和20年8月になると、広島、長崎に特殊爆弾、所謂原子爆弾が投下され、一般には短波放送を聞くことを禁止されていたが、学校には短波受信機があり、我々はポツダム宣言などはしるよしも無かったが、なんとなく上級生から漏れたのかもしかしたら何か重大なことがあるのでは、という話がうわさされた。

 8月15日に重大放送があると知らされ、正午12時校庭に並ばされ、天皇陛下の玉音放送を聞くこととなる。戦争は終わった。今夜から灯火管制をしなくてもよくなる、と安堵した。それから課業は自習となった。8月25日熊谷支所長から休講となり、私は当時家が仙台だったので、藤沢経由で帰った。藤沢駅では、厚木海軍航空隊の海軍士官が、我々海軍はあくまでも、徹底抗戦する。海軍軍人は帰るな、と檄を飛ばしていた。私は制帽に夏の白い日覆いをしていたので、叫ばれたかと思う。

 私の家は仙台にあったので、上野まで行き列車に乗ろうにも、客車は満杯で乗車できず、仕方なく蒸気機関車の炭水車の石炭の上に乗った。走行と共に次第に石炭が減って、姿勢が次第に低くなってゆく。トンネルに入ると煙に苦しめられた。福島で機関車交替で切り離されたため、炭水車を降り、ようやく、一両目車両に乗車でき、仙台まで帰れた。

 昭和20年9月20頃であったか、授業再開のため、学校に戻るようにとの通達がきたが、戦争のためかなりの船は沈没し、このまま学校を卒業しても乗る船がなく、私は将来のことを考えて学校へ戻らなかった。その後、仙台工業専門学校を出て逓信省電気通信研究所に就職した。そして通勤場所がまた偶然、辻堂分室になる。昭和24年のある土曜日に(役所は土曜日は半ドンであった)小田急電鉄の鵠沼海岸駅で降りて、4年前の記憶をたよりに海岸の昔の分隊のあった場所を尋ねた。そこには建物のコンクリートの基礎だけが風雨に曝されて、強者共の夢の跡を残していた。
 後から判ったことだが火事で焼失したようだ。私の藤沢支所は海軍に始まり海軍で終わった。

 齢は喜寿を迎え、ふと昔のことを考える時、私の青春時代に風穴がポッカリとあき、せめて1高7期の人並びに4分隊の同じ班の人達の消息を知りたいと思い、平成15年の調布祭で目黒会を訪ね、つたない文章を書く気になった。戦後、7期は各部が組替えとなったらしいと聞いている。事実、同窓会名簿をみると、一部高等科は4期までが卒業し、5期以後は3部高等科が昭和21年6月が最後で、本科甲類、乙類、通信専攻科、技術専攻科などとなっている。

 私は戦争中の海軍にもかかわらず、アコーデオンを持ち込み4分隊の甲板士官の要求に応じて軍歌を奏でていたのであるいはご記憶のかたがあるのではないかと思う。

 また最近までいろいろ出版された書籍をみても、予備学生、予備生徒、予科練習生のものを調べても、我々海軍通信術予備練習生の記事はみあたらない。高等商船学校や水産講習所のことは出版されても、我等先輩の話は残念ながら無い。いまの後輩達はその前身の無線講習所や目黒会の意味も知らない人達が多いのではないかと思い、是非ともこのことを残しておく必要があるのではと思っている。

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